【雅歌】終わりまで愛する【8章解説】#13

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無限の神の愛

神の愛はキリストのうちに完全にあらわされています。そのような愛は家族や友人に対する私たちの愛を洗練し, 高め, 永続させてくれます。

ソロモンの雅歌の最後の部分は愛についての崇高な思想を述べています。シュラムの女はその独白の中で,真の愛が無限の価値を持つもの,永遠のものであると言っています。愛の炎は洪水によっても消えず,その価値は地上の富にまさります。

このようなほめ言葉は,ほかの女たちにも好かれている夫に対して献身を求める,心配性の妻の誇張的表現のように見えるかもしれません。しかし,これは単なる誇張的表現ではありません。このような愛は夫と妻をいつまでも一つに結びつけるものです。それは無限の愛です。それは永遠の,無限の神の愛の描写です。

私たちはイエスの生涯と死のうちに神の愛をはっきりと見ることができます。花が自然に太陽に向かって咲くように,震私たちも神の恵みによってキリストを愛するときに,もっと自然に,もっと神の愛を持ってすべての人を愛するようになります。

Ⅰ. 神の愛の啓示

雅歌8:6,7には,愛のどんな特性が述べられていますか。

「真の愛は何ものも消すことができない。それはお金で買うこともできない。どんな高価な申し出も全く軽べつされるであろう。真の愛のもつ無敵の力と不変性について述べているこれらの聖句は,その表現の力強さにおいて類をみない」(『SDA聖書注解』第3巻1123ページ)。

人間の愛についてのどんな経験を通して,私たちは神の愛の深さをかいま見ることができますか。その一例として,ソロモンとシュラムの女の愛について考えてください(雅2:16,4:7,8:2, 詩32, サム下18:33比較)。人間の愛にはどんな限界がありますか。神の愛を十分に理解するためには特別な啓示が必要なのはなぜですか。

地上のきずなは神の愛をあらわす 「神は天にも地にも,数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らして,私どもの心をご自分に結びつけたまいました。自然界のいろいろのもの,または人の心が感じることのできる深い優しい地上のきずなによって,神は私どもに神ご自身を示そうとなさいました」(『キリストへの道」3,4ページ)。

「厳格に,また最終的に,神の愛と人の愛とを引き離すような隔たりというものは何もない。このことのゆえに,旧約聖書においても新約聖書においても,(結婚のきずなは神の愛の象徴となったのである」(『インタープリターズ・バイブル』第5巻102ページ)。

特別な啓示が必要 人間の愛と神の愛は本来,一つの連続したものですが, 罪のゆえに, 人間の生き方やきずなを通してあらわされる神についての啓示は, 「神の愛のただ一部を示すにすぎません」(『キリストへの道』4ページ)。それゆえ,特別な啓示が必要です。「神のみ子が天よりきたりたもうたのは,天の父をあらわすためでありました。……神の愛の高さ,深さを知る者だけがそれをあらわすことができるのであります」(『キリストへの道』4, 10ページ)。キリストは,私たちが彼によってどのような者になることができるかを教えておられます。

◆ あなたは次のような考えを正しいと思いますか。問題を解決する方法はどこにありますか。「神についての考えはしばしば,その人の両親,とくに父親に対する考えに似てくるoもし両親が幸福で,愛情深く,寛大なら,彼の神との関係もまた積極的で,満足すべきものとなりやすい。……もし両親が気むずかしい人であるなら,彼もまた,神が自分にあまり好意を持っておられないと考えるようになる」(リチャード・ストラウス『確信に満ちた子供を育てる方法』23,24ページ)。

Ⅱ. 愛し通されたおかた

弟子ヨハネはどんな人物でしたか(マル3:17, 10:35〜41, ルカ9:49, 51〜54)。あなたは彼がどのような人だったと思いますか。ヨハネのような人と親しく付き合うことについてどう思いますか。

非常に付き合いにくい若者「イエスが弟子たちをご自分の奉仕に召されたとき,彼らは全部ひどい欠点を持っていた。柔和で心のへりくだったおかたと最も親密にまじわったヨハネでさえ,生れつき柔和で従順な人間ではなかった。彼とその兄弟は,『雷の子』と呼ばれた。彼らがイエスといっしょにいた時に,イエスに対してだれかが軽蔑でも示そうものなら,彼らは憤慨してけんか腰になるのだった。短気,復譽心,批判の精神といったものがすべてこの愛された弟子のうちにあった。彼は高慢で,神の国では第一位の者になりたいという野心をもっていた。しかし-日一日,自分自身の激しい気性と対照的に,彼は,イエスの柔和と寛容とを見,謙遜と忍耐についてイエスの教訓を聞いた」(『各時代の希望』上巻381,382ページ) 。

