【士師記】浮き沈み【2章、3章解説】#2

目次

中心思想

「士師」の時代の神の民は、背信→敵による圧迫→憐れみ深い主から送られた「士師」による解放→さらなる背信という行動を繰り返していました。

ローラーコースター的宗教

遊園地などによくある小型の鉄道のローラーコースターは、乗り初めは快適です。機関車はコトコトと音を立てながら、ゆっくりと丘を上っていきます。だんだん景色もよくなり、公園全体が、そして公園の周囲ののどかな田舎の風景までが見えてきます。そこからはあらゆるものが見えます-そう、線路を除いてあらゆるものが。線路はどこ? あんな下? 次の瞬間、失神するか、心臓が止まるかと思うくらい、急降下していきます。あとは何も覚えていません。覚えているのはただ、上ったり下ったりした時の長い恐怖感だけです。

「ローラーコースター的宗教」には、多くの浮き沈みがあります。しかし、それはいつでも低い所で終わります。ローラーコースターに乗っているのはほんの数分ですが、|?ローラーコースター的宗教」は長く続きます。イスラエル人は何百年にもわたって、この慢性の病に悩まされました(士師2:6〜23)。

忠実な世代(士師2: 6〜9)

士師記は「ヨシュアの死後」(1:1)という言葉をもって始まっていますが、士師記2:6には、ヨシュアがまだ生きていた時のことが書かれています。

士師記2:6−9が、事件の起きた順序に従って、この書の冒頭に置かれていないのはなぜでしょうか。

士師記はヨシュアの死後の時代を扱っているので、このような書き出しになっていることは当然なことです。第1章における軍事的事件に関する記述は、「イスラエル人は神の契約を破ったので、契約の約束の完全な実現を見ることができなかった」というこの書の主題とも言える主の御使いの宣言、士師記2:1〜5へと話題を導いています。彼らは約束の地にいましたが、しばしば神の契約条項を無視しました。

士師記2:6〜3:6は、この主の御使いの宣言が与えられた背景をさらに詳しく説明し、それが後にどのように実現したかを明らかにしています。ヨシュア以後の世代の不信仰(士師2:10―3:6)を描写する前に、ヨシュアと、ヨシュアと共にカナンに入った忠実な者たちとに言及することは適切なことです(2:6―9)。

ヨシュアの世代が忠実だったのはなぜですか。

士師2:7―10

ヨシュアと共にカナンに入った者たちは、たとえばヨルダン川が二つに分かれ(ヨシ3:14〜17)、エリコの城壁が崩れる(ヨシ6:20)といった、主による数々の特別な奇跡を見ていました。

しかし、約束の地に入った者たちの中で、エジプトの災害(出エ7〜12 章)、紅海の横断(出エ14章)、シナイ山における律法の賦与(出エ19、20章)を体験した古い世代の人間はカレブとヨシュアだけでした。古い世代の大部分の者たちは荒野で死んでいました(民数26:63〜65)。

カナンに入った者たちが忠実であったのは、ただ単に彼らが主のなされた奇跡を見たからではなく、むしろ彼らが心から主に信頼したからでした(ヨシ14:8、9、14参照)。

同じことが私たちについても言えます。私たちがイエスに従うのは、イエスが私たちのためにしてくださったことのゆえです(フィリ2:5〜8)。もし私たちが、イスラエルのように、新しい契約の条件とイエスによる勝利の賜物とを忘れるなら、神は与えようとしておられる完全な祝福を私たちにお与えになることができません。

不忠実な世代(士師記2章10―13節)

「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った」という士師記2: 10の言葉は、「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」という出エジプト記1:8の言葉を思い起こさせます。イスラエル人は神によってファラオ(パロ)の手から救われたのに、今度は自分たちが昔の主人のようになりました。ファラオがヨセフの家族に従う必要を認めなかったように、ヨシュア以後のイスラエル人も神に従う必要を認めませんでした。彼らはファラオのように次のように言いました。「主とは一体何者なのか」(出エ5:2)。無知はしばしば愚かな行動に走らせます。

