挑戦と苦難の学校
神はご自分の民の指導者を試練と困難にゆだねることによって,彼らを訓練されます。無名の境遇から身を起こして神に用いられる人の道は,障害と挑戦で満ちています。それらは人の品性を神の品性に似たものとしてくれます。
古い契約の失敗,新しい契約の勝利 古い契約のもとでのイスラエルは人間の意志だけで従うことができませんでした。その証拠にサウルは神の力のともなわない人間の努力のむなしさを露呈しました。新しい契約は神の力をもたらしました。その証拠に,ダビデは聖霊に満たされた新しい人を通してなさる神のわざを例示しています。
今週から,愛された青年ダビデの生涯について学びます。彼自身の家族との関係,サウル王の家族との関係,イスラエルの民との関係,そしてとくに主との関係について学びます。彼は神の御子の先祖となるのでした。巨人ゴリアテと戦う彼の勇気,その謙虚さ,ヨナタンに対するその愛は,私たちの胸を打ちます。
Ⅰ. イスラエルの将来の王として油を注がれるダビデ(サムエル記上16章1節~23節)
サムエル記上14:1~14には,ヨナタンのどんな勇気ある行動が記されていますか。このことは次の人々について何を暗示していますか。
サウル(2節)
ヨナタン(6,12,13節)
武器を執る者(7,13節)
イスラエルの新しい王としてエッサイの子に油を注ぐよう,サムエルは命じられました(サム上16:1~13)。この物語を読んで,次の点について考えてください。
ベツレヘムの住民(4節)
秘かな行為(3~5節)
エッサイの子らに対するサムエルの印象(6~10節)
王を選ぶ神の方法(7節)
ダビデの油注ぎとその結果(13節)
イスラエルの最初の王を選ぶにあたって,神は人々の願望にかなう体格と顔立ちの人物を受け入れられました。しかし,今,神は預言者サムエルにこう言われます。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見,主は心を見る」(サム上16: 7)。
神は品性を見る「顔かたちが美しいからといって,神によく思われることはできない。品性と行為にあらわれる知恵と美徳が,入間の真の美を表現する。内面の価値と心の卓越性とが,万軍の主に受け入れられるかいなかを決定するものである。われわれは,自己,または,他人を評価するに当たって,この事実を深く感じなければならない」(「人類のあけぼの』下巻3 1 1 , 3 1 2 ページ) 。
ダビデの訓練は宮殿と牧場においてなされました。彼はサウルのそばで王の生き方について学び,指導者の責任と義務について教えられました。しかし,イスラエルの将来の王としてのダビデにとって,最も重要な教育の場は,岩だらけのユダヤの山々に囲まれた自然界の教室でした(サム上17:15比較)。イスラエルの将来の牧者となるための備えは,父の羊を飼うことによってなされました。
彼は竪琴をもって,聖霊の霊感を受けて,病気の王を慰める音楽を作り,またその後,幾世代にもわたって神の民を祝福する多くの叙情詩を作りました。
Ⅱ. グビデの勇気は信仰にもとづく(サムエル記上17章1節〜58節)
イスラエルがペリシテ人と戦ったときの様子について読み(サム上17:1~11),つぎの点について考えてください。
●ペリシテ人が一対一の戦いを申し出たのはなぜですか。
●この提案が重大な意味を持っていたのはなぜですか(9節)。
「何という対照的な姿であろうかー卑しい羊飼いの少年が熟練したイスラエルの勇士を励ますとは!イスラエルの中でただ一人の巨人,サウル(10 : 23)は,自分がゴリアテの挑戦を受け入れるべき者であることを認めていた。しかし,罪の意識が彼を恐れさせ震えさせていた。……一方,ダビデは,「神に対しまた人に対して,良心に責められることのない』しるしである真の楽天主義と勇気に満ちた精神を発揮した(使徒24:16-詩51:10,11比較)。サウルが憶病であるのと同じくらい,ダビデは勇敢であった」( 「SDA聖書注解』第2巻538ページ)。
