レビ記の内容を詳しく解説|聖所と犠牲制度

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目次

レビ記の概要と要約

レビ記の著者

レビ記の著者はモーセです。レビ記はモーセ五書のひとつとなっています。その内容は、主に聖所に関わる祭儀の規定となります。

レビ記の構造(アウトライン)

レビ記のアウトラインは、大いなる贖いの日を強調しています[1]

A 1-7 捧げ物の規定

 B 8-10 祭司に関する規定

  C 11-15 清めに関する規定

   D 16-17 大いなる贖いの日

  C’ 18-20 清めに関する規定

 B’ 21-22 祭司に関する規定

A’ 23-27 捧げ物に関する規定

聖所

聖所とは

聖所とは、主に古代イスラエルの人々が礼拝のために建てた建物を指します

ダビデがこの聖所をどのように捉えていたのかが、詩篇27篇4節に出てきます。

わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

詩篇27篇4節

ここでダビデが言っている「一つの事」とは、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめること」です。

ダビデは「主の家に住む」つまり「聖所に住む」ことを求めていますが、それは文字通りその「場所」に住むことを望んでいるわけではありません。

「主の家に住む」。この言葉は、神殿のしもべが実際に神殿の境内で永続的に生活することを指しているように、文字通りに解釈すべきではありません。むしろ、神の臨在の中で永続的に生活することを指しています[2]

Craigie, P. C. (2004). Psalms 1–50 (2nd ed., Vol. 19, p. 232). Nashville, TN: Nelson Reference & Electronic.

ダビデはここで「神の臨在の中で生きる」ことを望んでいるのです。

ヨハネの黙示録21章3―4節にある天国の描写では4回「神と人が共にいること」が繰り返されています。ここから「救い」とは、「神と人が共にいること」であることがわかります。

さらにキリストは永遠の命について、次のように言われました。

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

ヨハネによる福音書17章3節

ここでは、はっきりと「永遠の命とはキリストを知ることである」と書かれています。「知る」は、聖書の中では夫婦間での深い愛情表現を指す表現です(創世記4章1節)

26:11わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。26:12わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。

レビ記26章11―12節

レビ記26章12節には、聖所が建てられた目的が明らかにされています。聖所は神が人と共にいるためであり、聖所は「救い」を指し示すものなのです。

神さまの究極的な目標は関係です。その聖所はその関係に達するための神さまがお選びになった手段でした[3]

マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、44ぺージ

また、この聖所はわたしたちに対する神の働きを象徴したものなのです。

9:9この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。……キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 9:12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

ヘブル人への手紙9章9―12節

聖所の庭

聖所の庭には祭壇があり、ここで犠牲の動物が捧げられていました。

聖所の庭はキリストの地上での働きを象徴していて、祭壇は十字架を象徴しています。

まず罪を犯した人は、聖所にまでささげ物を持ってきて、手を置き、象徴的に罪を移していきました。その後、規定に従って犠牲がささげられたのです。

「手を置く」という意義は(レビ記1の4、4の4、16の21)、存在証明という行為に関わっています。

……供え物の意味は、動物の頭に手を置く者のためにのみ適用されます。手を置くことは、今や犠牲の動物が供え物をする人の物ではなくなり、聖所の物、すなわち神さまに献げられたということで、財産の転移を指し示しています。

……レビ記16章21節によると、手を置くことは、罪の告白と合わせて行うことができました。罪祭ざいさいにおいて、これは罪人から罪のない動物に罪が移されるのを認める行為であったのです[4]

マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、55ぺージ

また聖所の庭には洗盤せんばんがあり、そこで祭司たちは手足を洗い流さなければなりませんでした(出エジプト記30章17―21節)。これはバプテスマの象徴でもあります。

聖所

手を置き、罪のために動物が死んだ後は、血の注ぎが行われました。ささげ物をする人が、一般人や「つかさたる者」であった場合は、聖所の庭の祭壇の角に血が塗られ、祭壇のもとに血が注がれました(レビ記4章25、30節)

祭司や全会衆の罪であった場合には、聖所の奥にある薫香の祭壇の角に血を塗り、祭壇のもとに血を注ぐことになっています(レビ記4章7、18節)

この祭壇の角に血を塗るという行為は、罪を聖所に移すことを意味しています。

また、罪のための犠牲の一部は、担当した祭司が食べました。これは、祭司が罪を負い、贖う象徴でした[5]

出エジプト記34章7節のへブル語は、神さまは、罪人の過失を赦すとき、「罪を負う」と述べています。「罪を負う」という意味のへブル語は、レビ記10章16節、17節にも出てきますが、そこでも罪を負う祭司は、罪人に赦しをもたらすことになるということが明らかです。罪を負ってもらわなければ、罪人は自分自身の罪を負わなければならないからです(レビ記5の1)[6]

マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、58ぺージ

聖所に入って左側には、み言葉と聖霊を象徴する燭台しょくだいがおかれました(詩篇119篇105節、ゼカリア4章2―6節)

また、これは世の光であるキリストを象徴するとともに、み言葉と聖霊によって変えられたクリスチャンをも象徴しています(ヨハネによる福音書9章5節、マタイによる福音書5章14―16節)

また、右側には12個のパンが6個重ねて2列で置かれていました。これは、み言葉とキリストを象徴しています(ヨハネによる福音書5章39節、6章48―63節)

聖所の奥にある垂れ幕には香壇があり、「これは、すべての聖徒の祈」(ヨハネの黙示録5章8節、8章3節)を象徴していますが、同時に絶えず執り成しておられるキリストを象徴しています。