イエスはどんな特別な方法によってヨハネに無条件の愛について教えられましたか。

マル9:2〜8,14:32〜42,ヨハ19:25〜27

神の御子はどのようにして雷の子を変えられたか 人はしばしば粗野な態度によって自分の弱さを隠そうとします。イエスはヨハネの粗野な態度にある,人から愛され受け入れられたいという願望,自分の価値を認めてほしいという願望を理解されました。ヨハネはその福音書の中で4回,イエスが自分を愛し通されたと記しています(ヨハ1 3 : 2 3 , 1 9 : 2 6 , 2 0 : 2 , 2 1 : 7 ) 。イエスはヨハネを中心的な弟子として選び,変ぼうの山において彼にご自分の栄光をあらわし,彼をゲッセマネの園に連れていき,最も弱いときにヨハネに祈ってくれるように求められました。十字架の上で死なれるとき,イエスはご自分の母をヨハネに託されました。イエスはヨハネを受け入れ,愛し,信頼し,彼が愛の力によって変えられるように期待されました。

◆ 自分がどのようにしてイエスの愛によって変えられたかをあかししてください。イエスの愛はあなたの配偶者との関係,家族との関係,同僚との関係,教会員との関係,あるいはあなたを敵とみなしていた人との関係をどのように変えましたか。あなたの人生はイエスの愛によってどのように変化しましたか。

Ⅲ. ヨハネの著作にみる神の愛

ヨハネの著作には神の愛についてのどんな思想が述べられていますか。

1.愛のみなもと- 私たちのための神の愛( I ヨハ4 : 9 , 1 0 , 19)十字架において,ヨハネは自分のために十字架につかれた愛の現れであるイエス,神の小羊イエス,私たちの罪のためのあがないの供え物であるイエス( I ヨハ4 : 1 0 ) を見ました。十字架の上で,イエスはヨハネの罪を負い,彼の身代わりとなり,その粗野な精神,性急な気質,偏見,権力と復讐への願望を身に負われました。この十字架から,ヨハネを,そして私たちをあがない,造り変える愛が流れ出たのです。いわば,「雷の子」(マル3:17)が十字架にかけられたのです。それは,ヨハネが十字架のもとで恵みによって「神の子」(Iヨハ3:2)とされるためでした。

2.愛の命令-互いに愛し合いなさい(ヨハ13:34,15:12,1ヨハ4:11)ヨハネはイエスの言葉を記しています。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ15 : 12)。これはクリスチャンに対する命令です。しかし,それは私たちに注がれた神の愛と密接につながっています。キリストの愛によって与えられる安心感のゆえに,私たちは神を,人々を,自分の配偶者を,子供を,さらには敵をも愛することができるのです。クリスチャンの人間としての愛は,神から愛されているという不変の事実にもとづいています。

海の潮と同じく,人間の愛にも干満があります。しかし,私たちの愛情の潮が引いて,痛々しい人間関係という醜い干潟をさらけ出したとしても,その向こうにはつねに,いくらくんでも尽きることのない神の愛の広大・不変の大海があるのです。

3.愛の本質一すすんで与える(ヨハ3:16, 15:13, 1ヨハ3:16)神の愛の本質はこの世のすべての恐れと力を捨てて(I ヨハ4:18),他人の必要に奉仕するために自らをささげることにあります。愛はときには他人のために苦しみ,苦痛を忍び,自らを犠牲としてささげます。

4 .愛の程度一永遠である(ヨハ1 3 :1 )神の愛は一時的なものではありません。それは,感情によって目ざめ,試練に会うとすぐに消えてしまうような愛とは全く異なります。神の愛はねばり強く,忍耐づよく,弾力があります。それは嵐にも耐えられる愛です。この愛が忍耐づよいのは,どんな障害をも克服する備えができているからです。それは人をゆるし,新たな出発を助ける愛です。クリスチャンの人間関係はこのような愛に裏づけられたものでなければなりません。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ15 : 12)。

◆ あなたは無我の愛,忍耐づよい愛をもって自分の配偶者,その他の人々を愛していますか。

Ⅳ. 愛することを務めとする

人を愛することを自分の務めとすることに関して,聖書は何と教えていますか。

ロマ12:6〜15

「わたしたちの同情は自分や家庭のわくからあふれ出なければならない。自分の家庭を開いて他人の祝福とする人には尊い機会がある。社交によって及ぼす力は驚くばかり力強いものであって,周囲の人を助ける手段としようとするとき,それを用いることができる」(『ミニストリー.オブ.ヒーリング』327ページ)。

