中心思想
神と神の契約を捨てるなら、ソドムと同じ道徳的堕落に陥ります。イスラエルからこの悪を除くためには、大変な努力と苦痛と犠牲が必要でしたが、神は手術を成功に導いてくださいました。
ジャングルの徒
ジャングルの徒ジャングルは強い者が支配する世界です。すべての生き物が食物連鎖において同等には造られていません。弱肉強食の世界です。生き残るためには、用心深いことと逃げ足の速いことが要求されます。生きるか死ぬかのどちらかしかありません。
人間の社会には「ジャングルの徒」とは異なった法律があって、人間を互いに守ってくれています。しかしながら、これらの法律も、その背後にある権威者、すなわち違反者を罰することによって法律を施行する権威者と同じ程度の効力しか持っていません。
古代近東の社会においては、王がつねに法律の背後にある権威者でしたが、イスラエルは違いました。イスラエルの法律は、王なる神によって定められていました。しかし、「士師」時代に、イスラエル人は神を拒みました。神も人間の王も持たない彼らの法律には、その裏づけとなる権威が欠けていました。「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師17:6、21:25)。それは、ただ一つ効力を持つ法律、ジャングルの徒の支配する弱肉強食の世界でした。
ソドムのように(士師記19章1節〜26節)
士師記19:1からは新しい物語が始まっています。これもミカとダンの人々の物語と同じく、「イスラエルには王がいなかった」混乱の時代に起こりました(士師17:6、18:1比較)。先の物語と同じく、士師記19〜21章にも以下の要素が含まれています。
(1)エフライムの山地に滞在するレビ人(19:1-17:1、7〜12比較)、
(2)ユダのベツレヘム(19:1〜3-17:7〜9比較)、
(3)何か、またはだれかを取り戻すための旅(19:3-18:22比較)、
(4)犯罪(19:22〜26-18:17〜20比較)、
(5)イスラエルの一部族による裏切り行為(20:12〜16-18:30、31比較)、
(6)一部族の生き残りを助ける試み(21:6〜23-18:1、2、27〜29比較)。
このレビ人は、側女を連れ戻すためにベツレヘムに旅をしていました。この側女は主人を裏切っていました(ある写本によれば、「主人に怒って」)。側女の父親はレビ人を何日も引き止めたので、レビ人は困ってしまいますが、ついにその日も遅くなってから出発します。ベニヤミン領のギブアに着くと、彼はそこで夜を過ごそうとします。すると、エフライム出身の一老人がレビ人を従者、側女共々、自分の家に招いてくれます。
ギブアの住民はもてなしが悪く、その上、ソドムの住民と同じく性的倒錯者で、同性愛を強要してきました(創世19:4、5比較)。イスラエル人は堕落してしまっていて、ソドムの住民のようになっていたのでした。ロトと同様、老人は危険な状況を察知して、客を守ろうとします(レビ18:22、20:13参照)。
ロトもそうでしたが、彼はならず者たちの欲望を満足させるために女を差し出します(創世19:6〜8 比較)。女性の価値がこれほど軽く見られていたのかと思うと、恐ろしくなります。これらの物語に出てくる正しい人々でさえそうです。
ロトの家に泊まっていた二人の御使いは、ソドムの住民がその目的を果たすのを阻止しましたが(創世19:10、11)、このレビ人は側女を男たちに突き出すことによって急場をしのぎました。そこで、男たちは一晩中彼女をもてあそび、殺してしまいます(士師19:28、20:5)。
◆ 女性にはどんな価値が与えられていますか(たとえば、創世2:23、24、ガラ3:28、29、フイリ4:3参照)。
一つの罪から内戦へ(士師記19章27節〜20章17節)
朝になって、レビ人は側女が助けを求めるように両手を敷居にかけて、倒れているのを発見します。しかし、彼は助けなかったのです。そして今、無情にも立ち上がるように命じています。彼女が先に主人のもとを去っていたのも不思議ではありません(士師19:2)。答えがありませんでした。すでに死んでいたのです。
彼は側女の思いに同情していませんでしたが、ギブアの住民の行為には激怒しました。彼自身はギブアの住民に対して無力でしたが、その恐るべき、血なまぐさい「手紙」は正義に対する支持を集めるには効果的な方法でした(サム上11:5〜7比較)。