至聖所

聖所の奥の垂れ幕を潜ると、至聖所となり、そこにはあかしの箱(契約の箱)がありました

契約の箱の中には、アロンの杖、マナ、十戒が納められ、そのふたには2体のケルビムの像があり、その間には神の臨在をあらわす栄光の光(シェキナ)がありました

至聖所と契約の箱のイメージ画像

贖罪しょくざいの日(ヨム・キプール)|レビ記16章

イスラエルの聖所に関連する儀式には、2つの奉仕がありました。ひとつは毎日行われる「日毎の奉仕」。もうひとつは年に一度だけなされる贖罪しょくざいの日(ヨム・キプール)つまり大いなる贖いの日(大贖罪しょくざい日)です。

この至聖所で行われる贖罪日の儀式で、罪が完全に取り除かれたのです。

この儀式は3つの部分から成り立っています。

1. 祭司のための雄牛の犠牲

大祭司は彼の罪のために、雄牛を捧げてから、聖所に入っていきました。

2 .「主のための」やぎの犠牲

贖罪の日では、「主のための」くじを引かれた贖罪の捧げ物であるやぎの血を通して、聖所を清めました。

主のための山羊に関しては、罪の告白も、手を置くこともなかったので、その血は罪を運ぶものではありませんでした。それは汚すのではなく、むしろ清めたのです。

……贖罪日は特別でした。聖所と民の両方が清められるのは、この日に限ってのことだったからです。贖罪日は、二段階から成る贖罪の二番目の段階でした。第一段階において、イスラエルの人々は1 年を通じて赦されました。彼らの罪は消し去られたわけではなく、罪の処理を約束なさった神御自身にゆだねられたのです。

第二段階は、赦しとはあまり関係がありませんでした。人々がすでに赦されていたからです。実際、レビ記の16 章や23:27 ~ 32 の中に、「赦す」という動詞はまったく出てきません。このことは、救済計画というものが単に私たちの罪の赦しを扱うものではないことを示しており、それは、大争闘というより広い背景の中で理解されるときに納得がいく点なのです[7]

マーティン・プレブストル『聖所』』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、40ページ

3. アザゼルのやぎの追放

この儀式の最後に、「アザゼルのため」のやぎに、その罪の責任が負わされ、追放され、崖から突き落として殺されました[8]

このアザゼルの山羊はサタンの象徴で、偽典『エノク書』では、アザゼルはすべての不義を教えたものであり、地上を堕落させた罪の責任者として描かれ、最後には手足を縛られ、底なしの淵に投げ入れられ、最後には火の中に投げ込まれる存在です[9]

サタンは罪という重大な犯罪の責任をとるべき首謀者であり、その責任が彼の頭上に戻ることになる。……サタンはわれわれの罪の贖いをしない。そうではなくて、サタンは究極的に、義人も悪人も含めたすべての人々の罪の責任を負って、その報いとしての罰を受けることになるのである[10]

『セブンスデー・アドベンチスト 教理の研究』380―381ページ

燔祭はんさい(全焼の捧げ物) |レビ記1章

燔祭はんさいの特徴 1. 焼き尽くす

その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭はんさいとしなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

レビ記1章9節

祭壇の上で、燔祭はんさいはすべてが灰になるまで焼き尽くされる必要がありました。

聖所はキリストの働きを象徴した模型で(ヘブル人への手紙9章24節)、ささげ物はキリストを象徴していました(ヨハネによる福音書1章29節)燔祭はんさいが焼き尽くされたように、キリストはすべてをわたしたちに捧げられたのです(ピリピ人への手紙2章6-8節)

燔祭はんさいは人間に代わって死なれる救い主を表す一方で、礼拝者自身をも表していました。……全焼のいけにえを神にささげることは、神に完全に献身することを表していました[11]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、23―24ページ

燔祭はんさいはキリストの象徴でもあり、自分自身の象徴でもあります。

「供え物(献げ物)」と訳されている言葉は、原文のヘブライ語を見ると「コルバン」という言葉になっています。この「コルバン」という言葉は「近づく」ことを意味する言葉から派生したものになります[12]

この燔祭はんさいから、わたしたちはどうやって神に近づけるか、どのように神に献身すればいいのかを学ぶことができるのです。

祭壇の火は神によってけられ(レビ記9章24節)、焼き尽くす火である神(ヘブル人への手紙12章29節)と聖霊なる神の象徴でした。

そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

ルカによる福音書3章16節

わたしたちが神に近づいていくためには、そして献身するためにはわたしたちの自己や罪が焼き尽くされる必要があるのです。

燔祭はんさいの特徴 2.朝夕常に行う

燔祭はんさいには、義務的なものと自発的なものの2種類がありました。義務としてささげられる燔祭はんさいは、祭司が国民全体を代表してささげるもので、祭りや儀式だけでなく、毎日ささげられるものでした(出エジプト記29章38―42節、民数記28章3―8節)

そのほかに、汚れからの清めや誓いの時、また自発的に個人の手によってささげられるものもありました[13]

この中で特に注目されるのは、毎日ささげられる燔祭はんさいです。

レビ記6章9節、12―13節には3回、祭壇の上の火が燃え続けていなければならないことが言及されており、「燔祭はんさいは祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない」と規定されています。

29:38あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。 29:39その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。

出エジプト記29章38―39節

毎日ささげられる燔祭はんさいは、絶やすことなく、朝夕ささげられ、祭壇の火は燃え続けていました。

人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。

ヘブル人への手紙8章2節

キリストは十字架の後も、天の聖所で今なお、働きを続けています。十字架によって罪のあがないがなされましたが、祭壇の火はその救いの計画が終わるまで燃え続けるのです。

5:17絶えず祈りなさい。 5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 5:19御霊を消してはいけない。