「おのおの自分の隣人のもとに出て行って,彼らの心が無我の関心と愛によってあたためられるまで親しく交わりなさい。彼らに同情をよせ,彼らと共に祈り,機会を見つけて彼らを助け,できるなら少人数の人々を集めて,彼らの暗くなった心に神のみことばを開きなさい」(『福祉伝道」64ページ)。

私たちはとくにどんな人々のために働くべきですか。彼らはどんな必要を感じていますか。

使徒9:36〜39
ヤコ1:27
マタ11:5
レビ19:34

愛に満ちた働きは罪におちいった人をどのように助けますか。

ガラ6:1,2

「イエスに対する愛を心に抱いている人は,貧富を問わず,すべての人のうちに人間的な評価によっては判断することのできない価値を認める。……すべての人はこのような精神を持ち,それを生活の中にあらわすべきである。この愛はイエス・キリストに対する愛によって生まれ,洗練され,きよめられ,高められ,神との日ごとの交わりによって養われる。クリスチャンの冷淡さは信仰を拒むことである。しかし,このような精神はキリストに従う者のうちにあるキリストの愛の光の前に溶け去る。彼は喜んで,自然に,『わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい』という命令に従う」(「福祉伝道』83ページ)。

◆ ほかの人々がどんなに必要を感じていても, 自分の結婚生活と家族に対する愛を第一にすべきなのはなぜですか。家族において子供を矯正するときのような愛をもってなされるとき,教会の懲戒がより効果的なものとなるのはなぜですか。

Ⅴ. 愛をたたえて

人間同士の場合と同じく,主との交わりや賛美が私たちの愛を強くする効果をもつのはなぜですか。

詩42:1,2,116:1,12〜19,Ⅱコリ3:18

賛美の法則 自分の配偶者・親友に対してであれ,神に対してであれ, 愛をもって応答するならば、私たちの心にも同じ応答が与えられます。私たちの心にも同じ応答が与えられます。見ることによって, 私たちは変えられます。他人のうちに良い特徴を発見して, それをほめるなら,それは私たちの心に強く印象づけられます。このようにして人間関係が築かれます。

信仰生活においても同じことが言えます。いつでも主の特性について考え,主をほめたたえ,心の思いを打ち明けるなら,私たちは主にひきつけられ,主を身近に感じるようになります。

「弟子たちがキリストに従うのは,罰を恐れるとか,永遠の報いを望むからではない。彼らは,ベツレヘムの馬ぶれからカルバリーの十字架にいたるまで,この地上における旅路を通じてあらわされた救い主の比類のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ,魂をやわらげ,征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛がめざめる。彼らはみ声を聞き,イエスに従うのである」(『各時代の希望』中巻279ページ)。

使徒パウロはキリストにある神の愛のゆえに何と言っていますか。

Ⅱコリ9:15

次の人たちは神に対する愛をどのように表現していますか。

イエスの母マリヤ(ルカ1:46〜55)
シメオン(ルカ2:28〜32)
マリヤ(ルカ7:37,38)
悪霊につかれていた人(マル5:18〜20)

愛の記念碑 人間は崇高な言葉や率直な言葉, 偉大な業績, あるいは献身的な行為によって, 愛する者に対する賛美と応答の気持ちを表現しようとします。世界的に有名なインドのタージ・マハールは丸屋根をもつ白大理石作りの陵墓です。それは,ムガール帝国のシャー・ジャハーン皇帝が愛する妻のために建てた愛の記念碑です。シャー・ジャハーン皇帝よりもずっと昔に,ソロモン王とシュラムの王妃は互いに愛し合っていました。ソロモンの雅歌はふたりの愛を記念するために書かれた文学的な記念碑なのです。

まとめ

雅歌は夫と妻のあいだの霊的, 感情的, 肉体的なきずなについての美しい詩的描写です。ソロモンとシュラムの女の結婚生活を導いた原則は,今日の私たちにとっても良い模範です。聖書は私たちすべての人に対して,キリストの愛と恵みによって親密で永続的な人間関係を築くように教えています。

*本記事は、ロナルド・M・フラワーズ(英:Ronald M. Flowers)著、1992年第4期安息日学校教課『雅歌 愛の歌』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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