ダビデの強さの秘訣は,彼が羊飼いとしてライオンや熊を殺したことにあるのではなく,むしろ勇気と忍耐,そして神に対する生きた信仰を持っていたことにあります。彼は父の求めに応じて,戦線に出て,神の御使いの導きのもとで使命を実行しようとしました。
「ダビデは奮起した。彼は,生ける神の誉れと神の民の名誉を保つ熱心に燃え立った」(「人類のあけぼの』下巻319ページ)。
兄弟たちのねたみと疑いは,サムエルが彼らの家に来て,彼らの中からダビデを選んだその日に始まったと思われます。ダビデの勇気と大胆さ,そして自分たちの臆病さを見せつけられた彼らは,ダビデの提案に憤りを覚えました。
ゴリアテに対するダビデの挑戦が彼の武勇と勇敢さを見せびらかすためのものではなかったことはどこからわかりますか(サム上17:45~47)。ダビデはどんな大いなる霊的真理を信じていましたか。
ゴリアテを倒したダビデの劇的な勝利の物語は,世界中の子供たちに愛読されていますが,それは勇気や勇敢さを教える物語以上のものです。それは信仰の物語です。すなわち, 疑いや失望によっても失われることのない信仰, ものごとを人間的な狭い見方で見ることのない信仰, そして神に信頼して不可能なことをなす信仰の物語です。
クリスチャンの生き方の模範とも言うべきダビデが教えていることは,私たちも自分の人生で出会う巨人ゴリアテのような問題に対して恐れるには及ばないということです。ダビデも言っているように,それは万軍の主の戦いなのです。私たちが勝利を得るのは剣や槍によってではなく,神の力によってです。それは私たちの手柄ではなく,「イスラエルに,神がおられることを全地に知らせ」るためです(サム上17:46)。
◆私たちはどうしたらキリストに対する信仰を失わせようとする霊的な巨人に勝利することができますか( I ヨハ・5 : 4 , 5 参照) 。
Ⅲ. ダビデの謙そんとサウルのねたみ(サムエル記上18章5節~19章24節)
「王の心にしっとの鬼がはいった。彼は,イスラエルの女たちが,彼よりもダビデをほめそやしたのを怒った。彼は,こうしたしっと心を押えないで,彼の品性の弱点を暴露して叫んだ。……サウルの性格の一大欠陥は,賞賛を愛する心であった。この特質が,彼の行動と思想を支配していた。何事においても,賞賛と自己賞揚を欲する気持ちがあらわれていた。彼の善悪の標準は,人々の賞賛という低い標準であった。まず第一に神を喜ばせようとせず,人間を喜ばせるために生活する人は安全ではない。サウルの野心は人間から最高の賛辞を受けることであった。……サウルは,しっと心をいだいた。そして,彼の魂は,それに毒された」(「人類のあけぼの』下巻325,326ページ)。
サウルが王として油を注がれたとき,主の霊が彼にのぞみ,彼は新しい人となりました(サム上10:6,9)◎ダビデが油を注がれたとき,「その日からのち,主の霊は,はげしくダビデの上に臨んだ」(サム上16:13)。しかし,同時に,「主の霊はサウルを離れ,主から来る悪霊が彼を悩ました」(14節)。聖書記者はしばしば,神がお許しになることをすべて神のわざにしています。サウルが聖霊の嘆願と預言者の警告を拒んだとき,彼は自分の心を自然の結果にゆだねたのでした。そのために,彼の心は乱れ,サタンに支配されることになりました。
内なる罪による滅び サウルは敵に対して自分の軍隊を動かすことができましたが,最大の敵一自分自身一を抑制することができませんでした。抑制を失った感情と判断のゆえに,彼は狂気に満ちた怒りから失意の深みに落ち込んでいきます。
ダビデの存在そのものが罪深い王を責めました。神はダビデの潔白な生き方と品性を祝福されましたが,そのことは逆に,サウルのみじめな,しっと深い性格を非難することとなりました。「ねたみは,誇りから生じる。もし心にねたみをいだけば,それは憎悪となり,ついには,ふくしゅう,殺人を犯させることになる」(『人類のあけぼの』下巻327ページ)。