テサロニケ人への第一の手紙5章17―19節

パウロはここで「御霊を消してはいけない」と言っています。そして、同時に「絶えず祈りなさい」とも言っているのです。わたしたちは祭壇の火で象徴されていた聖霊を通して、常にキリストとつながり続ける必要があります。

燔祭はんさいの特徴 3.完全なものをささげる

1:3もしその供え物が牛の燔祭はんさいであるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。……1:9その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭はんさいとしなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

レビ記1章3、9節

燔祭はんさいは完全なものでなければなりませんでした。そのささげものは、内部まで完全であるかを見られていったのです。

9:28キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。……10:12しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 10:13それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。

ヘブル人への手紙9章28節、10章12−13節

キリストの犠牲は完全なものでした。

燔祭はんさいの目的と象徴

キリストの十字架のイメージ画像

燔祭はんさいは、キリストがわたしたちのために最善の働きをして、すべてをささげつづけ、その犠牲が完全なものであることを象徴しています。

燔祭はんさいが完全なものをささげる必要があったように、わたしたちの献身も完全なものである必要があります。

わたしたちは「どれくらいささげたらいいのか」ではなく、「どれくらいささげることができるのか」を考える必要があるのです。

燔祭はんさい(ヘブル語で「オラー」)は、供え物を献げる人の全的献身を象徴しています(レビ記1の1〜17、6の8〜13)[14]

マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、35ページ

しかし、信仰的に燃えてればいいというわけではなく、他の人をキリストに引きつけるものである必要があります。

……これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

レビ記1章9節 

燔祭はんさいは「主にささげる香ばしいかおり」でした。

2:14しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。 2:15わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。

コリント人への第二の手紙2章14―15節

神は私たちを通して、「キリストを知るいのちの香り」を放とうとしています。たとえ、燃えに燃えても、他の人が臭くて近づきたくないという臭いでは問題があります。

ただ燃えてればいいというわけではなく、他の人をキリストに引きつける匂いを放つ必要があるのです。そのためには、何を燃やすかというのが大切です。

ゴミを燃やしたら臭くなりますが、いい香りを放つものに火をつけるならば、部屋中にその香りが漂って、リラックスすることができます。献身を考える上で大切なのは、わたしたちが、何によって、何を燃やしているかなのです。

素祭そさい(穀物のささげもの)|レビ記2章

素祭そさいの特徴 1.目上の人や支配者へのプレゼント

素祭そさいは、原語では「ミンハー」と言い、穀物のささげ物でした。

「食物のささげ物」を意味するへブル語の「ミンハー」は、 食物一般をさす言葉です。「素祭そさい」には肉は含まれていませんでした。それで現代の翻訳者は「穀物のささげ物」という言葉を用いています。これら植物性のささげ物には、オート麦、大麦、小麦、米などがありました。ぶどう汁とオリーブ油、乳香と塩がこれに加えられることもあります[15]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

加えて、この素祭そさい「ミンハー」は、「目上の人や支配者へのプレゼント」を意味しており、創世記の中では支配者に対する「贈り物」を指す言葉として登場します(創世記32章13節、創世記43章11節)[16]

礼拝の場面においては、素祭そさいをささげることは、神を自分の支配者として認めることを意味していました。

素祭そさい灌祭かんさいは、「私の持ち物はすべてキリストのもの」という礼拝者の誓約を表現していました[17]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

レビ記に出てくるささげ物は、すべて場所やささげる物、ささげる人、ささげる方法が詳細に決められています。それは神に従うことが求められていることを表していました。つまり、神の支配を受け入れ、自分の人生をゆだねることが求められているのです。

旧約聖書にはある2人の兄弟の話が出てきます。兄のカインのささげ物は受け入れられず、弟のアベルのささげ物は受け入れられ、それを怒ったカインがアベルを殺害してしまうという話です(創世記4章1―15節)

アベルは神に従って「群れのういご」をささげましたが、カインは従わず「地の産物」をささげていきます。この問題は、2人の好みと神の好みが一致したかどうかという話ではなく、カインがあえて神に従わなかったという問題でした。

素祭そさい燔祭はんさいをささげるときにも一緒にささげていたため(民数記28章1―7,31節)、レビ記の規定が創世記の時代にも存在したとすると、アベルも穀物を一緒にささげていました[18]

つまり、穀物のささげ物をささげたのが問題なのではなく、カインがあえて小羊を取り除いたことが問題だったのです。

カインはキリストを象徴するものを取り除き、キリストを拒絶してしまったのです。カインはキリストを自分の人生の支配者とは認めず、彼は救い主を拒絶してしまったのです。

十字架と復活のイメージ画像

素祭そさいの特徴 2.すべてパン種や蜜を入れてはいけない

あなたがたが主にささげる素祭そさいは、すべて種を入れて作ってはならない。パン種も蜜も、すべて主にささげる火祭として焼いてはならないからである。

レビ記2章11節

パン種や蜜は発酵に使われ、発酵は罪の象徴であるために取り除かなければなりませんでした。罪の象徴であるものを加えてはいけなかったのです。

穀物の捧げ物には、イーストと蜂蜜を入れることができませんでした。……(蜜は)糖分を多く含むので、酵母の発酵を促進するために使用された可能性があります[19]

Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 99). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.(括弧内は筆者注)

同じように、わたしたちが神との関係を築いていくときに、罪が取り除かれていく必要があります。ちょうど、カインが認めることができなかったように、わたしたちは罪を握りしめたまま、神を自分の人生の支配者と認めることはできません。

