弁解は反逆と滅びに先だつ
反逆への道は弁解,正当化,そして「体裁のよい」罪で舗装されていますが,その行き先は災いと滅びです。今週は,滅びの道に足を踏み入れるサウルの姿について学びます。
危機に立つ指導者 古代イスラエルは一つの国家であると同時に,一つの教会でした。人々が神を最高の支配者として認めたときに,教会と国家の一致はうまく機能しました。神の計画は,士師と預言者が神から与えられた特別な指針のもとで管理者として働くことでした。イスラエル人は王を求めましたが,彼らはそのとき,そのような支配者カミ絶対的権力を行使し,神の支配と導きを無視しがちであるという警告を受けました。
今週の教課は,王が神のみこころに反した行動に出るとき何が起こるかを教えています。とくに次の点に留意しながら,研究を進めてください。(1)絶対王政はなぜ神権政治と調和しないのか。(2)神はサウルを王として選び,彼が神の導きに背いたときに彼を捨てられた。神はイスラエルに対してどのような王権を望んでおられたのだろうか。(3)今週の教課は今日の教会指導者および教会員に対して何を教えているだろうか。
Ⅰ. サウルの最初の過ち(サムエル記上13章1節~14節)
ヤベシ・ギレアデにおけるサウルの勝利によって,イスラエルの士気が大いに高められ,サウルは策略にたけたペリシテ人に対抗するために人々を結集するに十分な信望を得ました。ペリシテ人がその前にイスラエルを攻撃しなかったのは不思議です。
サウルは部下を二つの隊に分け,残りを家に帰らせました。「これは,大きなまちがいであった。彼の軍隊は,今度の勝利によって希望と勇気にあふれていた。であるから,サウルがすぐにイスラエルの他の敵を攻めたならば,国家を自由にするために効果的打撃を与えることができたはずであった」(「人類のあけぼの』下巻284ページ)。
サウルの勇敢な息子,ヨナタンが,ここで初めて登場します。サウルの治世の第2年目に,彼はゲバにあるペリシテ人の守備隊を攻撃し,これを破りました。
ヨナタンがペリシテ人を破ったとき,次の人々はそれぞれどんな行動をとりましたか。サム上13:5~9,12
ペリシテ人(5節)
イスラエル人(6,7節)
サウル(8,9,12節)
恥知らずなイスラエル人の反逆の「あげくの果て」がこれでした。ペリシテ人は兵力を結集して,戦いの準備をします。
部下が恐怖に打ちひしがれているのを見たサウルは,神の祝福と導きの必要性を痛感しました。サムエルは先に,行動を起こす前に一週間待つようにと指示していました。しかし,サウルが民を用意させなかったので,彼らはサウルを見捨て始めます。
人間の計画を神の計画に代用する 「定められた期間が完了する前に,彼は遅延にしびれを切らし,周囲の困難な状況に失望してしまった。サムエルが到着して行なうことになっていた儀式のために,忠実に人々の準備を促す代わりに,彼は,不信と不安感をいだいた。.…“そして,ささげ物が神に受け入れられ,彼らの敵を征服しようとする努力が神に祝福されるためには,神の民が心をさぐり,罪を悔い改めることを神はお求めになった。しかし,サウルは落ち着きを失った。そして人々は,神の助けに信頼する代わりに,彼らの選んだ王の指導を期待した」(「人類のあけぼの』下巻286ページ)。
サムエルが遅れてギルガルにいるサウルのところに来たのは,サウルをためすためでした。サムエル記上13章に記された次の行動や言葉には,サウルのどんな消極的な特性が示されていますか。
「サウルはあいさつをしようと,彼を迎えに出た」(10節)
「あなたは定まった日のうちにこられない」(11節)
「わたしはまだ主の恵みを求めることをしていない」(12節)
「やむを得ず蟠祭をささげました」(12節)
最も重大な罪の一つは,信心を装った不従順です。「彼〔サウル〕は,真の敬神の念の欠乏を,宗教の形式に対する熱意によって補おうとした」(「人類のあけぼの」下巻289ページ)。意気消沈していた部下を励ますために祭司の役割を奪うこと,聖なる儀式についての神の明らかな要求を無視することは,最大のうぬぼれでした。サウルはイスラエルの指導者としての資格を自ら捨てたのでした。