約束の地に住むようになったイスラエル人の新しい世代が、その地をお与えになった神を認めなかったのはなぜですか。

申命6:10〜12

カナンの地に落ちつき、物質的必要が満たされると、イスラエル人はその恵みを当たり前のことと考え、神を忘れて、主の御使いが罠と言った(士師2:3)、カナン人の神々に従うようになります。

忘れることは状況次第で様々な意味と結果をもたらします。大した迷惑にならないささいなこともあれば、重大な問題になることもあります。人間関係について言えば、忘れることは相手に対する関心がなくなったことの兆候と言えます。夫が結婚記念日を忘れるのを、妻が恐れる理由はそこにあります。夫が自分のことを忘れかけているのではないかと思うからです。

神が創造主であり、あがない主であられるのに、神を忘れるということは、神に対する関心がなくなったことを示しています。神の力と愛についての証拠は至るところにあるので(詩19:1〜11、口語訳19:1〜10)、神を忘れることには弁解の余地がありません(ロマ1 :20)。神を忘れることは、大した意味のない、無意識的な記憶の喪失ではなく、神と人間との契約関係の断絶を示しています。事実、神はご自分の民に対して、週に1度、安息日に神を覚えるように命じておられます(出エ20:8〜11)。ですから、神を忘れることはそれだけで反逆行為なのです。

人々が神を忘れるの防ぐために、神はどうするように言っておられますか(申命4:9、10、6:4―9)。信仰を世代から世代へと伝えるという神の計画が達成されたなかったのはなぜですか。

反逆から苦難へ(士師記2章14、15節)

イスラエル人が主を捨てて、カナン人の神々を礼拝するようになった時、彼らはカナン人をその土地から追い出すことができなくなっただけではありません。力の均衡がカナン人とその他の敵の方に傾き、彼らはイスラエル人を略奪し、圧迫するようになります。士師記の初めでは、主はイスラエル人の手に彼らの敵を渡しておられます(士師1:4)。ところが今、「主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた」(士師2:15)。イスラエル人がカナンに入る前に、神は服従に対しては祝福を約束し、反逆に対しては刑罰を警告しておられました。この祝福の中には軍事的勝利があり(レビ26:6〜8)、刑罰の中には敵に対する敗北がありました(16、17節)。

神に背いた時に、イスラエル人が苦難を経験したのはなぜですか。神が彼らの選択を尊重して、反逆するままにしておかれなかったのはなぜですか。ヘブ12:5〜11

次の答えの中から最も適当なものを選んでください。

1.神は罪を犯したイスラエル人を罰せられましたが、それは完全に正当なものでした。

2.神は彼らに服従と祝福の関係を理解させようと望まれました。

3.神の保護は服従を条件としていて、神の刑罰には、この保護が取り去られることが含まれていました。神に背いた時、イスラエル人はその選択の結果を身に受けたのでした。

4.イスラエル人はシナイにおける神との契約のゆえに(出エ24:3〜8)、また先祖アブラハムの神との契約のゆえに(創世15、17章)、神と特別な関係にありました。神の鍛練は、神が彼らをご自分の子供として愛しておられることの証拠でした(ヘブ12:5〜11)。

5.神はイスラエル人の「否」という返答をそのままお受け入れにはなりませんでした。なぜなら、彼らが自分たちの行いの意味を完全には理解していないということを知っておられたからです。神は彼らの選択の自由を尊重されましたが、同時に、将来もっと賢明な選択ができるように、彼らにその決定の結果を味わう機会をお与えになりました。

6.別の答え

7.上の答えすべて

過ちから学ぶことなく(士師記2章16―19節)

主がイスラエル人をその苦悩から救うために士師を立てられたのはなぜですか。

士師2:16、18、3:9、15


主がイスラエル人をその苦悩から救うために士師を立てられたのはなぜですか。

鍛練はいつまでも続くものではありません。さもないと、それは滅びになってしまいます。鍛練は単なる刑罰ではなく、あがないと改革を目的としたものです。神が望まれたのはご自分の民を更生させることであって、滅ぼすことではありませんでした。それゆえ、民が自分たちの愚行に気づいた時、神は解放者を送られました。しかし、彼らの悔い改めも長くは続きませんでした。たとえの中の犬のように(箴言26:11)、彼らは他の神々に戻ることによって愚かな行為を繰り返しました(士師2:17、19)。