ヨナタンはすでにこれまでにも何回か,すぐれた特質を示しています。おそらく,自分の父の行状を見て,父に見習わないように決心していたのでしょう。しかし,いかなる理由であれ,ヨナタンは真の無我の精神をもって,自分の政敵であるダビデを守りました。一方,ダビデも,王子の心を引きつけるに十分な,美しい,謙そんな心を持っていたにちがいありません。
サウルによる次の二回にわたるダビデ殺害計画と,ダビデの妻による救出について読んでください(サム上19:8~17)。このときに書かれたと思われる詩篇59篇は,ダビデの態度についてどのように記していますか。
サウルが本気で自分を殺そうとしていることに気づいたダビデは,ラマのナヨテに逃れます。預言者サムエルの保護,あるいは勧告を求めようとしたのです。それに続く不思議な出来事(サム上19:20 ~24参照)は,多くの人々を困惑させるものです。デービッド・ペインは,この出来事について次のように解説しています。
「経験は,聖書に啓示された神のみこころを理解し,それに従おうとする誠実な願望に決して代わるものではない。……サウルの場合においても,ナヨテにおける彼の経験をその精神的な混乱の一部と考えることができる。……彼は無実の人物を追って自らの意志でナヨテに行った。もし神がそこで彼の自制心を取り去られたとすれば,それはサウルに害を与えるためではなく,ダビデを救出するためであった」(デービッド.F・ペイン「サムエル記上・下」102 , 103ページ)。
◆あなたは神の介入によって霊的,肉体的な敵から守られた経験はありませんか。
Ⅵ、ダビデとヨナタンの契約(サム上18章1節~4節,20章1節~42節, 23章16節~18節)
つぎの聖句は真の友情についてどんなことを教えていますか。それをダビデとヨナタンの友情にあてはめてみてください。
ヨハネ15:13
ヨブ記2:11
箴言17:17
箴言27:10
ダビデはサムエルのもとを去り,ヨナタンの助けを求めます。「わたしと死との間は,ただ一歩です」(サム上20:3)。ヨナタンは自分の友を助けるために,喜んですべてを犠牲にしようとします。事実,彼は自分の命さえ犠牲にしようとしました。
父の異常な行動に苦しめられながらも,ヨナタンはつねにダビデに忠実でした。サウルは激怒して,自分の息子さえ殺そうとします
(サム上20:30~34)。彼の偏狭で,利己的な精神は,王位につく権利さえ喜んで他人に譲ろうとする自分の息子の無我の精神を理解することができませんでした。
ダビデとヨナタンの契約はどのようなものでしたか。サム上20:8,14~17,42
ダビデの義務
ヨナタンの誓い
ダビデとヨナタンの契約は,愛と忠誠にもとづいた友情の契約でした。しかし,それはまた政治的な意味も持っていました。というのは,それがダビデの家に対してつねにヨナタンの子孫に恵みを施すことを求めているからです(サム下9:1,7参照)。彼らの別れの言葉がその誓いを保証しています(サム上20:42参照)。ダビデは決してヨナタンヘの義務を忘れませんでした。そして,ヨナタンの忠実な友情は,神の摂理によって,イスラエルの将来の指導者の生命を守りました。
このような忠誠心は,利己主義の強い現代にあってはほとんど見られなくなりました。それは私たちに,人類家族を救うためにご自分の王としての地位を喜んで捨てられた,私たちの「長兄」イエスを思い起こさせてくれます。
ヨナタンはダビデを力づけました。このような信仰は単なる人間的な友情から生まれたものではありません。彼らの友情のきずなはイスラエルの神に対する相互の信頼に深く根ざしていました(『人類のあけぼの」下巻340ページ参照)。
エレン・ホワイトは,ヨナタンが励ましに来たあとで,ダビデは詩篇11篇を歌った(作った)と述べています。
まとめ
人は聖霊を拒むとき,高慢とねたみの誘惑を受けやすくなります。しかし,聖霊に従って生きる人は愛,忠誠,謙そん,無我という美しい特性をあらわします。自分自身にではなく,神に信頼するとき,私たちは力強く人生を生きることができます。なぜなら,主が私たちのために戦ってくださることを知っているからです。
*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。