この記事はこんな人におすすめ!
・実際にあった感動する話を読みたい。
・心に響く泣ける短編を知りたい
この記事は約10分で読むことができます。
この記事では、シンドラーやボンヘッファー、デズモンド・ドス、アーミッシュの人々を含む、10人の敬虔なクリスチャンの感動的な実話が取り上げられています。
暗闇と戦った心に響く物語
イレーナ・センドラー|暗闇の中で生まれた奇跡の物語
第二次世界大戦の暗闇の中で生まれた奇跡の物語。
イレーナ・センドラーは、第二次世界大戦中、ポーランドのワルシャワ・ゲットーで多くのユダヤ人の子どもたちを救った女性です。
彼女はポーランドの社会福祉課で働いており、その立場を利用してゲットーに入り、命の危険を顧みず子どもたちを外に連れ出しました。
彼女は乳母車や工具箱の中に子どもたちを隠し、ナチスの目をかいくぐって連れ出しました。そして、子どもたちを偽の身分証明書で保護し、カトリックの家庭や孤児院に匿いました。その数は2,500人以上と言われています。
やがて、イレーナは捕らえられ、ナチスに拷問を受けましたが、子どもたちの名前や居場所を決して明かしませんでした。
戦後、彼女の行動は少しずつ知られるようになりましたが、死の間際のインタビューで彼女は次のように述べています。
「“英雄”という言葉で呼ばれることに私は大きな抵抗を感じます。実は私はその反対なのですから。私はほんの少しの子供たちしか助けることができなかったことで良心の呵責にさいなまれて生きつづけているのです」
彼女の父もまた、1917年のチフス大流行の際に医師としてワルシャワ近郊の町でユダヤ人をはじめとする貧しい人々の治療にあたっていました。
そんな父は、彼女に「もし溺れている人に出会ったら、たとえ泳げなくとも助けようとしなさい」と言い遺していたとも言われています。
参考文献
ウィキペディア、「イレーナ・センドラー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/イレーナ・センドラー、閲覧日: 2024年11月20日。
Edutainment-TED、「イレナ・センドラーの勇気:逆境に立ち向かう勇気の物語」、https://edutainment-ted.jp/イレナ・センドラーの勇気:逆境に立ち向かう勇/、閲覧日: 2024年11月20日。
Rupert Cornwell, “Irena Sendlerowa: Warsaw social worker who rescued thousands from the Jewish ghetto,” The Independent, 14 May 2008 (cited in Lib Quotes, “Heroes do extraordinary things. What I did was not an extraordinary thing. It was normal.”, https://libquotes.com/irena-sendler/quote/lbu9i7e?utm_source=chatgpt.com), 閲覧日: 2024年12月09日.
オスカー・シンドラー|人々を救ったリスト
オスカー・シンドラーはプレイボーイなライフスタイルを楽しみ、上流社会の中で立ち回り、女性たちからもてはやされ、金銭を湯水のように使っていました。を惜しみなく使っていました。しかし、彼の人生は第二次世界大戦中に転機を迎えます。
シンドラーは、ナチス占領下のポーランドで工場を経営していましたが、その工場を“軍需工場”としてドイツ軍に認定させることで、約1,200人ものユダヤ人の命を救いました。
表向きは戦争に必要な人員を確保するためという名目でしたが、彼は実際にはユダヤ人労働者たちをガス室送りから守るために奔走していたのです。
シンドラーは、収容所送りの危機に瀕したユダヤ人たちを、工場の生産ラインに欠かせない「熟練工」としてリストに載せ、命をつなぎました。この「従業員リスト」こそ、後に「シンドラーのリスト」として知られるようになりました。
1945年5月8日、戦争が終わると、シンドラーのもとで働いていたユダヤ人たちは感謝の意を込めて、一つの指輪を彼に送ったと言われています。
この指輪は、彼らが唯一持っていた金歯を溶かしてつくられたもので、タルムードの中に登場する言葉を刻んでいました。
「一人の人間を救う者は、世界を救う」。この言葉は、シンドラーの墓石にも刻まれました。
この言葉は、最初の人アダムから世界の人々が生まれたように、1人の人を救う人は、その行為によってまるで世界を救ったかのように称賛されるべきであるという意味で、伝えられている言葉です。
使徒パウロは同じような表現でキリストが文字通り、全世界を救ったことを伝えています。
アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになります。
コリントの信徒への手紙一・15章22節(©︎聖書協会共同訳)
参考文献
ウィキペディア、「オスカー・シンドラー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/オスカー・シンドラー、閲覧日: 2024年11月20日。