素祭そさいの特徴 3.味付けしなければならない

素祭そさいは穀物の捧げ物とも呼ばれていますが、料理でもありました。素祭そさいは3つのものが加えられなければなりませんでした。それが塩、油、乳香です。

素祭そさいには「塩」を入れなければならなかった。

あなたの素祭そさいの供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭そさいに、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。

レビ記2章13節

素祭そさいは塩で味つけられていく必要があり、この塩は「神の契約の塩」と呼ばれていますまた、民数記18章19節では「永遠に変わぬ塩の契約」と表現されています。一部の地域では、塩を一緒に食べることによって、契約を記念する習慣がありました。

防腐剤だった塩は、古代近東で同盟、親睦、約束、忠誠の誓いを結ぶ際に用いられました。バビロンでは、契約の同盟のために両者が塩を食べ、ペルシャの王室では、家臣が王の前で忠誠を誓いながら塩を食べました。遊牧民であるベドウィンの伝統の中に、家族同士が互いに同盟と保護のしるしとして塩を食べ合う習慣があります[20]

イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、91ページ

この塩は神の契約の不変性を表すだけでなく、神と契約状態にあることそのものを象徴していました。この塩は「キリストの義」の象徴だったのです。

「救いの塩」は「救い主の義」です(「各時代の希望』中巻218ページ)。それは神の義の象徴です(「教会へのあかし」第3巻559ページ)。それは,地域社会における神の真の民の影響力を表しています(マタイ5:13)。食物を保存し,味をつけるためには,塩はその中にしみこまなければなりません[21]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

神に喜ばれる「生きた聖なる供え物」(ローマ人への手紙12章1節)として自分自身を捧げるためには、この塩が欠かせません。塩がなければ、素祭そさいが神に受け入れられなかったように、わたしたちもキリストの義をしっかりとつかんでいかなければならないのです。

素祭そさいには「乳香」を入れなければならかった

素祭そさいには塩以外に、乳香と油も一緒にささげられました(レビ記2章15節)

この乳香は悪臭を中和させ、強い殺菌力があり、さらには旧約聖書の中では終末時代に異邦人が王にささげるものでもあります(イザヤ書60章6節)

そのために、ベツレヘムで博士たちはキリストに乳香をささげたのです。また、乳香は祈りの象徴となりました(詩篇141篇2節、ルカによる福音書1章10節、ヨハネの黙示録5章8節、8章3節)

乳香の煙は神を拝する人々と神を結ぶもので、それゆえ、神のもの、神に通じるものと考えられていた。……乳香の煙には強い殺菌力があり、中世ヨーロッパでペストが大流行した時、乳香を薫じて死を免れたと言われている[22]

『新聖書辞典』「乳香」いのちのことば社

素祭そさいと乳香をささげることは、神を王の中の王として認め、神の支配を認めて、神を礼拝することを意味していました。

そして、乳香が持つ殺菌の効能は、神を礼拝する人を細菌などから守っていったのです。同じように、神はわたしたちの悩みを聞き入れられ、助けられます(詩篇34篇6―8節)

素祭そさいには「油」を入れなければならなかった

素祭そさいには、塩と乳香の他に油が加えられました(レビ記2章15節)。油は「聖霊」の象徴です(ゼカリヤ書4章1―6節)。神との関係において、聖霊の働きは必要不可欠です。

素祭そさいは「記念」のしるし

素祭そさいはキリストに対する礼拝者の感謝と献身の気持ちをあらわしていました
祭司は各素祭そさい(ミンハー)の一部を取って,祭壇の前に掲げ,それを主にささげました。それから,祭司は神のものとなったこの素祭そさいの一部を祭壇に投げ,「香ばしいかおり」として焼きました。主は礼拝者のささげた持ち物の代わりにこの「記念」のしるしを受け入れ,素祭そさいの残りを祭司と礼拝者のために返されました[23]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

「祭司は、その砕いた物及びその油のうちから記念の分を取って」、ささげていきました。「記念」とは「覚えられる」という意味の動詞からきた言葉で[24]、ささげた人が神に覚えられる(イザヤ書48章1節)あるいは、神の契約を覚えて(アモス書6章10節)ささげられました。

文脈から見て、この「記念」という言葉は、神がささげた人を覚えてくださるという意味で使われていると考えられています。イスラエルの人々はこの言葉を、神の好意を表現するために用いました。

この言葉は、主がささげ物をした人を忘れてしまったという意味ではありません。むしろ、イスラエル人はこのような言葉を、主の民に対する好意と配慮を表現するために用いました。……また、病気(イザヤ38:3)、敵からの圧迫(民数記10:9)、子どもができない(創世記30:22)など、主が特定の試練から人を救い出すことを表現するためにも使われます。つまり、主の前に「記憶」されることは、主の好意を経験することだったのです[25]

Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 97). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.

素祭そさい灌祭かんさい

素祭そさいは常に灌祭かんさいと共にささげられていました(民数記28章1―7節)灌祭かんさいもまた「契約」の象徴であり(創世記35章14節)、「キリストの血と死」を思い起こさせます(詩篇16篇4節、マタイ26章27節)パンとぶどう液をささげる素祭そさい灌祭かんさいは、まさに聖餐式せいさんしきを連想させるものでした。

「ミシュナ』によれば,オリーブとぶどうの液だけが祭壇にささげられるものでした。灌祭かんさいは決して飲むべきものではありませんでした。ぶどう液の一部はすでに祭壇の上で焼かれている犠牲の上に注ぎかけられました(出エジプト記29:40,レビ記23:13,18,民数記15:5,7,10,24)。

血が犠牲の本質である生命を表していたように(レビ記17:11),ぶどう液はまことのぶどうの木の実の本質を表していました。それはキリストの血の象徴でした[26]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、27ページ

