神に支配される王国
キリストの王国 は聖書においてダビデの王位の継続として描かれています。ダビデに与えられた神の約束は,神の御子の永遠の統治において実現します。
イスラエルが王を持つことは神のみこころではありませんでした。しかし,彼らが神を最高の主権者として認めることを条件として,神は彼らの要求をお受け入れになりました。神の意図されなかった特権を自らに求めることによって,サウルはこの教訓に逆らいました。
ダビデが神の王権を正しく理解していたのは,聖霊の導きのおかげであり,サムエルの指導に従ったからでした。詩篇のあちこちにこのことが明らかにされています。「わが王,わが神よ,わたしの叫びの声をお聞きください」(詩5:2)。「主は王となり……あなたの位はいにしえより堅く立ち」(詩93:1,2)。「主は大いなる神,すべての神にまさって大いなる王だからである」(詩95: 3)。「主は王となられた。……義と正とはそのみくらの基である」(詩97:1, 2)。
イエス・キリストは「ダビデの子」として迎えられました(マタ15:22,21:9)。この称号は,イエスがメシヤであること,またダビデの王位を受け継ぐ者であることを示していました。マリヤがイエスをみごもるまえに与えられた御使いの約束のうちに,イエスが「父ダビデの王座」をお受けになることが約束されていました(ルカ1:32)。よみがえられたイエスは「ダビデのかぎ」を持っておられます(黙示3:7)。それによって,信じる者たちはキリストと共に彼の御座につくことができます(黙示3:21)。したがって,各時代の神の忠実な民はダビデの永遠の王国,つまり「世々限りなく支配なさる」「われらの主とそのキリストとの国」に入る者となるのです(黙示11:15)。地上の王国によって実現されるよりも完全なかたちで,神はダビデとの約束を実現してくださいます。
Ⅰ. 神の箱を移すダビデ(サムエル記下6章1節~9節)
この箱には,神ご自身の手によって十戒の書かれた二枚の石板が納められていました。「箱におさめられた神の律法は,義と審判の大原則であった。この律法は違反者に死を宣告した。だが,律法の上には續罪所があり,そこに神の臨在があらわされ,また,そこから,磧罪によって,悔い改めた罪人にゆるしが与えられた」(「人類のあけぼの』上巻411ページ)。
この箱は,ときには「あかしの箱」(出エ30:6)。あるいは「契約の箱」(民数10:33,14:44)と呼ばれました。十戒は神と人とのあいだで結ばれた契約の基礎でした(出エ19:5,6)。
ペリシテ人によって返還されてから20年のあいだ,神の箱はキリアテ・ヤリムにあるアビナダブの家に置かれたままでした。
イスラエルの王位についた今,ダビデは契約の箱を新しい都に移そうとしました。ユダヤ人は長いあいだ,この聖なる箱を軽視してきました。詩篇132:4,5には,エルサレムに神の箱を安置しようとするダビデの願いが述べられています。「わたしは主のために所を捜し出し,ヤコブの全能者のためにすまいを求め得るまでは,わが家に入らず,わが寝台に上らず,わが目に眠りを与えず,わがまぶたにまどろみを与えません」。
意気揚々とした光景を想像してください。聖なる興奮で満たされ喜びの歌をうたいながら,ダビデはイスラエルの民を先導します。喜びの声が空にひびき,谷にこだまします。畏敬と喜びで満たされた大勢の人々の行列が,聖なる都に向かって進んでいきます。
神の箱は長年のあいだ,アビナダブの家に保管されていました。したがって,彼の家族の一人であるウザはその取り扱いをよく知っていたはずです。おそらく,ウザは箱の存在に慣れてしまい,その神聖さを忘れてしまったものと思われます。
厳しいように思われるかもしれませんが,神の聖なること,また神のみこころに忠実に従うことの大切さをイスラエルに教えるうえで,ウザの死は必要でした。