Guidoor Media、「ナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝と『シンドラー』とは?(2)」、https://www.guidoor.jp/media/oskar-schindler-sugihara-chiune-story/4/、閲覧日: 2024年11月20日。
Sefaria、「Sanhedrin 37a:14」、https://www.sefaria.org/Sanhedrin.37a.14?lang=bi、閲覧日: 2024年11月20日。
アンドレ・トロクメ|ル・シャンボンの奇跡
1940年、第二次世界大戦のさなか。ナチス占領下のフランスで、ある小さな村が奇跡を起こしました。
その村の名はル・シャンボン=シュル=リニョン。人口わずか数千人の村でありながら、この村はユダヤ人をナチスの迫害から守り、命を救ったのです。
この行動には大きな危険が伴いました。もしナチスに見つかれば、村全体が報復を受ける可能性がありました。
それでも彼らは、正義と人道的な使命を貫きました。結果として、ル・シャンボンの村人たちは約5,000人以上のユダヤ人の命を救ったとされています。
この物語は、困難な状況下で信念を守ることの重要性を教えてくれます。私たち一人ひとりの決断が、周りの人々の未来を変える力を持っているのです。
この勇敢な行動を指揮した村の牧師アンドレ・トロクメの聖書には、次の言葉が書かれています。
義に飢え渇く人々は、幸いである
参考文献
ホロコースト百科事典、「救済とレジスタンス」、https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/rescue-and-resistance、閲覧日: 2024年11月20日。
ホロコースト百科事典、「ユダヤ人を救ったル・シャンボンの牧師の聖書」、https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/artifact/bible-from-le-chambon-pastor-who-saved-jews、閲覧日: 2024年11月20日。
Photo Source
Copyright: United States Holocaust Memorial Museum
Provenance: Nelly Trocme Hewett
Source Record ID: Collections: 1990.238.1
和解がもたらす感動の実話
コーリー・テン・ブーム|敵を赦す感動の名言
ナチス占領下のオランダ、コーリー・テン・ブームとその家族はユダヤ人を匿ったことで逮捕され、コーリー自身も最終的にラーベンスブリュック強制収容所に送られました。
彼女の父カスパーは逮捕からわずか十日後に死去し、兄も牢獄で感染した病気により亡くなり、姉ベッティーもクリスマスの前に命を落としました。
収容所での過酷な生活の中で、コーリーと姉ベッティーはイエスの愛を囚人たちに伝え、その証しによって多くの人がキリストに導かれました。
また、テン・ブームの働きにより、約800人のユダヤ人が救われたと推定されています。
10ヶ月間の勾留の後、奇跡的に釈放されたコーリーは戦後、宣教師として生きていきます。
そんなある日、彼女が講演を終えた後、一人の男性が近づいてきました。その顔を見た瞬間、彼女の心臓は凍りつきました。彼はかつてのラーベンスブリュック強制収容所の看守だったのです。
彼は赦しを求めて手を差し伸べましたが、コーリーの心は激しく揺れました。彼女の心に浮かんだのは家族を失った苦しみ、そして収容所での恐怖でした。
彼女が激しい怒りと葛藤の中、その看守の手を握ると、奇跡が起こりました。
電流が彼女を貫くような感覚があり、それと同時にその人に対する愛の心が芽生えたのです。
後に彼女はこう語りました。
「主が敵を愛しなさいと命じる際には、その命令と共に、愛そのものも与えられています」(『The Hiding Place』Chapter 15)
参考文献
Internet Archive、『The Hiding Place』、https://ia800309.us.archive.org/9/items/the-hiding-place-corrie-ten-boom/the-hiding-place-corrie-ten-boom.pdf、閲覧日: 2024年12月04日
月刊いのちのことば、「著者情報 コーリー・テン・ブームを知っていますか?」、https://www.wlpm.or.jp/inokoto/2016/04/26/著者情報-コーリー・テン・ブームを知っていま/、閲覧日: 2024年12月05日
Wikipedia、「Corrie ten Boom」、https://en.wikipedia.org/wiki/Corrie_ten_Boom、閲覧日: 2024年12月05日
Biography.com, Corrie ten Boom, https://www.biography.com/activists/corrie-ten-boom, 閲覧日: 2024年12月05日.