どんなときにも神に従う 「神のみ言葉に,全的に服従する以外に安全はない。神の約束は,すべて,信仰と服従を条件にして与えられたもので,神の命令に応じなければ,聖書にしるされている豊かな恵みにあずかることができない。われわれは衝動にかられたり,人間の判断に頼ったりしてはならない。われわれはどんな環境にあっても,神の啓示されたみこころを仰ぎ,神の明らかな戒めに従って歩かなければならない」(「人類のあけぼの」下巻288ページ)。
自分たちの王制が神の直接的な支配のもとにあることを,イスラエルは覚えなければなりませんでした。神のみこころに従っているときにのみ,彼らは繁栄し,神の守りにあずかるのでした。もしサウルが謙そんと従順の精神を表していたならば,彼の王国は永遠に確立されていたかもしれません。
自分に正直であること 神の戒めに背いたために失望や損失をこうむった経験はありませんか。「われわれはみな羊のように迷って,おのおの自分の道に向かって行った」(イザ53:6)◎私たちが罪を告白し,悔い改めるとき,完全にゆるされ,受け入れられます(イザ55:7参照)。
Ⅱ.高慢に支配されるとき(サムエル記上13章15節~14章46節)
この頃のイスラエルはペリシテ人とどんな関係にありましたか。サム上13:19~21(できれば,ほかの翻訳の聖書で読んでみましょう)
「海の民」とも呼ばれるペリシテ人は,エレミヤ書47:4およびアモス書9:7によれば,カフトル(クレテ)から来た民族でした。彼らは海岸沿いの平野を支配し,軍事技術に精通し,鉄製の武器を独占していたので,イスラエルにとって手に負えない敵でした。
そのような状況のゆえに,サムエル記上14章に描かれたヨナタンの勝利はいっそう輝かしいものとなっています。
サムエル記上14:1~14には,ヨナタンのどんな勇気ある行動が記されていますか。このことは次の人々について何を暗示していますか。
サウル(2節)
ヨナタン(6,12,13節)
武器を執る者(7,13節)
「ヨセフスの考えによれば,ヨナタンと彼の武器を執る者とがペリシテ人の前進基地に近づいたのは夜明けの頃であり,そこに到着したのは,ほとんどの者がまだ眠っている頃であった(『ユダヤ古代史』Ⅵ.6,2)。14章の記録も,それが早朝であったことを裏づけている(15,16,20,23,24~28, 30, 31, 45節参照)。二人のイスラエル人が夜まで待って断崖を登ったのか,数分のうちにそれを登ったのかは記されていない。いずれにせよ,急雲によって要塞を奪ったのであろう。ペリシテ人の駐屯地が完全に混乱に陥っているからである」( 「S D A 聖書注解」第2 巻5 1 5 ページ) 。
サウルがこのような性急な命令を下したのは,神の恵みを確保しようとする誤った信心からでした。彼はイスラエルの最高司令官だったので,兵士に必要な食糧と補給品を与えることが彼の務めであったはずです。ところが,彼の宣告したのろいは体力の消耗と混乱をもたらします。そのため,兵士たちは絶望的な気持ちから神の戒めの一つを破ります(レビ3:17参照)。
「サウルの軍隊によってなされた軍事的功績は,十分に訓練を受けた軍隊にとってさえ偉大な働きであっただろう。とするなら,十分に訓練されていない彼の軍隊のような未熟な田舎者の集団にとつてはなおさらであった。この経験は,叱責されてなお憤慨し,自分の名誉のことしか考えていないサウルにとってどれほどの教訓となっていたことであろう。しかし,一歩,高慢という流砂に足を踏み入れたときに,いくら無力で優柔不断な弁解をしてみても,さらに深く沈むばかりであった」( 「SDA聖書注解』第2巻517ページ)。
神はサウルの誓いをお受け入れになりませんでした。その証拠に,神はサウルに答えておられません(サム上14:37)。とすれば,ヨナタンによって敵を打ち負かされた神は,彼を殺害するというサウルの計画を決してお受け入れにはならなかったでしょう。
