愛された福音書【ヨハネによる福音書の解説】#3

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日常生活における聖性(ヨハネによる福音書6章1節〜71節)

主イエスとその弟子たちは何週間も続いたご奉仕の中で、疲れ切っておりました。人々は助けを必要としておりました。肉体の癒しを必要としておりました。そしてある場合には、ただ話し相手になる誰かを必要としておりました。人、人、人の群れ、途切れることのない人の流れ。大概の働きは主イエスがなされるのですが、弟子たちも忙しく立ち働いております。彼らは人々を調整し、取るに足りない内容のものは後回しにし、彼らができ得る助けを与え、主が働き過ぎになられないように守るべく、最善を尽くしていました。

その日も暮れる頃、主イエスは弟子たちを御許に呼び寄せて言われました。「私たちには休息が必要です。暗くなってから働きを休むことにして、湖を横切って向こう岸の誰も人がいない所に向け船出しましょう」と。しかし、それはあたかも群衆を一層別な意味で元気づけるかのようでありました。他の誰にも何も告げずに小舟に乗ろうとしたその時、誰かが声をあげておりました。船を岸から漕ぎ出した時には、弟子たちは、港に向かって走る、町の人々の足音の流れのようなものを聞き取りました。他の船を使って一行を追うため、人々が動き出したのです。向こう岸で夜明けを迎えた時、弟子たちは岸辺にいる大群衆を見て驚きました。船を使えなかった人々が徒歩で、湖のほとりを回って方々より一行に先駆けして向こう岸に集まって来ていたのです。

それから、もっと大変なことが起こり始めておりました。数千の人々が過越の祭りの祝いのため、エルサレムに向けて旅をしていたのですが、その旅人たちが、人々の群れが主イエスの方に集まって行くのに気づいた時、何事かと彼らの多くは尋ね、それからこれらの多くの人々も横道にそれて合流し始めたので、主をめざす群衆が更に膨れあがってゆきました。フィリポは群衆の数をざっと計算し、恐らく一万人以上にはなるかもしれないと踏みました。「これは、まさに動物園の園内のようになってしまった!」

全てのことが統制不可能の状況下になってきた時、主は、フィリポの所にやってきて言われました、「ご覧のとおり、昨夜から、私たちを追いかけてきた人々や旅人たちで宿るところもない人々の中には、まもなく空腹で、立ち往生する人たちがたくさん出てくるに違いない。あなたはかつてこのあたりに住んでいたことがあるので聞くのですが、一体どのようにしたら、これらすべての人々が夕食にありつけるようにできますか。どう思いますか」

「先生、本当にそんなことを考えておられるのですか」「まあ、そうなんだが」と、主は目を幾分いたずらっぽくキラッと輝かせながら言われます。

「それは無理ですよ、先生。このあたりで、そんなにたくさんの食料を得るのは。仮に得ることができたとしても、その支払いのためには、私たちは何週間も働かねばならないでしょうし。第一、食堂はほとんどありませんよ。それに皆家まで遠いんです。私は、今回は休暇とばかり思っていたのですが、私たちは一体今、何をしようとしているんでしょうか」

ちょうどその時、弟子の一人、アンデレが先生にお弁当を差し上げたいという少年を案内してやってきました。

「イエス様、これどうぞ」と、少年は母の手になる弁当を差し出して言いました。「私の弁当をどうぞ食べてください」

ほんの一寸だけ、群れている群衆を主は一瞥べつして、それからフィリポを見ました。その御目にはなおも輝きを残しながら、ウインクをして言われたのです。

「フィリポよ、私はこれで十分と思う」

日常生活の中で主を見るということ

使徒ヨハネがその福音書の中で過越の祭りに言及する時には(二ノ一三、六ノ四、一三ノ一)いつでも、主の最後の晩餐か十字架のことか、あるいは両者を暗示しております。本福音書には主の晩餐の記事はありませんが、本書第六章の生きた譬え話を通し、その意味を説明しております。過越の祭りの真の意味は、主イエスという人物の中にこそ、そしてただ主だけが提供し得る過越の晩餐の中にこそ、見いだされるべきなのです。かくして、主イエスは再度「良い」ものといわれる何物かを取り上げておられます。すなわちここでは過越の祭りです。そしてこの良いものを更に優れた何ものかに変えて行こうとしておられます。

