【ミカ書】霊的、物的回復【7章解説】

目次

中心思想

自分のまわりの悪ばかり見ていると、私たちは失望におちいります。イエスのすばらしさと慈愛に心を向けることによってのみ、私たちは彼の品性を反映する者となることができます。

アウトライン

  • 国民的背信(ミカ7:1~6)
  • 神に心を向ける(ミカ6:7)
  • 回復の幻(ミカ7:8~13)
  • 神の保証(ミカ7:14~17)
  • ゆるされた残りの民(ミカ7:18~20)

悔い改める民のためのゆるし

ミカは主をながめ、自分自身と自分の民の罪深さを認め、それから悔い改めをもって主に帰っています。もし民がミカの模範に従うなら、彼らは神の約束されたゆるしと希望にあずかるのです。ミカは自分自身の必要を認めることによって、民の必要を理解することができました。

ミカ書の終わりに記された歌は幸福と希望に満ちていて、ゆるしと回復の約束をもって終わっています。

最近、禁煙講習会でニコチン中毒を克服したある婦人が、講師に次のように言いました。「あなたがたアドベンチストはほんとうに幸福で、健康的な人々ですね。あなたがたには悩みなど全くないでしょう」。ほんとうにそうあってほしいものです。そうあるべきなのです。神はイエス・キリストを通して、私たちがこの世に神をあらわすうえで必要なあらゆる力を与えておられます。ミカ書7章は、それがまもなく現実のものとなることを約束しています。

国民的背信(ミカ7:1~6)

質問1

ミカはどんなたとえを用いて、イスラエルの霊的貧困を描写していますか。ミカ7:1

収穫後に食べられるようなぶどうやいちじくが残っていないように、イスラエルには信心深い民は残っていません。国民の背信は国家の滅亡につながりました。改訂標準訳聖書はミカ書7:1を次のように訳しています。「わたしはわざわいである。夏のくだものが集められ、ぶどうの取り入れが終わったときのようになったからである。食べるべきふさは一つもない」。

質問2

ミカは失望のあまり、地上に神を敬う者はいないと宣言しています。それはどんな特別な状況のゆえでしたか(ミカ7:2、3)。今日の世界についても同じことが言えますか。

質問3

新約聖書の預言者は終わりの時代のどんな状態がミカの時代の状態と似ていると預言していますか。Ⅱテモ3:1~9

自らの滅びに関して責任を負う「私たちはこの地上の歴史の最後の時代に生きている。背信や真理の否定は驚きに値しない。人々は魂の滅びにつながる不信仰のとりこになっている。偽りの説教者が出現する危険がつねにある。彼らは自分の語る言葉と矛盾した生活をしている。しかし、時が続くかぎり、警告と勧告の言葉が聞かれるであろう。犯してはならない悪を行なっている者たちは、主の定められた使者の叱責と勧告を受けると、その言葉に反抗し、懲らしめを拒む。彼らはパロやネブカデネザルのように罪を犯しつづけ、ついには主によって理性を奪われ、その心は感じなくなる。彼らは主の言葉を聞く。しかし、もしそれに耳を傾けないなら、主は彼ら自身の滅びの責任を彼らに負わせられる」(『セレクテッド・メッセージズ』第2巻147ページ)。

質問4

ミカの時代に見られた疑いと不信を、再臨直前に見られるとイエスが預言された状況と比較してみましょう(ミカ7:4~6をマタ10:21~23、34~39と比較)。

神に心を向ける(ミカ6:7)

人間の心にある悪の傾向はどの時代においても同じです。この意味において、歴史は繰り返されます。ミカの時代におけるイスラエルの霊的貧困は、今日の私たちの世界をよく例示しています。ただ、再臨が近づけば近づくほど、悪が社会に侵入してきます。罪が科学であるかのように扱われています。不信仰が偽りの信心によって隠されています。不道徳が愛のようにみなされています。