酬恩祭しゅうおんさい(和解のささげもの) |レビ記3章

酬恩祭しゅうおんさい」と口語訳では訳され、新共同訳では「和解のささげもの」と訳されるこの言葉は英語では「平和のささげもの(peace offering)」や「幸福のささげもの(well-being offering)」、「交わりのささげもの(fellowship offering)とも訳されます。

酬恩祭しゅうおんさいは次の三つの場合にささげられました。(1)礼拝者が神のいつくしみと力に対して賛美をささげたいと望んだとき、(2)神の特別な賜物や祝福に対して感謝をささげたいと望んだとき、(3)主のために何かを断ったり,実行したりする誓約を果たしたとき(詩篇116:12―19参照)[27]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、29ページ

酬恩祭しゅうおんさいの特徴 1.腎臓と肝臓をささげる

酬恩祭しゅうおんさいでは、脂肪、腎臓と肝臓だけが焼き尽くされました。腎臓と肝臓は「思い」「心」というニュアンスもあります。酬恩祭しゅうおんさいはその人の「思い」を神にささげるものでした[28]

旧約聖書では、「腎臓」は人の感情、深い考え、良心と頻繁に関連しており(詩16:7; 73:21、エレミヤ11:20; 17:10)、メソポタミア文学においても同様です。……またヘブライ人は、悲しみや喜びといった深い感情を肝臓と関連付けていました(哀歌2:11、詩篇16:9)[29]

Hartley, J. E. (1992). Leviticus (Vol. 4, p. 40). Dallas: Word, Incorporated.

また、「肝臓の上の小葉」(レビ記3章4節)がどの部分であるのかはいくつかの見解があり、あるラビはこれを肝臓の中央に突出した尾状葉とみなしてます[30]

またささげられた理由については、当時の近東の人々が行っていた肝臓占いを防ぐためにささげられたという説[31]と、古代の人々は肝臓で血がつくられると信じており、今でいう心臓と同じような意味合いを持っていた臓器であったためにささげられたという説があります[32]

酬恩祭しゅうおんさいは多くの場合、神に感謝や賛美をしたいときにささげられました。礼拝の大切な一つの要素が、神を賛美し、感謝することです。わたしたちの信仰生活の中で、いつの間にかこの要素が失われてしまうことが時としてあります。

わたしたちは神に対して、願いごとや悔い改めの祈りはしていても、感謝の祈りを忘れてしまうことがあります。神は感謝と賛美の思いをささげることを望んでいるのです。

酬恩祭しゅうおんさいの特徴 2.脂肪は神にささげる

祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである。

レビ記3章16節

酬恩祭しゅうおんさいでは脂肪をとって、焼き尽くさなければなりませんでした。ここでは脂肪はすべて神のものであると書かれています。

しばしば、脂肪は罪の象徴として聖書に登場しますが、この脂肪は「主にささげる香ばしいかおりである」(レビ記3章5節)と書かれていることから、罪を象徴するものではないことがわかります。

「脂肪」と訳された言葉はヤカールであり、「脂肪」というよりも、「美しさ」、「壮大さ」、「尊さ」を意味します。これは神がご自分の民を「尊い」(イザ43:4)と呼ぶのと同じ言葉です[33]

Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 724). Review and Herald Publishing Association.

また、「脂肪」はヘブル語で「最も良いもの」というニュアンスもあります[34]。神は最も良いものを祭壇でささげなさいと言われているのです。

6:12祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭はんさいをその上に並べ、また酬恩祭しゅうおんさいの脂肪をその上で焼かなければならない。

レビ記6章12節

祭壇ではいつも燔祭はんさいとこの酬恩祭しゅうおんさいの脂肪が焼かれていました。燔祭はんさいについても、内臓まで調べて「最も良いもの」をささげる必要がありました(レビ記1章9節)

「最も良いもの」がささげられていた場所は祭壇でした。祭壇は十字架の象徴です(ヨハネによる福音書1章29節、ヘブル人への手紙9章26節)

神は「最も良いもの」であるキリストをささげられました。同じように、わたしたちも最良のもの、最善をささげる必要があります。

酬恩祭しゅうおんさいの特徴 3.食べられる

酬恩祭しゅうおんさいは、交わりの捧げ物(新改訳)とも訳されます。酬恩祭しゅうおんさいの最大の特徴は、それをささげた本人、家族、やもめ、祭司、レビ人たちなど、多くの人たちと共に食べたというということです(レビ記22章21節、申命記12章17―18節、申命記27章7節)酬恩祭しゅうおんさいは救いに感謝する記念のささげ物であったため、この食事は救いの記念の食事でした。

これは平和を実現する場ではなく、平和が存在することを喜ぶ祝宴でした。この祝宴の前には、一般的に、罪のささげ物と焼き尽くすささげ物が行われました。血が注がれ、贖罪しょくざいがなされ、赦しが与えられ、義認が約束されたのです。

この経験を祝うために、捧げ主は近親者、使用人、レビ人を招いて共に食事をしました。家族全員が会衆の中庭に集まり、神と人、人と人の間に平和がもたらされたことを祝ったのです[35]

Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 723). Review and Herald Publishing Association.