しかしながら、非常に興味深いことには、ヨハネによる福音書の中では、主の晩餐を暗示している二つの出来事が共に、ピクニック的状況下での食事を背景にして登場しているという点です。すなわち、ここでは丘の中腹での夕食(六ノ一~一三、特に一一節)、もう一つは海辺での朝食(二一ノ一~一四)です。ある意味では、聖餐式も夕食もピクニックも皆同じです。主イエスの御臨在を、正統な礼拝が執り行われているような教会堂内だけと限定はできません。主と共に歩む人々にとっては、全ての食卓は、まさに聖礼典となるのです。すなわち、どこにいても、実際の、そして力ある主イエスの御臨在を仰ぎ見る体験をさせていただけるのです。

ご承知のように、もし、主イエス・キリストの十字架がなかったなら、パンも水も雨も、生命もなかったのです。これら全てのものは、罪の侵入と共にそのままでは存在し得なくなっていたのです。「この世の生命さえキリストの死のおかげである。われわれの食べるパンは、キリストの裂かれたからだをもって買われたものである。われわれの飲む水は、キリストの流された血によって買われたのである。聖徒であろうと罪人であろうと、日ごとの食物を食べる者はだれでも、キリストのからだと血によって養われているのである。どのパンにもカルバリーの十字架の印がおされている。どの泉にもカルバリーの十字架が反映している」(『各時代の希望』中巻一四一ページ)

霊的生活の秘訣の一つは、たとえ私たちが見たり聞いたり触れたりできない状況でも、主イエスが、常に私どもと共に御臨在されていることを感じ取り、日常生活のあらゆる事象、普通の会話の中にも、主イエスの御臨在と御力とを味わうその方法を学びとることです。本書の終わりでこのことにもう一度触れてみることにいたします。

荒れ狂う海の上を歩かれる主

マタイ(一四ノ二二~二七)も、マルコ(六ノ四五~五二)も、ヨハネ(六ノ一六~二一)も皆、主イエスが水の上を歩かれたと告げております。三か所全ての記述の中で、弟子たちは船の中におり、ガリラヤ湖を横切って漕ぎ渡っておりました。この出来事は、夕方、しかも暗くなってきた頃のことでした。主イエスは、彼らと一緒ではありませんでした。強い風が吹いており、弟子たちは漕ぎ悩んでおりました。その中で、明け方になって弟子たちは湖の上を歩かれる主イエスを見て恐怖を覚えました。主イエスはその時次のようなことを言われたのです。「私です。恐れてはなりません」と。それで、弟子たちはこの御方に彼らの小船にお乗りいただくことになりました。このお話の中で、主は、丁度出エジプトの時の御神がなされたのと同様のことをなさいました。旧約聖書を学んだ人々にとっては、主イエスが水の上を歩まれることや、風や波を静められる御力は、主の神性の力強い証しとなるものでした。

このお話の中で弟子たちは、主が現れた時、恐怖を覚え、そして主がなされた力強い御業に、むしろ一瞬怒ってしまったことからすると、彼らは助けを求めて主に期待し待っていたのではありません。主が現れた時、彼らはその御臨在とお助けに対し、それを受ける用意ができておりませんでした。信仰とは、人生のあらゆる局面で、御神が御臨在くださるようにと期待する心を、そこに据えてみるということなのです。そうすることは恐怖に対する究極の解毒剤です。第二世代のキリスト者たちは、全く孤独を感じるような場合でも、あるいは完全に見捨てられたように思えるような時であってさえも、この物語の中に、主の御臨在と御助けを期待すべきなのだという勇気付けを読み取るのです。主イエスの御言葉は主の御臨在同様、「良いもの」なのです。

