【ゼファニヤ書(ゼパニヤ)】神の訴え【2章解説】

目次

中心思想

神はユダに対して訴えられたように、私たちに対してもまだ間に合ううちに神と神の義を求めるように訴えておられます。

アウトライン

  • 共につどい、集まれ(ゼパ2:1、2)
  • 主を求めよ(ゼパ2:1~3)
  • 正義を求めよ(ゼパ2:3)
  • キリストのようになりなさい(ゼパ2:3)
  • 神の約束(ゼパ2:3)

私たちの魂の競売

ロンドンの一牧師がある日、通りで説教しているところへ、アン・アースキン夫人が馬車で通りかかりました。この夫人は夫のお金を浪費することで有名でした。彼女が近づくと、その牧師は彼女の魂を競売にかけると宣言しました。牧師はすぐに入札者を見つけました。

「サタンよ、あなたはアン夫人の魂にいくらの値をつけるか?」

「この世のすべての富と快楽を与えよう!」

「では、彼女の死後についてはどうか?」

「……(沈黙)」

「別の入札者にたずねる。イエスよ、あなたならどうか?」

「自己否定の十字架を与えよう。それは彼女に幸福をもたらすだろう。さらに、わたしを愛し、わたしに仕える者たちのために備えられている天国における永遠のいのちを与えよう」

アン夫人はこの牧師の「競売」によって悔い改めに導かれ、ついにはロンドンの貧民街の天使と呼ばれるようになりました。

私たちの魂のための競売は仮空のものではありません。事実、大部分の人たちがサタンの提案に引きつけられています。しかし、ゼパニヤの時代の神の民がそうであったように、神は今日の私たちに対してもこの世における真の幸福と永遠の喜びをもたらす神の提案を受け入れるように訴えておられます。

につどい、集まれ(ゼパ2:1―2)

ゼパニヤ書1章は厳粛な警告の言葉をもって終わっています。さばきを告げるラッパが鳴りひびいていますが、人々はその備えができていません。果たして希望があるのでしょうか。

質問1

ゼパニヤ書2:1にはどんな人々のことが語られていますか。

新国際訳はこの聖句を、「恥知らずの民よ、集まれ、集まれ」と訳しています。彼らは自らの罪深い生活を恥じなかったので、主の祝福を受けるに値しないという意味において「望まれない」民でした(欽定訳)。

たとえそうであっても、主はその限りない愛のゆえにゼパニヤのような預言者を選び、彼らに悔い改めを促されました。聖書の驚くべき真理の一つは、私たちが主を求める以前ふち、主が私たちの救いのために働いておられたということです。

「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ロマ5:6~8)。

質問2

自分の態度や行動を変えることのできない弱い罪人のために、主はどんなことをしてくださいますか。ヨハ6:44、12:32

キリストは聖霊によって私たちに罪を認識させ、心をご自身に引き寄せられます。この力がないなら、私たちは決して自分の罪の恥辱を感じてキリストのもとに行きたいと望むことはないでしょう。

主は私たちの無力な状態をあわれんでくださいます。神の不興は私たちの弱さのゆえではなく、私たちが神の聖霊を拒むゆえにあらわされるのです。

抵抗さえしなければキリストに引き寄せられる「自然界にも働いているこの同じ神のみ心は、人の心に呼びかけ、人が持ち合わせていない何ものかに対する表現しがたい渇望を起こさせるのであります。この世のものではどうしても彼らの渇望を満たすことはできません。神のみたまは心に真の平安を与えうる唯一のものであるキリストの恵みと、きよめの喜びを求めるように訴えています」(「キリストへの道』30、31ページ)。

主を求めよ(ゼパ2:1~3)

質問3

「集まれ」という呼びかけが当時のイスラエルにとってとくに重要であったのはなぜですか。それは私たちにとってどんな意味がありますか。ゼパ2:1、2

第1章の「布告」が発効してからでは、イスラエルの運命を変えることはできなかったことでしょう。「もみがら」はつむじ風によって吹きとばされていたことでしょう。主はまさにご自身の民から離れ、バビロニヤ軍が彼らを侵略し捕囚とするのを許そうとされるところでした。「主の日」が直前に迫っていました。心をさぐり、一致して祈るべきときでした。ヨエルは次のように勧告しています。

「民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、『主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください』」(ヨエ2:16、17)。

質問4

主はだれに対してご自身を求めるように勧めておられますか。それはなぜですか。ゼパ2:3

聖霊の導きに従って罪を捨て、共に祈る者たちは罪のゆるしを受け、神のみこころを行う恵みにあずかります。

「謙遜を求めよ」

「謙遜」は臆病とは異なります。むしろ、その反対です。なぜなら、それは神のみこころに対する完全な服従を要求するからです。「謙遜」な人、あるいは「柔和」な人は、自分が神から離れて無力であることを認め、聖霊の内なる働きに喜んで従います。自分自身を完全に神にゆだねることは神の恵みによってのみできることです。

主は謙遜な人々を用いられる

私たちが進んでへりくだり、自らを無にして神のあわれみの伝達者となるとき、主は私たちをお用いになることができます。

正義を求めよ(ゼパ2:3)