古代イスラエルでは、食事はもてなしとして分かち合うものでした(創世記24章32―33、54節、士師記19章21節)。また最上のものを客人に提供することで、敬意を表しました(サムエル記上9章23―24節)。このような時代背景を踏まえると、脂肪を神にささげることは、神に敬意を示すことにもなったのです[36]

この契約の食事にあずかることによって、神と祭司と礼拝者は交わりのきずなによって一つに結ばれました。この宴会は犠牲をほふることによってなされましたが、このことはその犠牲が予表しているメシヤの死がすべての幸福の基礎であることを教えていました[37]

レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、29ページ

天国に行ったときにわたしたちは救いに感謝して、この酬恩祭しゅうおんさいにあらわされていた救いの記念の食事に参加することができます(ヨハネの黙示録19章7―9節)

救いの喜びのために、酬恩祭しゅうおんさいを捧げ、呼べる人たちをできるだけ呼んで一緒に食事をしたように、わたしたちも神に救われた喜びがあるから、手の届く人たちをできるだけ呼んで、天国での記念の食事に招きたいと思います。酬恩祭しゅうおんさいは祝福を共有するときでした。そして、これこそが伝道なのです。

12:18あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの神、主の前でそれを食べなければならない。すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。 12:19慎んで、あなたが世に生きながらえている間、レビびとを捨てないようにしなければならない。

申命記12章18―19節 

酬恩祭しゅうおんさいなどのささげ物により、祭司やレビ人つまり祭司に使える人たちは生活をすることができました。直接的に関われなくとも、奉仕者を支えるという役割の献身もあります。捧げ物によって奉仕者を支えることも伝道の働きなのです。

「あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない」と申命記12章18節にはあります。

わたしたちがイエスとの関係を持ち、救いを経験したときに、その祝福を共有したいと思うようになります。伝道は祝福の共有であり、喜び楽しむときなのです。

罪祭ざいさい愆祭けんさい贖罪しょくざい賠償ばいしょうのささげもの)|レビ記4―6章

罪祭ざいさいの種類

聖所での罪祭ざいさい愆祭けんさいは,私たちの罪に対するキリストのゆるしの方法を象徴していました[38]

罪祭ざいさい愆祭けんさいも、どちらも罪を犯したときにささげられるものでした(レビ記4章2節、5章19節)

罪祭ざいさいと訳される「ハタート」というヘブライ語は「罪」とも訳される言葉です[39]

また、この二つのささげ物の「罪祭ざいさい愆祭けんさいも、そのおきては一つであって、異なるところは」ありませんでした(レビ記7章7節)

イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。

レビ記4章2節

「あやまって罪を犯し」は、主がするなと命じられたことを、「思わず犯してしまった罪」とも言い換えられます[40]。つまり、不注意で意図せず、軽率に犯してしまった罪なのです。

この「思わず犯してしまった罪」には2つのパターンが考えられます。ひとつめは律法を知っていて思わず、もしくは気づかないで犯してしまった罪びとのパターン。もうひとつはそもそも律法を意識している人ではなかった罪びとのパターンです。

後者で考えた場合、この犠牲が象徴するキリストの十字架は、まさにすべての人を救うためのものであったと言えるでしょう。

大祭司と全会衆のための罪祭ざいさい

これらの罪は重く見られ、ささげ物の中で最も高価な「雄の全き子牛」(レビ記4章3節)をささげなければなりませんでした。与えられた光に応じて裁かれるという原則がここでも見られます(ローマ人への手紙2章11―16節)

大祭司と全会衆の罪祭ざいさいのみ、血を持って聖所の中に入り聖所の垂幕の前で血を7回そそぎ、聖所の中にある香壇の角に7回塗り、罪祭ざいさいの犠牲を焼き尽くしました。このことから、大祭司の罪と全会衆の罪が同等と見られていることがわかります[41]

大祭司は民のために立ち、民を代表しました(レビ16:15, 16; ゼカ3:1―4を参照)。この原則と一致するのが、預言者たちが常に民の罪と自分を同一視することです。その罪のために神の使者として人々を叱責しましたが、神に祈る時には、叱責された罪の中にいる民と一つであるかのように神に近づいたのです。[42]

Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 729). Review and Herald Publishing Association.

大祭司は民の代表でした。同様に、アダムは人類の代表であり、またキリストも代表でした。それゆえに、「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶ」のです(ローマ人への手紙5章18節)[43]

アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

コリントの第一の手紙5章22節

指導者と個人のための罪祭ざいさい

「つかさたる者」つまり王や支配者は、子牛ではなく、雄ヤギをささげるようにと命じられています[44]。また、一般の人は、雌ヤギもしくは雌の小羊をささげるようにと命じられています。雄ヤギよりも、雌ヤギの方が低い価値で、雌の小羊はそれよりももっと価値が低く、貧しい人々のためのものでした[45]

このことを踏まえると、キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれているということは(ヨハネによる福音書1章29節)、全人類のために死なれる使命をさらに強調していたことがわかります。

また愆祭けんさいの規定には、小羊にも手が届かない場合には、山ばと2羽か家ばとのひな2羽をささげるようにとあります。さらに、それさえも手に届かない場合には、素祭そさいと区別するために油と乳香をかけずに、麦粉十分の一エパ(約2ℓ)をささげることをゆるされました(レビ記2章15節、5章11節)[46]

また当時の律法では、貧しい人々のために「刈入れの落ち穂を拾ってはならない」と定められていました(レビ記19章9―10)。ボアズに気に入られたルツが一日中、落穂拾いをして、大麦1エパを拾い、ナオミが驚いている記述があることから(ルツ記2章17―19節)、もしかすると貧しい人が一日拾い集めれば、必ず得られる量が麦粉十分の一エパだったのかもしれません。

主は、貧富の差にかかわらず、すべての民が等しく主を礼拝できるようにと望まれました。(記録はないが、燔祭はんさい罪祭ざいさいにも同じような規定があったとしても不思議はない)[47]

Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 117). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.