ダビデは恐れ,失望しましたが,それでも主のみこころに従おうとしました。このときの思いが,つぎの言葉に表されているように思われます。「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く,心のいさぎよい者……こそ,その人である」(詩24:3,4-詩15篇比較)
◆神が私たちの罪や過ちを厳しく責められるとき,私たちはどんな態度をとるべきでしょうか。神を責めるでしょうか,それとも自分の罪を認めて,ゆるしを請い,神の恵みによって生き方を改めるでしょうか。
Ⅱ. エルサレムに安置された神の箱(サムエル記下6章10節~15節)
ダビデがふたたび箱をエルサレムに移そうと考えたのはなぜでしたか(サム下6:10,11)。彼は箱を迎えるためにどんな準備をしましたか(歴代上15:1,2)。
「神の證責は,ダビデに対して効果を現わした。彼は,これまでになかったほどに,神の律法の神聖さと厳密に服従する必要とを自覚した。オベデエドムの家が祝福されたので,ダビデは,箱が彼と彼の民に祝福をもたらすであろうという希望をふたたびいだくことができた」(「人類のあけぼの」下巻401ページ)。
◆神の律法に厳格に従うことはなぜ必要ですか。私たちが神の教えに従って生きようとするのはどんな動機からですか。
一回目の箱の移動を二回目の移動と比較してみましょう。サム下6:12~15(歴代上15:25~28)
意気揚々とした行列を思い浮かべてください。都の城壁に並んだ聖歌隊は,このときのために書かれた詩篇24:7~10の聖歌を賛美します。
「門よ, こうべをあげよ。とこしえの戸よ, あがれ。栄光の王がはいられる」。
すると,問いかけがなされます。
「栄光の王とはだれか」。
これに,また聖歌隊が応答します。
「強く勇ましい主,戦いに勇ましい主である」。
最後に,多くの声が一つとなって勝利の歌を唱和します。
「門よ, こうべをあげよ。とこしえの戸よ, あがれ。栄光の王がはいられる」。
「こうして門は広く開かれて,行列は都の中にはいり,箱は,それを迎えるために設けられた天幕の中にうやうやしく安置された」(「人類のあけぼの』下巻403ページ)。
ダビデの子,キリストが復活後,天の聖なる都に迎えられたときにも,詩篇24篇が歌われました。それははるかにすばらしい光景で,すべての御使いの心を喜びで満たしました(『各時代の希望」下巻385~387ページ参照)。
シオンは神の住まいとしての聖所の象徴となり,神の箱は幕屋の儀式の中心となりました。そして,神の栄光がその上に宿りました。神の箱がペリシテ人によって奪われたとき,エリの嫁は死のまぎわに,生まれた男の子に「イカボデ」(栄光は去った)という名をつけました(サム上4:21,22)。しかし,ダビデは今,イスラエルの礼拝に欠かせないこの神の箱を,国の中心,そして国民の心という正当な位置に回復したのでした。
◆主は私たちの心と家庭の中心に置かれているでしょうか。私たちは個人として,また家族として,日ごとに主を礼拝し,賛美しているでしょうか。
Ⅲ.神の家を建てるダビデ(サムエル記下7章1節~7節)
20年前にシロが滅ぼされて以来,モーセによって造られた聖所はそれを入れる神殿を持っていませんでした。ダビデは神の栄光をあらわす壮麗な神殿を建造することによって,エルサレムを国の宗教的中心にしようと考えました。聖なる箱が自分たちのうちにあること,また王なるヤーウェが共に住んでくださることに対して,ダビデはイスラエルの感謝の念を表したいと望みました。
ダビデが戦いの人で,神殿を建てるにはふさわしくないと,神は言われました(歴代上22:8~10)。神はナタンを通して,ダビデの考えに強く反対されました。出エジプト以来,ほぼ450年が経過していました。このあいだ,幕屋の儀式を行うための定まった建物がありませんでした。ダビデの望んだような神殿の建造は,もう少しのちのことになるのでした。