「ジャングルの徒」にも限界がありました。イスラエル人はおそらく、自分たちのうちから悪を除かなければ下るかもしれない刑罰を恐れたのでしょう(ヨシュア記7章のアカンの物語と比較)。何らかの手を打つ必要がありました。しかし、どんな手があるというのでしょうか。問題があまりにも重大であったので、イスラエル人は自発的にミツパ(ミヅパ)に集まりました。レビ人の証言を聞くとすぐに、民はギブアの住民の行為のゆえに彼らを罰するために、ギブアを攻める決定を下します。
問題の解決は、イスラエルが初めに想像したよりも困難でした。ベニヤミンの人々は、ギブアの犯人を引き渡す代わりに、軍隊を召集してギブアを守ろうとしました。
聖書は罪人に対する神の扱いを記録しており、しかも罪は醜いものです。それゆえ、聖書には美しくない部分もあります。もし私たちが士師記19章の物語を読み、神の民が神に背く時に、どのようなひどい堕落に陥るかを理解するなら、それは十分に目的を達したことになります。重要なことは、主と主の律法に対する関係を大切にすることです。神と隣人を愛することは、幸福になるための神の計画であって、私たちはそれによって、さもなくぱ必然的に訪れる道徳的堕落を避けることができます。
◆ 集団で道徳的責任を負うことは、今日の教会にも通用する行為ですか。もしそうだとすれば、どのような意味においてですか。苦悩と待ち伏せ(士師20:18〜48)
苦悩と待ち伏せ(士師記20章18節〜48節)
ほぼ同じ時期の出来事(士師20:28)について描いている士師記の初めの部分と同様に、イスラエルは主に、だれがベニヤミンとの戦いを先導すべきか尋ねました。答えは同じく、ユダでした(士師20:18-1:1、2比較)。しかし今回は、カナン人とではなく、同じイスラエル人と戦うのでした。
ベニヤミンの人々にはイスラエル人にない強みがいくつかありました。
(1)優秀な軍事的技術(士師20:16-3:15比較、エフド〔エホデ〕もベニヤミン族の有能な左ききの戦士でした)
(2)小規模の、機動力に富んだ軍隊
(3)ギブア(ギベア)は小高い丘の上にあったので、戦略的に有利な場所
(4)部族の生存をかけて戦っているという意識。
それにもかかわらず、主はユダに先導するように命じられました(18節)。民が最初の交戦の後に主に問うと、主は再び交戦するように命じられました(23節)。
「イスラエル人は準備期間が過ぎるまで勝利を得ることを許されなかった。彼らは敗北のおかげで断食と祈りに導かれ、失敗の原因を真剣に尋ねるようになった。この遅延は、彼らの品性の欠陥を教える神の機会であって、それは彼らが強く意識していた他人の欠点と同じくらい矯正を必要としていた。イスラエル人は自分自身の欠点を意識することなく、兄弟たちを矯正することにあまりにも素早かった」( ISDA聖書注解』第2巻416ページ)。
神は神権政体において極刑の適用を命じられる時、それを執行する者たちに、ご自分と和解するように望まれました。
二度目に敗れた時、イスラエル人は泣き、断食し、祈I《l、犠牲をささげました(士師20 : 26)。その翌日、主は「イスラエルの目の前でベニヤミンを撃たれ」ました(35節)。ギデオンの場合と同じく(士師7章)、この勝利は人間の努力によるものではなく、主によって与えられたものでした。
◆ 私たちは自分の霊的敗北に対してどのように対処すべきでしょうか(マタ17:14〜21参照)。
生存者のための妻(士師記21章1節〜24節)
イスラエル人の本来の目的は、ギブア(ギベア)の住民を罰することでした(士師20:10)。ひとたびベニヤミンを敗走させるなら、彼らはいとも容易にこの目的を達成することができたはずです。ところが、戦いに熱中するあまり、彼らは戦いをやめることを忘れて(士師20:48)、ベニヤミン族をほとんど完全に滅ぼしてしまいます。その結果、女性はすべて殺され、残ったのは戦いの途中で逃亡したわずかな男たちだけになりました。
妻がいなければ、生き残ったベニヤミンの男たちも、種族を増やすことができません。しかも、イスラエル人は先に、ベニヤミンには自分たちの娘を嫁がせないと誓っていました。エフタの性急な誓い(士師11 :30、34、35)やミカの母親の呪い(士師17:2)がそうであったように、この場合も変更不可能とされていた発言の結果は予知できないものでした。