イスラエル人がカナンに入る前に、神は約束されました—もし神に従うなら、彼らは絶えず成長するのでした。私たちもキリストに従うなら、同じ経験にあずかります(コリ3:18)。彼らは卓越し、尾ではなく頭となります(申命28:13、14)。不従順は後退して尾となることを意味します。イスラエル人は服従と反逆という浮き沈みを繰り返し、反逆するごとに以前よりもひどい状態に落ちていきました(士師2:19)。まさに「ローラーコースター的宗教」です。

イスラエル人がその過ちから学ぶことがなかったのはなぜですか。どうしたら堕落を阻止することができますか。

士師2:19、ユダ24

水の上を歩いていた時のペトロは、周囲のものに気を取られて、イエスから目を離してしまいました。彼は沈みかけたので、「『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(マタ14:30、31)。ペトロはいつ自分が沈みかけたかを知っていました。天の力とつながりを保つことが霊的堕落を防ぐ鍵です。イエスはペトロに、ご自分に対する信仰がその力であると言われました(マタ14:31)。

私たちが倒れる時、神は優しく支え、ゆるしてくださいますが(ミカ7:8、19、1ヨハ1:9)、神の理想は私たちを倒れない者とすることです(ユダ2 4 —1 ヨハ2 : 1 比較) 。もし堕落し始めたなら、なるべく早く自分の状態に気づくべきです。堕落が進行すると、それを止めるのは困難です。

神の試験に失敗する(士師記2章20節〜3章6節)

主の御使いによって宣言されていた通り、神はイスラエル人の不従順のゆえに、残っていたカナン人を追い出す力をお与えになりませんでした(士師2:3)。

神がヨシュアの時代の忠実なイスラエル人にすべてのカナン人をすぐに追い出す力を与えられなかったのはなぜですか。

出エ23:29、30

残っているカナン人は、神がイスラエル人の忠誠を試す手段となりました(士師2:22、3:4)。主に全面的に信頼して邪悪なカナン人と戦うことは、この試験の重要な部分を占めていました(士師3 :1、2)。イスラエル人は神に信頼して敵を打ち破るのでしょうか。それとも彼らと契約を結ぶことによって戦いを避けようとするのでしょうか。

イスラエル人は試験に失敗しました(士師3:5、6)。彼らは神の明らかな命令に背いて(申命7:3)、カナン人と交婚し、彼らの神々を礼拝しました。こうして、イスラエル人は自分たちが追い出そうとしていた邪悪な民のように、また主を認めなかったファラオ(パロ)のようになりました(出エ5:1、2)。後に一部のイスラエル人はさらに堕落し、神によって火で滅ぼされた(創世19:24、25)ソドムの民のようになりました(士師19:22〜25-創世19:4〜11比較)。

神がカナン人との交婚を禁じられたのはなぜですか。これは私たちにとってどんな意味を持ちますか。

出エ34:15、16、Ⅱコリ6:14〜18

イエスは言われました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタ5:13)。塩の価値はその味と保存力にあります。塩は食物と混ざり合って積極的に働き、混ざった食物の味を良くします。もし塩がその特性を失うなら、価値がなくなります。同じように、神の民も霊的な特性と影響力を持つ時に貢献する者となります。彼らは世にあっても、世のものではありません(ヨハ15:19)。彼らの生き方や行動が世的になれば、その存在価値は失われます。

まとめ

イスラエル人は浮き沈みの経験をしましたが、それは神との堅実な関係を保持せず、自分たちの失敗と過去における神の導きから教訓を学ばなかったためです。それにもかかわらず、憐れみに富む神は、彼らを、自ら招いた苦難の中から救い出されました。彼らの経験は、毎日、キリストとつながっていることによって信仰を持ち続けることの大切さを教えています。

*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。

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