質問5

ミカはどんな決意をしましたか。その結果はどうでしたか。ミカ7:7イザヤもよく「主を待ち望む」という表現を用いています(イザ8:17、40:31参照)。それは積極的に主に信頼し、主に頼る気持ちを示しています。

自分のまわりの人間にではなく、主に心を向けたとき、ミカは自分自身の罪深さと必要を認めました。自分の仕える民に同情することができるようになりました。主の代わりに人間に心を向けるとき、私たちは必ず失望します。キリストとキリストの慈愛に心を向けるときにのみ、私たちは安全です。

罪人に対する同情

「キリストは確信をもって人を尊敬し、自尊心をお起しになった。最もひどく堕落した人さえも、キリストはていねいに取り扱われた。敵意、堕落した精神、汚れた心に接することはキリストにとって間断ない心の痛みであったが、敏感な感覚が衝動を受け、洗練された趣味に不快を感得されたことをお示しになるような言葉はひと言も口にされなかった。どんな悪い習慣、強い偏見、または高慢な感情に対しても、キリストはつねに情深いやさしさをもって接しられた。わたしたちもキリストの精神を持つならば、彼らが自分と同じように試練や苦労に会い、失敗を重ねては起き上がろうとしてもがき、失望や困難と戦い、同情と助けを渇望し(かっぽう)ている兄弟同志であると考えるだろう。そうすれば、その人たちを失望させ、拒絶せずにその心に希望を起させるような態度で接するだろう。……自己の弱さを感じて初めて他人の弱さに同情するようになる」(「ミニストリー・オブ・ヒーリング」139、140ページ)。

回復の幻(ミカ7:8—13)

質問6

イスラエルはどのようにして過去の失敗を忘れ、霊的、物的滅びから立ち上がろうとしましたか。ミカ7:8、9

ある者たちはミカの勧告にすなおに従いました。捕囚となってから主に従った者たちもいました。ミカの言葉には、心から主の命令に従い、主に仕えようとする彼らの決意が示されています。

イエスは私たちにミカ書7:8、9の真の意味について教えておられます。彼はシモンとユダを叱責されました。二人がマグダラのマリヤをさばくような態度をとったからです(ルカ7:36~50、ヨハ12:1~8参照)。もし彼等がしつこくマリヤを責めていたなら、マリヤは完全に失望していたかもしれません。

質問7

イスラエルがもし主との新しい関係を保持していたなら、どんな偉大な国民になっていたでしょうか。ミカ7:10~13

イスラエルは完全な回復に必要な条件を満たさなかったために、偉大な国民になることができませんでした。しかし、この預言は霊的イスラエルによって成就します。あらゆる民族、国民からなる霊的イスラエルが新エルサレムの中に住むようになるからです。一方、彼らの敵は外にとどまります(黙示20:7~15参照)。「しかしかの地はその住民のゆえに、そのおこないの実によって荒れはてる」(ミカ7:13)。この預言は終わりの時に最終的に成就します。しかし、この荒廃のすぐあとで、主は地上をエデンの美しさに再創造されます(黙示21:1、5参照)。

二種類の人々

「蹟われた群衆の中には、雄々しいパウロや熱心なペテロ、愛し愛されたヨハネなどキリストの使徒たちや、真実な心の持ち主であったその兄弟たちがおり、彼らとともに大ぜいの殉教者たちがいる。一方城壁の外には、あらゆる恥ずべきもの忌むべきものとともに、かつて彼らを迫害し、投獄し、殺した者たちがいる」(「各時代の大争闘』下巻453ページ)。

神の保証(ミカ7:14―17)