2番目の誓いは、1番目の誓いによって生じた問題を部分的に解決しました。イスラエル人は、ベニヤミンとの戦いに参加しない者はだれでも死ななければならないと誓っていました。ギレアドのヤベシュ(ヤベシ・ギレアデ)の住民は参加していなかったので、イスラエル人はこの町の住民を処女を除いて全員殺し、これらの処女を、生き残っていたベニヤミンの男たちの妻として与えました。
性急な誓いを守り、かつベニヤミン族に憐れみを示すために、彼らは罪のない既婚の女性とその子供たちを皆殺しにしたのでした。
それでもまだ女性が足りなかったので、第2の解決策が考え出されました。シロで年ごとに行われる主の祭りの日に、踊りに出てくる娘たちを、ベニヤミンの人々が捕まえ、それを自分の妻にするというものでした。こうすれば、イスラエル人は自分たちの誓いの言葉を破ることなしに、ベニヤミンの人々に妻を与えることができました。
イスラエル人が自ら招いた重大な問題に対して、荒療治が要求されました。彼らがベニヤミンの人々を殺す前に、もう少し早く彼らに憐れみを示さなかったということは大きな悲劇でした。
「自分の目に正しいとすること」(士師記21章25節)
士師記の最後に繰り返されているこの聖句自体(17:6参照)から考えるなら、それは中立的、あるいは積極的な意味すら感じさせます。つまり、中央の支配権力がなかったので、各自は自分自身の道徳的判断力の命じるところに従って行動したという意味にとれます。しかし、イスラエル人の道徳的判断力は、彼らが主から離れてしまったために誤っていたことも明らかです。主は彼らの王、彼らの守るべき律法の背後にある権威でした。もし神の律法に従っていたなら、彼らは統一を保ち、自分自身から、またお互いから守られていたはずです。
「士師」時代のイスラエル人は、主に従っている時にはある程度の成功にあずかることができました。しかし、自分自身の本能や論理に頼る代わりに、もっと主の導きに従っていたなら、痛ましい問題や残虐行為を避けることができたはずです。
士師記の最後はサムエル記上とルツ記をさし示しています。サムエルは最後の「士師」で、彼の指導の終わり頃に、イスラエル人は王を求めました(サム上8章)。イスラエル人は継続的な指導者の必要を認めましたが、主に対する新たな献身を求める代わりに、人間の支配者を求めました。結局のところ、人間の王権も先の部族による支配と同様、みじめな失敗に終わることになります。しかし、最終的な成功が私たちの天の救助者、士師、王であられるイエスによってもたらされます(黙示5:9〜14参照)。
イエスはルツの子孫でした(マタ1:5)。ルツはモアブの女でしたが、当時の、契約に不忠実な人々とは対照的に、「士師」時代にあって神と人とに対する契約を忠実に守った人でした。イスラエル人と同様、私たちにも法的な権威が必要です。また、ゆるしと、私たちの傾向に逆らって神の律法を守る力が必要です。
◆ 問題を悪化させないで解決するためにはどうしたらよいですか。(ロマ7:14〜20)。
神はこれらを、神を信じる信仰を通して私たちに与えてくださいます。神は、イエスの血によって私たちを罪から清め(ロマ3:21〜26)、聖霊によって真の、無我の愛を私たちの心に注いでくださいます(ロマ5:5)。愛が動機となる時に、私たちは神の品性を反映し(Iヨハ4:8)、神の愛の律法に調和する者となります(マタ22:36〜40)。神に従うためには、ギデオンの勝利と同じく、神に対する人間の協力が必要ですが、それはあくまでも聖霊による神の賜物です。
◆ ゆるしと服従という神の賜物を受けるためにはどうしたらよいですか。
まとめ
ミカ、ダン族、レビ人、その側女、内戦の記録に見られるように、「士師」期における無法状態は、偶像礼拝、強盗、強姦、殺人という、神と人とに対する様々な悪となって現されました。主から離れる時、個人も社会も悪の傾向にとりつかれるようになります。その結果、多くの人々が苦しみを味わいます。
*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。