与えられていない責任 「多くの者は感謝して,神の指示に従うかわりに,自分たちが軽視または拒否されたものと思い,しりごみしてしまい,もし,自分たちがしようと思ったことができないのならば,何もするまいと思うのである。また,負う能力のない責任をなんとかして保持しようと努力する者が多い。彼らは,自分では十分することができないことをしようとしてむなしく努力する一方,彼らのできることをおろそかにしている。こうして,彼らが協力し ないために,大事業が妨害されたり,挫折したりするのである」(「人類のあけぼの」下巻407ページ)。
Ⅳ. ダビデと契約を結ばれる神(サムエル記下7章8節〜17節)
「こうして,イスラエル王国は,まずアブラハムに約束され,後にモーセにくりかえして与えられた約束どおりの範囲に達したのである。……(創世15:18引用)。イスラエルは,周囲の国々から尊敬され,恐れられる大国になった。……彼〔ダビデ〕は,どの時代においても見られなかったほど,国民の愛情と忠誠をかち得たのである。彼は,神をあがめたのであった。だから,神は,今,彼に栄誉を与えておられるのであった」(「人類のあけぼの」下巻413ページ)。
へブル語の家という語はふつう,住むための家をさします。それはまた神の家をも表すことがあり,聖書においてはしばしば家族や一族を表すこともあります。神がダビデに,「あなたのために家を造る」と言われたのはこのような意味においてでした(サム下7:11)。
サウルは自分の王朝を建てようとしましたが,神はそれを拒み,彼を王位から退けられました(サム下7:15)。一方,ダビデに対しては,彼の子がその王位を受け継ぎ,その王国は永遠にかたく立つという約束が与えられました。
イスラエルが永遠の契約の条件を守らなかったために,ダビデの王朝はこの罪の世で継続することが不可能になりました。しかし,ダビデの子,イエス・キリストがそのあがなわれた民と共に王座につかれるとき,ダビデの王朝は永遠に続くことになるのです(この課の序言参照)。
ソロモンは神の家を建てるという,ダビデに認められなかった特権を与えられました。人間によって建てられた建物のなかで,おそらく最も美しい建物の一つであるソロモンの神殿は,ダビデに与えられた神の約束の記念碑として紀元前586年まで存在しました。
ダビデの契約 ダビデに対するこの厳粛な約束は,ほぼ700年前にアブラハムに与えられた契約に匹敵するものでした。アブラハムはモリヤの山で自分の息子をささげることによって来るべきメシヤを見ましたが,ダビデも今,同じように預言による洞察を与えられたのでした。彼はメシヤなる王の先祖となる特権を与えられたのです。
詩篇110篇はメシヤに言及している メシヤに関する詩篇の多くは歴史に適用することができます。詩篇110篇(たぶん22篇も)は,メシヤに適用されるという点で独特なものです。新約聖書の記者たちはダビデを預言者として認めたうえで,これらのメシヤに関する預言にしばしば言及しています。イエスは詩篇110篇を用いて,ご自分の神性を立証しておられます(マタ22:41~46)。ペテロも五旬節における説教のなかでこの詩篇を用いています(使徒2:29~35)
イエスはしばしば,「ダビデの子」と呼ばれています(マタ15:22,21:9)。それなのに,イエスがダビデの預言の成就であることを知っていたはずの人たち自身が,イエスの死を要求したのです。
V. 主をほめたたえるダビデ(サムエル記下7章18節~29節)
ダビデは神からのメッセージに圧倒される思いでしたが,王の王なるおかたのまえに心からの畏敬と祈りをもってひざまずきました。人間にとって最も安全なときは,王なるおかたのまえにひざまずくときです。
まとめ
契約の箱は神の臨在の象徴でした。ダビデと彼の民は神と神の命令の神聖さを軽んじてはならないことを学びました。神は私たちと同じ感情の持ち主であるダビデを選び,メシヤなる王の型とされました。ダビデとの契約において与えられた神の約束は,イエス・キリストにおいて成就しました。これらの約束はイエス・キリストを通して私たちのものとなります。
*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。