罪のためのささげものはどんな人でもささげられました。実質、無料だったのです。

救いは恵みによって、わたしたちに無料で与えられました。興味深いことに、ユダヤ教では「寄付」のことを「ツェダカー」といい、「ツァダカー」は「義」という意味があります。

ユダヤ教での寄付のことをツェダカーと呼びます。ツェダカーはヘブライ語で「正義」を意味します。慈善や施しとは少し意味が違います。ツェダカーをおこなうことは正義そのものであるという考えが根底にあります[48]

ハバッドハウス・オブ・ジャパン本部ホームページ

罪祭ざいさいの特徴 1.罪を得るのは主の前

また人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得、そのとがを負わなければならない。……これは愆祭けんさいである。彼は確かに主の前にとがを得たからである。

レビ記5章17,19節

レビ記5章17節の「とがを負わなければならない」と訳されているところを直訳すると、「その罪を負う」となります[49]。人は犯した罪の責任を負うのです。そして、それは「主の前にとがを得た」という表現であらわされています。

興味深いことに、レビ記6章1節を見てみると、ある人が隣人を欺いたり、虐げたりして罪を犯したとき、その罪は隣人だけでなく、「主に対して」なされたものであるとされています。

罪を得るのは主の前です。わたしたちが罪を犯すとき、それは関係した人々に対してだけでなく、主に対して罪を犯すのです。

そのような罪に対して、主は愆祭けんさいをささげるようにと命じられます。愆祭けんさいは「賠償ばいしょうのささげもの」とも訳されます。この愆祭けんさいはイスラエル人に償うことを教えていました。

人々に対して罪を犯したとき、クリスチャンはその関係の修復と償いのために努力するのです(ルカによる福音書19章8節)

そして、主はそんなわたしたちに対して、キリストという賠償ばいしょうのささげものを送られました。これこそが贖いです。

罪のためのいけにえの効果は、牛と同様に「贖い」と「赦し」です。……(レビ記4章)20節で初めて言及され、26、31、35節にもくり返されています。「贖い」と訳されたヘブル動詞כפרキペルの意味については、①覆う、②賠償ばいしょうする、③洗い流す、の3つの見解があります[50]

イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、110ページ(括弧は筆者注)

キリストはわたしたちの罪を覆われ、賠償ばいしょうされ、洗い流されるのです。これは祭司の働きにも象徴されていました。祭司は中庭で罪祭ざいさいを食べ、それによって象徴的に罪を負う者となったのです(レビ記6章26節、10章17節)

血が聖所の中にたずさえられない場合もあった。そのときには,モーセがアロンの子らに命じて,「これは……あなたがたが会衆の罪を負(う)……ため,あなたがたに賜わった物である」(レビ記10:17)と言ったように,祭司がその肉を食べなければならなかった。これらの儀式は,共に,悔い改めた者から聖所へと罪が移されることを象徴したものであった[51]

エレン・ホワイト『人類のあけぼの 上巻』福音社、419ページ

罪祭ざいさいの特徴 2. 血を注ぐ

罪祭ざいさいが適用されるのは、あやまって犯した罪と軽い故意的な罪でした。レビ記によると、故意に犯した重罪は基本的には処罰が下されます。しかし、贖罪しょくざいの日にはこの重罪も贖われたのです(レビ記16章16,21節)[52]

罪祭ざいさいと比べると、一般的にささげられる素祭そさい酬恩祭しゅうおんさいなどは比較的自由に任意でささげられていましたが、罪祭ざいさいは罪を犯したら必ずささげなければなりませんでした。

罪を犯したならば、犠牲の動物を連れてきて、動物の頭に手を置き、罪を告白し、燔祭はんさいをほふる場で殺してささげます(レビ記4章4,29節、5章5節)

この血は大祭司と全会衆の罪祭ざいさいのみ、聖所の中に血は持っていかれ、指導者と個人のための罪祭ざいさいの場合には燔祭はんさいの祭壇の角にその血は塗られました。そして、どちらも残りの血は祭壇に注がれたのです(レビ記4章6―7,17―18,25,30節)

また、燔祭はんさいの血は「会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲」に、愆祭けんさいの血は「祭壇の側面」に注がれています(レビ記1章5節、5章9節)

レビ記16章に登場する年に一度の大いなる贖いの日には、血は贖罪しょくざい所(契約の箱)の上と前に、祭壇の四すみの角と祭壇に注がれました。これは罪祭ざいさい燔祭はんさいの血が、祭壇の角と祭壇の周囲に注がれていたためと考えられます[53]。こうして、聖所の内も外も清められるのでした。

この血を塗る儀式は「清めの象徴」でした(レビ記8章15節)

こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。

ヘブル人への手紙9章22節

また、血は「命の象徴」でもありました(出エジプト記9章4節)。まさに罪祭ざいさいは、罪の支払う報酬が死であることと、そこからの救いを象徴していました。

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠のいのちである。

ローマ人への手紙6章23節

キリストの血は罪を清めるのです。

罪祭ざいさいの特徴 3.焼き捨てる

罪祭ざいさいがささげられるとき、祭壇の上で罪祭ざいさいの脂肪が焼かれ、その他の肉は宿営の外の清い場所である灰捨場で焼き捨てられました(レビ記4章8―12節)

宿営の外の清い場所である灰捨場は、エルサレムの郊外で起こったゴルゴタの丘のキリストの十字架の象徴でもあります(ヘブル人への手紙13章11―12節)

マラキ書4章1―3節には、罪が灰のように燃え尽きてしまう様子が描かれています(新共同訳ではマラキ書3章19―21節)。キリストの働きは、罪を灰捨場の灰のように燃え尽きさせていきます。そして、その恵みは望むならば、どのような人であっても無償で与えられていくのです。