質問5

どのようにして主を求めるなら、必ず報われますか。申命4:29、ヘブ11:6

「ただあなたが神の恵みを渇望し、その勧告を望み、その愛を熱望することのほかはなんの条件も設けられていません。……キリストにならって完全な品性を築こうとし、必要な祝福を求めるならば、主は、あなたが、まちがいない約束に従って求めているのだと仰せになるのです。あなたが自分は罪人であるということを感じて自覚すれば、主の情けとあわれみとを何らはばかることなく求めてよいのです」(『思いわずらってはいけません」171ページ)。

質問6

ゼバニヤは私たちに「正義を求める」ように勧めています(ゼパ2:3)。次の聖句は義を受けることの重要性について何と教えていますか。イザヤ61:10、マタイ5:6、ローマ1:17、5:17、6:13,19

イエスはマタイ5章で「義」について教えておられますが、これを詳しく調べるなら、道徳的な「正しい行為」が「正しいあり方」からくることがわかります。キリストが至福の教えの中で説いておられる段階に従って神の子らとなる者たちは心から神を愛するようになります。そして、神の律法が彼らの心に刻まれ、彼らの行為がそのことを裏づけるようになります。

私たちはどのようにして義とされるのか聖書は、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」と教えています(ヘブ12:14)。「義は聖であり、神に似ることです。そして「神は愛である』(ヨハネ第1.4:16)。義は神の律法にしたがうことです。なぜなら『あなたのすべての戒めは正し」く(詩篇119:172)、『愛は律法を完成するものである』からです(ローマ13:10)。義は愛であり、そして愛は神の光であり、命です。神の義はキリストの中に具体化しました。わたしたちはキリストを受けることによって義を受けるのです」(「思いわずらってはいけません』23ページ、太文字付加)。

キリストのようになりなさい(ゼパ2:3)

質問7

神はご自分の子らのためにどんなことを可能としてくださいますか。マタ5:48(Ⅱコリ7:1、1ペテ1:15、16比較)

神の恵みによって標準に到達することができる「品成の完成は私たちのキリストとの関係にもとづいている。もし私たちが救い主の功績にたえず信頼し、彼の教えに従って歩むなら、私たちは彼に似る者となる。……救い主はだれに対しても不可能なことを要求されることはない。実行する恵みと力を喜んで与えることなくして、彼はご自分の弟子たちに何事をも期待されない。ご自身が高く聖なる特権を与えようとしておられる者たちにあらゆる完全な恵みを与えることができないなら、彼は弟子たちに完全な者となるようにとは要求なさらない。親が子に良い贈り物をする以上に、救い主はご自身を求める者たちに喜んで聖霊を与えると約束しておられる。

私たちの本分は、キリストが地上の生涯において獲得されたあらゆる方面における完全な品性を、私たちの行動の範囲において獲得することである。キリストは私たちの模範である。……毎日、神の要求からかけ離れた生活を送ることによって、私たちは魂の救いを危うくしている。私たちはキリストの与えてくださる特権を理解し、感謝し、最高の標準に到達するように決意する必要がある。私たちは彼が与えると約束しておられる力に全的に信頼しなければならない」(エレン・G・ホワイト『神を知るために』130ページ、太文字付加)。

「だれでも自分の活動範囲内で、クリスチャン品性の完成を目指して、果たせないことはない。……神はわれわれが完全な標準に到達するように求めておられ、キリストのご品性の模範をわれわれに示しておられる。救い主は、悪に抵抗した生活を貫き通して完全なものとされたご自身の人性によって、人間が神と協力すれば、この世において品性の完成に到達できることをお示しになった。これは、われわれも完全な勝利を得ることができるという神からの保証である」(『患難から栄光へ」下巻231ページ)。

神の約束(ゼパ2:3)

質問8

ゼパニヤ書2:3の後半にはどんな約束が与えられていますか。

「そうすれば」という言葉は、この約束が条件つきであることを示しています。主の命令に従う者たちは来るべき災いから守られます。「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない」(詩91:9、10)。サタンもキリストに信頼する者たちを欺くことはできない「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない」(詩121:3)。「しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」(箴言1:33)。

「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」(ユダ24)。「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである」(Iペテ1:5)。

質問9

「主の怒りの日」に私たちを守ってくれるものは何ですか。その結果はどうなりますか。詩27:5、91:1、2

「その日〔七つの災害のとき〕に、多くの人々は、長い間軽べつしてきた神のあわれみの保護を受けたいと願う。……神の民は苦難を免れるわけではない。彼らは迫害と苦しみに会い、窮乏に耐え、食物の不足に苦しむのであるが、滅びるままにほうっておかれたりはしない。……彼らの頭の毛までも数えられるおかたが、彼らを保護し、……悪人たちが飢えと疫病のために死んでいくときに、天使は義人を守り、その必要を満たすのである。……この時、キリストの忠実な証人たちの血が流されたとしても、それは、殉教者の血のように神のために収穫をもたらすためにまかれる種とはならないのである。……今義人が、むざむざ敵のえじきになるならば、それは暗黒の君の勝利になってしまう」(『各時代の大争闘』下巻404、405、411ページ)。(イザ26:20、21参照)

*本記事は、安息日学校ガイド1992年1期『今は備えの時である』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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