サウルとヨナタンのやりとり,またヨナタンのための民の執り成しについて見てください(サム上14:43~45)。この出来事はヨナタンの品性についてどういうことを教えていますか。
Ⅲ. 偽りの信心は反逆となる(サムエル記上1 4 章4 7節~1 5章3 5節)
サムエル記上14章の最後の部分は,サウルの功績,その家族の名前,さらにその軍の長について記しています。これらのことがらはふつう,特定の王についての記録の最後にくるものです。著者はこれによって,イスラエルの初代の王の治世がここで終わったことを示唆しているかのようです。しかし,サウルの悲しい物語はまだ終わっていません。預言者サムエルはもういちど主の言葉をもって王のところに来ます。サウルはもういちど,神の命令に従ってイスラエルを導く能力があるか否かがためされる機会が与えられます。
3節の「滅ぼしつくせ」を意味するヘブル語は字義的には,「禁止する」ですが,これはつまり滅ぼすことによって神に献身することを意味します。それは民族全体およびそのすべての所有物を根絶せよという神の命令でした。神がのちにほかの民族を用いてイスラエルにさばきを下されたように,神は今,イスラエルを用いて邪悪なアマレク人にさばきを下されるのでした。
神はなぜ罰せられるのか 「神が悪人を長く忍ばれるために,人人は大胆に罪を犯す。しかし,長く延期されても,刑罰の確実なことと恐ろしさにはなんの変わりもない。.…・・神は刑罰を喜ばれないが,神の律法を犯す者には刑罰を与えられる。地の住民が全く腐敗して滅亡することを防ぐために,神はやむをえずこれをなさらなければならない。神は,いくらかの人々を救うために,罪にかたくなになった人々を滅ぼさなければならない」(「人類のあけぼの』下巻297,298ページ)。
神は人間と同じ意味で悔いることはありません。「神の悔いは環境と関係の変化を意味する」(「人類のあけぼの』下巻300ページ)。
「サムエルは怒って,夜通し,主に呼ばわった」とありますが,これは怒り,失望,不満,悲しみの入り混じったものだったでしょう。
つぎの聖句には,サウルの罪と弱さを示すどんな行為や言葉が見られますか。サム上15 : 12, 13, 15, 20, 21
サムエル記上15:22,23のサムエルの言葉を祈りをもって研究してください。また,それを次の聖句と比較してください。
イザヤ書1:11~17
ミカ書6:6~8
心が神から遠く離れ,生活が不従順とうぬぼれで満ちていながら,形式と儀式を守り,自分の善によって神に喜ばれようとしている人たちがいます。しかし,神はそのような人々をお受け入れになりません。古代の犠牲は人々を神に導くために与えられたのであって,神との関係の代用として与えられたのではありません。今日も同じです。単なる口先だけの信仰,キリストとの救いの関係をともなわない形式的な信心は,神に受け入れられません。
アンドルー・ブラックウッドは言いました。「信心深いふりをしているだけでは,人生の嵐から守られない」と。
「サウルは,非常な熱心さをもって偶像礼拝と魔術とを禁止した。それにもかかわらず,彼は,神に対抗する同様の精神に支配されて,神の命にそむき,魔術を行なう人々と同様に,実際にサタンの力に動かされていた。彼は證責されたときに,反逆に強情の罪も加えた。
彼がたとえ公然と偶像礼拝に加わったとしても,神の霊をこれ以上侮辱することはできなかった」(『人類のあけぼの』下巻308ページ)
まとめ
反逆への道は体裁の良い罪, たとえば神の方法よりも自分の方法を優先する, 隠れた罪を正当化するといったところから始まります。しかし,徐々に,しかも知らないうちに,うぬぼれが不従順に,高慢が強情に,そしてついには反逆と滅びに発展します。「それが書かれたのは,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」( I コリ・1 0 : 1 1 ) 。
*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。