耳の聞こえない人に語りかけられる

ヨハネによる福音書六章全体を通して明らかなのは、群衆は物質的利益追求のレベルで主イエスの周りに集まってきていたということです。彼らは霊的食物を求めてはいません。彼らは、自分たちの肉体上の必要が満たされることをこそ願っておりました。五千人の人々を食べさせたようなもっとたくさんの奇跡を見たいと願っております。しかし、あれ程とてつもない出来事を見、耳にしたにもかかわらず、イエスの外見を目にしたとき、そこには天から下って来られたという崇高な御方ではなく、彼らは自分らと同様の、ごく日常に見られるような、ただの人を見たのです。彼らは普通一般の中に、聖なる輝きを見ることができませんでした。従って、主イエスの見える形での御臨在は、私たちの期待に反し、彼らにとっては、つまずきの石となったのです。このことは再び、第二世代のキリスト者たちに向け、使徒ヨハネが示している重要点の一つなのです。私たちは考えがちです。主と同じ時代に歩んだ人々は、私たちより、信ずるのにずっと容易な時代を生きたのだと。しかしながら主の肉体上の御臨在は、見た彼らにとっては、つまずきの石となったのです。

ヨハネによる福音書六章二二節より五九節においては、主イエスは群衆の目線や心を、ご自身の目に見える御存在やなされたもろもろの奇跡などから離し、霊的食物、すなわち永遠の命に至らせるものにこそ向けるように導きゆこうと努められたことが描かれております。私たちは、その持つべき生命を、もろもろの偉大な奇跡やこの世の事物の中に見いだすことはできません(第三章で述べた、財産やその人の業績や人間関係に関しての論議を思い出してみてください)。永遠の命は、主イエスが御自身についてなされたそのもろもろの主張を受け入れることによってのみ、見いだされるのです。主を信じる人々は、彼らが必要としているあらゆる証拠を受け入れます。彼らは信じるために奇跡を見る必要がないのです。もしも、私共がこのような主イエスへの信仰によって語り、歩むなら、私たちの信仰は成長します。しかし、もし私共が、御神がまず何か特別に驚くべきことをなされて御自身を示してくださるのを待っているとするなら、私たちの信仰は弱くなっていくでしょう。

日常生活における聖性

使徒ヨハネは折に触れ、その福音書の中で、パンや光や水といった、私どもの日常にごくありふれて関わることのたとえから、象徴となるものを取り出しております。これらの象徴は、主イエスの御言葉を、私どもの日常生活に関係づける助けとなります。私たちの日常生活が、いかにありふれたものであろうとも、私たちがなす全ての歩みにおいて、主イエスを思い起こすことを学ぶ時、主イエスと私どもの関係はより深いものとなり、成長することとなります。「命のパン」として主イエスは、私たちに永遠の命の味わいをもたらし、それと比較する時、最早この世の肉体のための飲食物は、さほど重要なものではないと感じさせられるのです。

今まで、イライラする程ガツガツした飢えや渇きを覚えたことがありますか。その時、誰かが、一杯の冷たい飲み物を差し出してくれたり、あなたの好物をはさんだフランスパンを持ってきてくれたなら、一体、それは何にたとえることができましょうか。主イエスは永遠の命を提供するために来られたのですが、この大事な命についてのもろもろの教えを与えられ、そしてこれらの霊的教訓を思い出させるため、飢えや渇きの時のパンや飲み物を得た時の経験のような、日常のありふれた事物を通して記憶するようにと願われたのです。

「命のパン」に関する主イエスのメッセージは、主がもたらしてくださった霊的命に対しての私たちの必要度は、丁度、身体が空腹と渇きであえいでいる時のはなはだしく渇望している時の必要感に似ているものなのだということを教えております。身体が飲食物や陽の光を求めてあえぐように、魂は主イエスの御臨在を求めて慕いあえぐのです。そして、もしも私たちが、主イエスに共にいてくださるように願わないのなら、私たちは、自分の飢えを何か他のもので満たすため、あらゆる愚かなことまでもしてしまう存在なのです。全ての人々の内面には、主だけが満たしてくださる、御神が定められたもっと「良いもの」をと願う窪みのようなものがあるのです。

