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1:7やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。 1:8そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。 1:9ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。 1:10そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。ヨナ1:7-10(口語訳)
人々は互に言った
やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。ヨナ1:7(口語訳)
船乗りたちは激しい嵐を見て、誰かが神の不興を買ったためではないかと考えました。「互に言った」という表現は多くの乗組員がその考えに同意していたことを示唆しています(創世記11:3、37:19)。
「船を陸にこぎもどそう」(ヨナ1:13)と人々が動いているので、もしかすると出航してすぐ嵐に襲われたのかもしれません。もしそうであるならば、船乗りたちの経験にはない急激な大気の変化が起こったために嵐が起きたことになります。そう考えると、彼らが神の力の介入を感じたとしても不思議ではありません。
何人が船に同乗していたのかは書かれてはいませんが、多くの交易品を載せていたことや8節でヨナが何者であるかを問いただしていることから、少ない人数ではなく、それなりの大人数を乗せた船だったのではないかと考えられます。
あなたは何者か?
1:8そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。 1:9ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。ヨナ1:8,9(口語訳)
人々はヨナに矢継ぎ早に質問を浴びせていきます。ヨナの職業や国、出身が分かれば、どのような神を信じているのかを知ることができるからです。
「あなたの職業は何か」という質問は「普段の職業はなんですか?」という意味か、もしくは「この船でのあなたの仕事はなんですか?」という意味の質問です[1]。前者の質問は宗教的背景を探る質問で、ヨナの職業がなんらかの宗教とつながっていないかを探っていきます。後者の質問は人々がヨナの存在を正確に理解していなかったこと、また把握できないほど多くの人々が船に乗っていたことを示唆します。いずれにしても、人々は焦りからヨナに質問を浴びせていくのです。
そのような人々の質問にヨナは「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」と答えていきます。(ヨナ1:9)。ヨナ書1章の文構造はこのヨナの言葉を最も強調しているのです[2]。
B. ポーテンは、おそらくバール・シャメム「天の主」を崇拝していたフェニキアの船員に語りかけるのに最もふさわしいと論じています[3]。
ヨナは「主を恐れる者」であることをはっきりと証していきました。人々がヨナの宗教的背景を探っていたために、話さざるを得なくなってしまったのか、もしくは気力を失っていてもなお、預言者としてのアイデンティティが芽生えたのかはわかりません。
いずれにしても、ヨナは「主を恐れる者」であることをはっきりと伝えなければならない状態におちいったのです。神の使命に困難を覚え、そこから逃げ出したにもかかわらず、神に用いられ、ヨナは同乗したフェニキアの人々にメッセージを伝えていきます。
人々が心を動かされたのは、ヨナの品性によってではありませんでした。彼らはヨナの中に特別な美徳を見てはいませんし、またヨナがどのような経歴の持ち主であるかも理解していませんでした。ヨナと彼らとの間に交流がほとんどなかったことは、「あなたはどこから来たのか」(ヨナ1:8)という質問からも明らかです。
ヨナがどのような状態であったとしても、神はヨナを通して働かれました。人々が神を知ることができたのは、皮肉なことにヨナのおかげだったのです。
主を恐れる
そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。ヨナ1:10(口語訳)
ヨナの「わたしは……主を恐れる者です」(ヨナ1:9)という言葉の直後に、「恐れ」という表現が続きます。「人々ははなはだしく恐れて」と訳されてあるように、この人々の「恐れ」は文構造的にも強調されて書かれているのです[4]。
乗組員たちは異教の神々を礼拝している人々でしたが、非常に信仰深かったことが「はなはだしく恐れて」という表現からうかがえます。この後、乗組員たちは「主に呼ばわって」いき(ヨナ1:14)、主のみ心であるとしてヨナを海に投げ入れていくのです。
預言者であるヨナが主を「恐れなかった」にもかかわらず、異教徒の乗組員たちがここで主を「恐れて」いるのです。その主を恐れた人々がヨナを海へと投げ入れると、海は穏やかになっていくのでした。この嵐の出来事は彼らが主を恐れるようになるには、十分すぎる経験となりました。
古代中東では、神の力の真のテストは海を支配できるかどうかでした(ルカ8:25も参照)[5]。
まとめ―適用―
使命を捨て、気力を失い、信仰が弱っているヨナを用いて、船に同乗していた多くの人々を神は導かれました。このことは私たちに大切な教訓を教えてくれます。
それは「神の働きは人の能力や状況に左右されるものではなく、神が働かれるかどうかによって左右される」ということです。これはヨナにとっても励ましとなったのではないでしょうか。ヨナは人々が犠牲を捧げ、神を礼拝するところまで見ることはできませんでしたが、少なくとも人々が「主に呼ばわる」ところを目にしました。
30年から50年前にフェニキアからバアル信仰がイスラエルに持ち込まれ、真の神への信仰が消されていこうとしたことをヨナは伝え聞いていたことでしょう。カルメル山でエリヤがバアルの預言者たちと対峙するきっかけは、フェニキアでした。
アハブの時代には、フェニキアの王女イゼベルがバアルとアスタルテ信仰をイスラエルに持ち込み(列王上16:31,32,18:19参照)、真の神の信仰をほとんど消滅させたようにです[6]。
そのフェニキアの人々がヨナの目の前で「主に呼ばわる」のです。心身ともに弱りきったヨナを通して、乗組員たちに神が触れられるのをヨナは見ました。このときに、彼はもう一度神の力を確信していったのかもしれません。
ちょうどエリヤが燃え尽きた状態からもう一度立ち上がったように(列王上19章)、ヨナは海に投げ込まれた後、復活していくことになるのです。
[1]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, pp. 115–116). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.
[2]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, pp. 116–120). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.
[3]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, p. 116). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.
[4]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, p. 116). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.
[5]Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 833). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.
[6]Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 883). Review and Herald Publishing Association.