捧げる者は、罪とその破壊的な性質を告白しつつ、悔い改めを持って、信仰により自らいけにえの動物と同一視することによって赦されるのである。

神は憐れみ深いゆえに、真の悔い改めが示されたならば、捧げる者を罰する代わりに、同一視された象徴<つまりいけにえの捧げ物>を受け入れられるのである。

これらすべてはイェシュアの犠牲を理解する上で大きな意義を持つ。それはイェシュアこそ神の最も偉大な愛の啓示であり、我らの同一視された象徴だということである。[54]

ダニエル・ジャスター(行澤一人・監訳)『メシアニック・ジュダイズム』マルコーシュ・パブリケーション、60―61ページ

まとめ

犠牲の供え物は、「殺す」ことではなく、「関係の回復」に焦点が当たっています。

それは英語の「贖罪(at-one-ment)」が「一致している関係」を意味している言葉であることからもわかります。

犠牲の供え物に関係するヘブル語はいずれも、ほふる儀礼行為それ自体を指し示していないということです。聖書の犠牲の供え者は、殺すという形式よりも、関係という機能に関わっていました。神さまは、犠牲の供え物を設けられ、後に犠牲制度を設置されましたが、それによって信仰者は、神さまとの親しい関係に入ることができたのです[55]

マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、35ぺージ

聖所とその犠牲は、神と人が共にひとつとなるためのステップを象徴的に示したものだったのです。

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参考文献

[1] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、62ぺージ

[2] Craigie, P. C. (2004). Psalms 1–50 (2nd ed., Vol. 19, p. 232). Nashville, TN: Nelson Reference & Electronic.

[3] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、44ぺージ

[4] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、55ぺージ

[5] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、57―58ぺージ

[6] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、58ぺージ

[7] マーティン・プレブストル『聖所』』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、40ページ

[8] Charles Meeks, “Azazel”, ed. John D. Barry et al.John D. Barry et al., The Lexham Bible Dictionary (Bellingham, WA: Lexham Press, 2016).

[9] Siegfried H. Horn, The Seventh-Day Adventist Bible Dictionary (Review and Herald Publishing Association, 1979), 102.

[10] 『セブンスデー・アドベンチスト 教理の研究』380―381ページ

[11] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、23―24ページ

[12] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 712). Review and Herald Publishing Association.

[13] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 712). Review and Herald Publishing Association.

[14] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、35ページ

[15] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

[16] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 719). Review and Herald Publishing Association.

[17] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

[18] エレン・ホワイト『希望への光』(『人類のあけぼの』「第6章 明暗を分けたカインとアベル」)福音社、38ぺージ

[19] Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 99). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.<>は筆者加筆部分

[20] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、91ページ

[21] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

[22] 『新聖書辞典』「乳香」いのちのことば社

[23] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、26ページ

[24] Hartley, J. E. (1992). Leviticus (Vol. 4, p. 30). Dallas: Word, Incorporated.

[25] Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 97). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.

[26] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、27ページ

[27] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、29ページ

[28] Strong, J. (2009). A Concise Dictionary of the Words in the Greek Testament and The Hebrew Bible (Vol. 2, p. 55). Bellingham, WA: Logos Bible Software.

[29] Hartley, J. E. (1992). Leviticus (Vol. 4, p. 40). Dallas: Word, Incorporated.

[30] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、96ページ

[31] Hartley, J. E. (1992). Leviticus (Vol. 4, p. 40). Dallas: Word, Incorporated.

[32] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、96ページ

[33] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 724). Review and Herald Publishing Association.

[34] Strong, J. (2009). A Concise Dictionary of the Words in the Greek Testament and The Hebrew Bible (Vol. 2, p. 39). Bellingham, WA: Logos Bible Software.

[35] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 723). Review and Herald Publishing Association.

[36] Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, pp. 104–105). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.

[37] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、29ページ

[38] レスリー・ハーディンク、フランク・ホルブルック『レビ記と生活』セブンスデー・アドベンチスト安息日学校部、36―37ページ

[39] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, pp. 727–728). Review and Herald Publishing Association.

[40] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、104ページ

[41] すべての祭司は油を塗られましたが、大祭司だけが頭に油を塗られました。ですから、大祭司はここで「油注がれた祭司」と呼ばれています(出エジプト29:7-9、レビ8:12、13参照)

Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 729,732). Review and Herald Publishing Association..

[42] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 729). Review and Herald Publishing Association.

[43] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 729). Review and Herald Publishing Association.

[44] Strong, J. (2009). A Concise Dictionary of the Words in the Greek Testament and The Hebrew Bible (Vol. 2, p. 81). Bellingham, WA: Logos Bible Software.

[45] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 732). Review and Herald Publishing Association.

[46] Hartley, J. E. (1992). Leviticus (Vol. 4, p. 70). Dallas: Word, Incorporated.

[47] Sklar, J. (2013). Leviticus: An Introduction and Commentary. (D. G. Firth, Ed.) (Vol. 3, p. 117). Nottingham, England: Inter-Varsity Press.

[48] ハバッドハウス・オブ・ジャパン本部ホームページ 2023年2月1日閲覧
https://chabadjapan.org/ja/ツェダカー(寄付)のすすめ/

[49] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、123ページ

[50] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、110ページ(括弧は筆者挿入)。

[51] エレン・ホワイト『人類のあけぼの 上巻』福音社、419ページ

[52] イ・ヒョンギ『リビングライフ+ Plus』(August 2019)Durannojapan 、116ページ

[53] Nichol, F. D. (Ed.). (1978). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 1, p. 777). Review and Herald Publishing Association.

[54] ダニエル・ジャスター(行澤一人・監訳)『メシアニック・ジュダイズム』マルコーシュ・パブリケーション、60―61ページ

[55] マーティン・プレブストル『神さまと私が出会うところ―聖所の教理』福音社、35ぺージ

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