一体どのようにして、この霊的渇望の窪みを満たすことができるのでしょうか。私たちは、日常生活の経験を、主の御言葉(六ノ六三)からもたらされるイメージと結びつけて見ることができます。キリストにおいて、人生の全てが礼典となるのです。日常生活の、普通の事柄の中で主イエス・キリストの御臨在と御力とを体験することができるのです。たとえ私どもが何をしておりましても、私どもは主が聖餐式を聖定された折に語られた御言葉、すなわち、「私の記念として、このようにおこないなさい」を思い起こすことができるのです。

食べるために食卓に着く時、もし、主イエスの十字架の御業がなかったなら、雨も陽の光も食糧の産物も、皆共に罪と共に止まったのであることを思い起こすことができるのです。飲み物を飲むためコップをとる時、命の水を思い出します。朝、衣服を身に着ける時、私たちは、キリストの義の衣を考えることができます。主イエスの完全な御生涯、そしてそのことは、私たちを御神の御前にあって清く汚れのない者とすることを思い起させます。家でくつろいでいる時、そして、屋根の下で雨風に濡れたり打たれたりすることなく暖かく安らかに快適に過ごす時、私たちは罪の致命的な結果の滅びから守られて、主の義の屋根の下にかくまわれていることを覚えて歓喜することができます。夜になって眠りに就く時、人間の命の終わりという、人間存在のぜい弱さの生きた教訓を覚えることができます。十字架上の主イエス同様、私たちも、主が週の第一日目に復活されたように、朝になって再び目覚めることを覚えて、「父なる神様、わが霊を御手におゆだねいたします」と祈り、眠りに就くことができます。

私たちが結婚式に出席したり、あるいは自分が結婚する時には、キリストと教会との関係を考えることができます(エフェソ五ノ三一、三二)。病気になった時は、「担ったのはわたしたちの病」(イザヤ五三ノ四)であられる御方を思い見ることができます。苦しみに遭っている時は、私共のために苦しみに遭われた御方を思い起こすことができます(ペトロ一・二ノ二一)。そして、人生の終局に至った時には(時代が、それまでなおも続く場合ではありますが)、私たちは自分の生涯を振り返ってみて、主イエスに対する私たちの最大の努力でさえも不完全でしかあり得なかった私共の罪の性質が遂に滅ぼされて行くのであることを祝うことができます。主との生きた関係を構築していく鍵となる生き方の一つは、私たちの日常生活のあらゆる普通の事象をして、主の御言葉や御業を思い起こさせるものとなすことであります。

イスカリオテのユダについての話

福音書の物語の中で、痛みを覚える内容の話といえば、それは、主イエスとその弟子と称していたイスカリオテのユダとの間の心傷的な関係です。四福音書の中で、ユダは合計二〇回、その名で言及されております。その多くは裏切りの話に直接かかわっております(マタイ二六ノ一四、二五、四七、二七ノ三、マルコ一四ノ一〇、四三、ルカ二二ノ三、四七、四八、ヨハネ一三ノ二、二六、二九)。他には、受難週以前の、一人の弟子としての履歴が述べられております(マタイ一〇ノ四、マルコ三ノ一九、ルカ六ノ一六、ヨハネ六ノ七一、一二ノ四)。ヨハネによる福音書を除く他の聖句の三か所では、十二弟子のリストの中でイエスを裏切った者として登場しております。ですから、受難週以前のユダについての重要な情報は、ヨハネによる福音書六章七一節と一二章四節だけに見られます。