回復についての神の約束にこたえて、ミカは14節において、良い羊飼いイエスがご自分の民を守り、養ってくださるように祈っています。

質問8

次の聖句は良い羊飼いイエスの守りについてどんなことを教えていますか。詩23:1、詩23:4―82、詩95:7、イザ40:11、エゼ34:11~15

主はすべての人を養われる

「イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいるひとりびとりの名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の一匹をさがしなさいと命じられた。ひとりびとりは、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。ひとりびとりの悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。……われわれには、どんな試練のときにも、決してわれわれを裏切られることのない助け主がある。主は、われわれが誘惑に抵抗し、悪と戦い、ついには重荷と悲しみにおしつぶされてしまうがままに、放っておかれない。いまは、イエスは人間の目からかくされているが、信仰の耳は、イエスのみ声が、『恐れるには及ばない、わたしがあなたといっしょにいるのだ」と言われるのを聞くことができる」(「各時代の希望」中巻278、280ページ)。

質問9

神はミカの祈り(14節)にどのように答えられますか。ミカ7:15~17

エジプトからの救いは終わりの時における神の民の最終的な救いを示しています。悪人たちは全地のさばき主に対面するとき、恥と恐れのゆえにふるえ上がります。しかし、神の忠実な民は主を喜びます。

ゆるされた残りの民(ミカ7:18―20)

ミカ書はご自分の民に心からの関心をお示しになる大いなる神に対する賛美の言葉をもって終わっています。

質問10

いかなる異教の神々もなすことのできないどんなことを、神はご自分の民のためにしてくださいますか。ミカ7:18、19

イエスを主として受け入れ、自分の罪を告白して、イエスの義の賜物を受け入れるとき、私たちの罪科は消滅します。あなたはこのことを確信していますか。次の点に注意してください。

・イエスは十字架の上で私たちの罪のための法的刑罰を負ってくださいました(イザ53:5、6、Ⅱコリ5:21、1ペテ2:24参照)。

・私たちがイエスを受け入れ、彼に私たちの罪を告白し、彼のゆるしを求めるとき、イエスは私たちの罪科(悪行に対する私たちの責任)を滅ぼしてくださいます。なぜなら、イエスはそのためにすでに死なれたからです(Iヨハ1:9、2:2、ロマ3:25、使徒13:38、39参照)。

・ミカ7:18、19によれば、神は「不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過こごされ、……われわれの不義を足で踏みつけられ、……われわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ」られます。私たちの罪科が上にではなく下に向かっていることに注目してください。なぜなら、イエスがそのために死に、私たちをゆるしてくださったからです。

私たちの罪科が除かれる

「われわれが背負っている一番重い重荷は罪の重荷である。もしわれわれがこの重荷を負うままにされていたら、それはわれわれをおしつぶしてしまうだろう。しかし罪のないおかたがわれわれの身代りになられた。「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』(イザヤ書53:6)。主はわれわれの不義の重荷を負われた。主はわれわれの疲れた肩から荷物をとられる。主はわれわれに休みを与えられる」(「各時代の希望』中巻48ページ)。

質問11

最も弱い人間もどうしたら生けるキリストと共なる生活を送ることができますか。ヨハ14:15~19、エペ3:16~19

アブラハムとヤコブに対してなさった契約の約束は、今日の神の民に成就しました(ミカ7:20)。これらの契約の約束の一つが、「約束された聖霊を、わたしたちが信仰によって受ける」ということでした(ガラ3:14)。この約束は私たちに義認と、キリストの義の賜物を保証しています。キリストが私たちの心に宿ることによって臨在されるからです(ガラ3:3、ロマ8:9、10、10:6~10参照)。聖霊の臨在はイエスの臨在です。したがって、聖霊によって心を支配していただくかぎり、私たちは生けるキリストと共なる生活を送ることになります(「ミニストリー.オブ・ヒーリング』157ページ参照)。

まとめ

ミカの時代の人々は。自分の必要と罪深さを認め、ただひとり救うことのできる主に心から献身することによって、自分たちの問題に対する解答を見い出しました。その後の経験において、彼らは従う者たちに対する神の豊かな恵みについて学びました。ミカを通して与えられた神の約束は、終わりの時代の神の民にとくにあてはまります。これらの約束は彼らのうえに最終的に成就します。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年1期『今は備えの時である』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次