神の権利を示すとうごま【ヨナ書ー悔い改めの預言者】#8

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4:6時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 4:7ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 4:8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。 4:9しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。 4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。ヨナ4:6-11(口語訳)

目次

ヨナの不快感

時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ヨナ4:6(口語訳)

当時のメソポタミア地方では、木材が不足しており、高価な輸入品でした。そのことを踏まえると、ヨナはそのへんの草や木の枝を使ったと考えられます[1]

ニネベの東側は丘陵地帯で、そこにヨナは簡易的な小屋をつくりましたが、暑さが厳しくなり、耐えられないものになってきました[2]。そのようなときに神はヨナを暑さの苦痛(ヘブライ語ではラアー)から救うために、とうごまを備えられます。

また、ヨナの不快感は肉体的なものだけでなく、神に対する不満そのものだったとも言えるでしょう。

ヘブライ語のラアー(苦痛)は、悪、不幸、困難、惨めさを表す一般的な言葉です。ヨナの不快感は、肉体的なものよりも、精神的、霊的なものであり、それは彼が苦しんでいると感じていた苛立ち、屈辱、失望によるものでした[3]

神の判断の正当性を示すとうごま

4:7ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。 4:8やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。ヨナ4:7,8(口語訳)

とうごまの生育は非常に早いですが、同時に切ったり傷つけたりするとすぐに枯れてしまう弱さがありました[4]。このとうごまが枯れたとき、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」とヨナは言います。

ヨナはこの前の3節でも「わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」(ヨナ4:3)と口にしていますが、3節と8節ではまったく異なるヨナの不満があります。「生きるより死ぬ方がまし」というヨナの感情は同じですが、その原因は異なるのです。

3節では、彼は神の救いの権利について不満を持ちますが、ここでは神の破壊の権利について不満を持っているのです[5]

このヨナの不満に、とうごまを用いて神は向き合われました。

しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。 ヨナ4:9(口語訳)

神の救いの権利についての不満をヨナが口にしたときと同じように、神は「あなたの怒るのはよくない」と言われます。ヨナに怒る権利がないことを示され、その上で神には破壊する権利も救い出す権利もあることを明確に示していくのです。

この本の最後の節は、神に破壊する権利も救い出す権利もあることを明確に述べています[6]

ヨナは「町のなりゆきを見きわめようと」し(ヨナ4:5)、神の判断の正当性を疑ったヨナに対して、神はその判断の正当性をとうごまを通して、示されていきました(ヨナ4:10-11)。

惜しまないでいられようか

4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。ヨナ4:10-11(口語訳)

「惜しまないでいられようか」という問いかけでヨナ書は終わりますが、ヨナにはこの言葉だけで十分だったのでしょう。彼はこの後、神の権威とその判断の正当性を認めて、悔い改めていったのではないでしょうか。

「右左をわきまえない人々」という表現は2つの可能性を持っています。ひとつは自分で判断できる年齢に達していない幼い子どもたちという解釈ですが、これには問題があります。

12万人の幼い子どもたちをもとに単純に計算すると、ニネベは約60万人の都市であったことになりますが、これは現在知られている古代都市の規模とは一致しないのです。もし、幼い子どもたちを指しているなら、ニネベだけでなく、その周辺をも含んでいることになります[7]

もうひとつは善悪の知識が不完全な状態であることを指す比喩表現であるという解釈で、多くの神学者たちから支持されています。

ヨナ書はここで、ニネベの人々が主の律法を知らなかったことを教えています。「右も左も」という表現はバビロニアの写本の中にも見られるもので、「真理と正義」あるいは「法と秩序」と同義に用いられています。このようなわけで、主はヨナにニネベに対する裁きを延期すると言われます。彼らが道徳的に無知だったからです[8]

聖書の光を知らない人々を、神は厳しく扱われる方ではなく、与えられた光の中で歩むことを望んでおられるのです(ローマ2:11-16)。ニネベの人々は完全に聖書の神のことを理解できたわけではありませんでした。しかし、彼らが彼らなりに与えられた光の中を歩もうとしているのを見られた神はあわれまれるのです。

その神のあわれみは、人々だけでなく「あまたの家畜」をも惜しんでおられるという表現から見ることができるでしょう(ヨナ4:11)。同じような表現がマタイによる福音書の中でも「すずめは(中略)あなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」(マタイ10:29)という表現で出てきます。

ユダヤの伝承によれば、神は動物を優しく扱う人々を顧みられます。動物は人間の好意に報いることができないからです[9]

まとめ―適用―

神の救いの権利と破壊の権利について、ヨナは不満を口にします。ヨナは神の判断を理解することができなかったのです。そのようなヨナに対して、神はとうごまを通して説明されます。そして、神が救いの権利と破壊の権利を持っていること、その判断が愛に基づいており、正当なものであることがヨナに伝えられたところで、このヨナ書は閉じられます。

ニネベを離れたヨナの働きがどうなっていったかはわかりません。ただひとつわかるのは、ヨナは神の愛と裁きの正当性を理解し、悔い改めて、そのメッセージを伝えるためにヨナ書を書き綴ったということです。

その後、ヨナ書は大いなる贖いの日(レビ16章)に読まれるようになりました。興味深いことに、大いなる贖いの日を神の裁きとその正当性が明らかにされる日であると、ダニエルはその預言の中で表現しています。

大いなる贖いの日は救いの計画の最終段階を象徴するものです。神の救いの計画の最終段階では、神の愛とその統治の正当性を認めるヨナの悔い改めが求められているのではないでしょうか。

神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。黙示録14:7(口語訳)

[1]Stuart, D. (1987). Hosea–Jonah (Vol. 31, p. 504). Dallas: Word, Incorporated.

[2]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、83頁

[3]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 1007). Review and Herald Publishing Association.

[4]Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (pp. 297–298). New York: Harper & Brothers.

[5]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, pp. 142–143). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[6]Wiseman, D. J., Alexander, T. D., & Waltke, B. K. (1988). Obadiah, Jonah and Micah: an introduction and commentary (Vol. 26, p. 144). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[7]Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 4, p. 1007). Review and Herald Publishing Association.

[8]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、86頁

[9]ジョアン・デイヴィドソン『安息日学校聖書研究ガイド ヨナ書』セブンスデー・アドベンチスト世界総会安息日学校・信徒伝道部、87頁

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