ヨハネ六章七一節を見ると、ユダのことを主イエスは「悪魔」と考えておられたことがわかります。一二章四節から七節では、更に多くのことを告げております。そこではユダは、主イエスの御足に塗布された香油のことを非難し、これを売って貧しい人たちに施すべきではなかったかと言っていたと記録されております。そして、彼は金袋を預っていた者で、しかもその財布の中身を自分のためにしばしば使っていた「盗人」であったといわれております。そして主イエスは、香油を注いだ女の行為を批判したユダを譴責しておられます。

またマタイによる福音書二六章によれば、ユダは主イエスを裏切る代価として、金銭を受ける取引をしている姿が描かれております。ユダは主の友人を装い、主を裏切り、それから、そのことを後悔しています。彼は、その金を返し、それから出て行って首を吊ったとあります。一方、ルカによる福音書二二章ではサタンがユダに入り込み、主を裏切るように動機づけた詳細が付加されています。ヨハネ一三章では、裏切りについての更なる詳細が描写されております。その一八節は、ある意味で、ユダは主によって選ばれた弟子ではなかったこと、そして彼がイエスを裏切った行為は、聖書の御言葉の成就であったことが暗示されております。他の弟子たちは明らかに、ユダの企みについて何も知りませんでした。主がぶどう汁に浸したパンをユダに渡して指摘されましたように、サタンが彼に入ったのです。

『各時代の希望』の中で、エレン・ホワイトは、聖書中のこの出来事を明瞭に説明しています。彼女の指摘によれば、ユダにとっては金銭が、徐々に彼の人生の支配的原理となっていったのです。金銭への愛着が、サタンに付け入らせる隙を与えたというのです。ユダは、主によって弟子として選ばれたわけではありませんでしたが、その生き方を変えて行くようになることを期待されて弟子群に加えられたのです。他の弟子たちは、ユダを高く評価しておりました。しかし一方ユダは、この弟子たちを軽蔑していたというのです。主イエスはユダに、自分の利己主義の姿を理解し、それを変えて行こうとする機会を与えられたのですが、彼はある一点で致命的に、主イエスと相容れなかったのです。ヨハネによる福音書六章で主が示された神の御国ではなく、政治的かつ経済的に優位である型の王国をユダは追い求めていたのです。六章での出来事以降、ユダは加速的にイエスに対する個人的疑念を表明するようになってゆきます。そして結果的にヨハネによる福音書一二章に記述されているマリアに関する衝突へとつながってゆくことになります。その時の主イエスの譴責がユダをして、主に対して反対の立場に立つことを決定ずけることになったというのです。

ユダは、主を裏切ることには、一つもしくは二つの良い結果を招来することになるであろうと理由づけました。もしも、イエスの十字架が聖書の御言葉の成就であるというイエスの言い分が正しいのであれば、彼の裏切り行為の結果として主がたとえ死なれても、大勢には何ら影響を与えることにはならないし、しかも自分はそのために得た金子を自分の懐に入れておくことができる。一方、イエスは死ぬことはないとするなら、イエスは自分を救うため強いてその御力を発揮され、その結果自分が考えて来た王国建設の動因となるであろうし、そうであるなら、主イエスを王位へと導くそのような出来事を動機づけた者として、ユダは大いに評価されるに違いないと。

祭司たちに利用され軽蔑されたユダの後悔劇は、裁判を受けている主イエスの面前で繰り広げられたものだったことを示しながら、エレン・ホワイトは、この悲しい物語を締めくくっております。ユダは祭司たちに、主イエスの解放を願い出ました。それから、主に逃げてくださるように懇願しました。あらゆる彼の夢も希望もどぶの中に投げ捨てられていくようであるのを見て、ユダはその場を出て行って、首を吊り、自殺したのです。

ヨハネによる福音書第六章は、いくつかの可能性に期待を寄せながら、主イエスと共に歩んでいたイスカリオテのユダのことで終わっております。すなわち、物質的利得や政治的権力、そして変えられた人生への希望をさえ持って歩んだのです。しかし悲しいかな、彼はその人生の終わりに臨んで、そのいずれをも得ることがなかったのです。

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