良心の呵責を押し殺して【ヨナ書ー悔い改めの預言者】#1

今日の聖句はこちら

1:1主の言葉がアミッタイの子ヨナに 臨んで言った、 1:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。 1:3しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。ヨナ1:1-3(口語訳)

目次

解説

主の言葉が臨んだ

1:1主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、1:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。……ヨナ1:1,1:2 (口語訳)

ヨナ書は預言者の召命の場面から始まります(エレミヤ1:2,エゼキエル1:2,3,ホセア1:1,ヨエル1:1)。

主の言葉が臨み、立って行き、呼ばわる。この一連の動きこそが預言者の働きと言えるでしょう。ヨナ書1章1節2節には、預言者の働きが簡潔にまとめられているのです。

旧約聖書では、「預言者」(ナビィ)という言葉が頻繁に使われており、これは神の代弁者として定義されています。 預言者は「先見者」として神の意志を見分け、「預言者」としてそれを他者に伝えました[1]

預言者として求められた役割は、神の意志を実行することでした。しかし、ヨナは明確に神に意志が伝えられていたにもかかわらず、預言者として伝えることを拒んでいきます(ヨナ1:3)。

ヨナは北イスラエルのために働いていたと考えられますが、この北イスラエルの脅威そのものであったのが、残忍さが有名な敵国アッシリアでした。最後には北イスラエルはアッシリアの手によって滅ぼされていきます。メッセージを伝える相手が罪におぼれている敵国であったことがヨナの心をかき乱していったのです。

「大きな町ニネベ」という言い回しはニネベがアッシリアの首都であった可能性を示唆しています[2]。また、この敵国アッシリアの首都ニネベは「血を流す町」(ナホム3:1) と表現されているのです。

悪がわたしの前に上ってきた

彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。ヨナ1:2

ナホム書3章を見るとアッシリアの一番の罪は、その残虐性であると考えられます。戦争の神を拝み、戦争行為が礼拝であり、人々を残虐に殺害していたアッシリアの悪を神は許されませんでした[3]

ニネベは、その物質的に繁栄すると共に、犯罪と不正の中心地であった。霊感は、ニネベを「血を流す町。その中には偽りと、ぶんどり物が満ち」ているとその特色を描写している[4]

しかし、ヨナの時にはまだアッシリアに対する裁きは留められていました。それは「主は罰すべき者を決してゆるされない者」であると同時に、「主は怒ることおそく、力強き者」だからです(ナホム1:3)。アッシリアの罪は神の前に上ってきたと表現されていますが、同じ表現がノアの時代の描写やソドムとゴモラの裁きの場面で登場します。

ノアの洪水以前の世界の罪(創世記6:5,11)とソドムとゴモラの住民(創世記18:20,21)に対して、この表現またはそれに似た表現が使われています。どちらの場合も恩恵期間が終わろうとしていました。これはおそらく、このニネベにもあてはまります(ダニエル4:17参照)[5]

つまり、敵国アッシリアと首都ニネベに対する最後の警告のメッセージを伝える使命がヨナに与えられたのでした。

主の前を離れてタルシシ

しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。ヨナ1:3(口語訳)

ヨナ書1章3節では「主の前を離れて」というフレーズが2回繰り返され、強調されています。加えて著者はヨナの向かったところが「タルシシ」であることを3回繰り返し、強調するのです。

「タルシシ」がどこにあったのかはいくつかの説があります。最も可能性の高い場所はスペイン南西部で、その当時考えられるニネベの反対側に位置している一番遠い場所でした[6](イザヤ60:9,66:19)。またもう一つの説は「タルシシ」が「広い海」という基本的な概念を持っていることから地名ではなく、海そのものを指しているというものです[7]

いずれにしても、ここではヨナが自らの使命から逃れるために、ニネベからそして、神を礼拝するコミュニティーから離れようとしているのが強調されていることに変わりはありません。

ヨナ書1章3節には、ヨナが「離れて」「立って」「下って」「行って」「払い」「船に乗る」姿が描かれています。この動詞の羅列からヨナの動揺と慌てふためく様子が目に浮かぶようです。

ヨナがこのような行動に出た理由としては2つ考えられます。

まずヨナは敵国であるアッシリアの滅亡を望んでいた可能性があります(ヨナ4:1-3)[8]。ヨナの懸念通り、アッシリアは一時的には悔い改めますが、しばらくするともとに戻り、北イスラエルの敵として牙をむきました。

また2つ目に残虐で罪におぼれるアッシリアへの宣教の困難さゆえに使命からの逃避をした可能性です。

ヨナは、この任命の困難さと、一見不可能に思われるところから、この召しが賢明かどうかを疑うように誘惑された。人間的見地からするならば、あの高慢な町に、このような使命を宣言しても、何の益するところもないように思われた。彼は、自分の仕えている神が、全地全能の神であることを、一時忘れたのである。彼が、なおも、ためらい、疑っているうちに、サタンは、彼を失望に陥れてしまった[9]

戦争の神をあがめ、戦争行為を礼拝としている人々に愛の神はまったく異なる存在でした。周辺諸国を攻め入り、勝利を収めていたアッシリアにとって、自らの滅亡は受け入れがたいものでした。ヨナのメッセージは彼らの価値観にまったく合わないものだったのです。

今日のメッセージ

預言者の役割が神の意志を見分け、それを他者に伝えることであれば、広い意味では伝道や宣教にたずさわるすべての人があてはまります。

わたしたちが人々に聖書の価値観を伝えようとするときに、それが世間の価値観とあまりにも違うものであることに気づくときがあります。もしかすると、わたしたちが知っているメッセージは多くの人々の価値観にまったく合わないものかもしれません。

そのときにヨナは足を止め、自らの義務から逃れるためにタルシシへと向かうのです。

ヨナはその遠い、にぎやかな場所で、自分の義務から逃れ、良心の声を静めることを望んだのです[10]

私たちも同じように神の意志を知りながら、良心の呵責を静めようとにぎやかな場所に出ていくことはないでしょうか。神に託された使命を置いて、まったく正反対のタルシシへと行きたいという思いにかられることはないでしょうか。もしくは、その働きの困難さを考えたときにヨナのように慌てふためくことはないでしょうか。

この預言者は、神が人に重荷を負わせ、その重荷を神の御心に従って負わせるとき、神はそれを負わせるために人を強くされることを理解しませんでした。神の命令には、それを遂行する力が伴います[11]

このヨナ書で私たちが学ぶべき教訓の1つ目は「神の命令には必ずそれを実行する力が与えられる約束もある」ということです。ヨナの時代と同じように悪が神の前に上ってくる時代に、神はわたしたち一人ひとりに「立ちなさい」と言われています。

参考文献

[1]Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 903). Review and Herald Publishing Association.

[2]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, pp. 447–450). Dallas: Word, Incorporated.

[3]Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 92). Review and Herald Publishing Association.

[4]エレン・G・ホワイト『明日への希望』「国と指導者 22章」福音社、491頁

[5]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 998). Review and Herald Publishing Association.

[6]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, p. 110). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[7]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, pp. 450–451). Dallas: Word, Incorporated.

[8]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、35頁

[9]エレン・G・ホワイト『明日への希望』「国と指導者 22章」福音社、491頁

[10]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 998). Review and Herald Publishing Association.

[11]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 998). Review and Herald Publishing Association.

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次