アーミッシュ|善をもって悪と対峙した感動の物語
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい
2006年10月2日、アメリカ・ペンシルベニア州ランカスター郡ニッケルマインズにある小さなアーミッシュの学校で、衝撃的な悲劇が起きました。
午前10時ごろ、散弾銃や短銃、ライフルを持った男がウエスト・ニッケルマインズ学校に侵入。犯人は女子児童を人質にとり、さらに10人の女児を撃ち、そのうち5人が命を落としました。
そして犯人自身も、警察が突入する前に銃で自ら命を絶ったのです。
恐怖と混乱の中、たった13歳のマリアン・フィッシェは、自分より小さな子どもたちを助けて、自分を先に殺すようにと懇願し、殺害されました。
このことは、彼女の妹の証言によって明らかになりましたが、この妹も「次はわたしを殺して」と犯人に話していたのです。
さらに、この痛ましい事件当日の午後、アーミッシュの人々は赦しを表明しました。
その中のひとりであるフラン・ベイラーはこう語りました。
私達は赦したい。そのように育ってきましたから。『善をもって悪に答えよ』と
クリスチャントゥデイ『アーミッシュ女児殺害事件 地域住民「犯人を赦す」』
参考文献
野呂 浩『アーミッシュ・ウエイ・オブ・ライフ ―アーミッシュのルーツおよび学校襲撃事件検証―』東京工芸大学工学部紀要 Vol. 30 No.2(2007)(https://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-30-06.pdf、閲覧日: 2024年12月05日)
The Japan Times Oct 8, 2006,引用元、野呂 浩『アーミッシュ・ウエイ・オブ・ライフ ―アーミッシュのルーツおよび学校襲撃事件検証―』東京工芸大学工学部紀要 Vol. 30 No.2(2007)(https://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-30-06.pdf、閲覧日: 2024年12月05日)
クリスチャントゥデイ、『アーミッシュ女児殺害事件 地域住民「犯人を赦す」』、https://www.christiantoday.co.jp/articles/7931/20061005/news.htm、閲覧日: 2024年12月05日。
Photo Source
it:Utente:TheCadExpert – it:Immagine:Lancaster_County_Amish_03.jpg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1249760による
世界を動かし、励ました人々
ハリエット・ビーチャー・ストウ|涙が出てくる泣ける名言
1852年、奴隷制度の非人道性を訴える小説『アンクル・トムの小屋』をハリエット・ビーチャー・ストウは出版しました。
これは、奴隷制下のアメリカ南部で苦しむ人々の現実をフィクションではありますが、ノンフィクションに近い描写で、生々しく描いた作品です。
彼女は、自らの信念に基づき、声を上げました。彼女の言葉は国境を越え、時代を超えて響きました。
この本は1週間で1万部、1年で30万部、南北戦争直前の1861年までに450万部売れ、なんと本が読める人の4ー5人に1人が手に取ったのです。
彼女の小説は、奴隷制度廃止運動の原動力となり、多くの人々を行動へと駆り立てます。
エイブラハム・リンカーン大統領がストウに会った際、「あなたがこの大きな戦争を始めた小さな女性ですか?」と言ったとされる逸話があります。
この言葉の真偽は不明ですが、彼女の小説が当時の社会に与えた圧倒的な影響力を物語る象徴的なエピソードとして知られています。
『アンクル・トムの小屋』の主人公トムは、自由を奪われ、苦しみの中でも信仰と優しさを失いませんでした。
トムはこう言います。
私たちがすべてを愛し、どんな状況においても祈ることができるとき、戦いは過ぎ去り、勝利が訪れます――神に栄光あれ!
『Uncle Tom’s Cabin』CHAPTER XXXVIII “The Victory”(https://www.gutenberg.org/cache/epub/203/pg203-images.html)
参考文献
光文社古典新訳文庫、『ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』、土屋京子さんによる訳者あとがき全文公開』、https://www.kotensinyaku.jp/column/2023/02/006983/、閲覧日: 2024年12月04日。
History Cooperative、『Lincoln, Stowe, and the “Little Woman/Great War” Story: The Making, and Breaking, of a Great American Anecdote』、https://historycooperative.org/journal/lincoln-stowe-and-the-little-woman-great-war-story-the-making-and-breaking-of-a-great-american-anecdote/?utm_source=chatgpt.com、閲覧日: 2024年12月04日。
プロジェクト・グーテンベルク、『Uncle Tom’s Cabin』、https://www.gutenberg.org/cache/epub/203/pg203-images.html、閲覧日: 2024年12月04日。
Harriet Beecher Stowe, “Little Foxes” (1871), cited in Oxford Reference, Harriet Beecher Stowe 1811–96 American novelist, https://www.oxfordreference.com/display/10.1093/acref/9780191826719.001.0001/q-oro-ed4-00010502, 閲覧日: 2024年12月09日.
ディートリヒ・ボンヘッファー|罪を犯す覚悟を決めた神学者
1945年4月9日、第二次世界大戦末期のドイツ。神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは処刑場に立っていました。
彼は39年の短い生涯の間、ナチス政権に立ち向かいながら、最後まで信仰を守り抜きました。
1939年、ナチスの抑圧が激しさを増す中、ボンヘッファーはアメリカへの亡命を検討し、ニューヨークへと避難しました。
しかし、約1ヶ月後に彼は帰国を決意し、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーにこう書き送ります。
「私は、 故国の歴史のこの困難な時期を、ドイツのキリスト者と共に生き抜かねばなりません。 もし、この時代の試練を同胞と分かち合うことをしなければ、私は戦後のドイツにお けるキリスト教的生活の再建に参加する権利を失うことになるでしょう」
状況が限界を迎える中、彼はヒトラー暗殺計画への参加を決意します。
これは「敵を愛しなさい」「殺してはならない」という聖書の教えに反することで、ボンヘッファー自身も罪であると理解していました。
その上で、苦悩の果てに、彼は限界状況の中で愛ゆえに罪を自身が引き受け、より大きい悪を避けるために小さな悪を選ぶことを決意するのでした。
ユダヤ人の亡命を援助したことにより、逮捕されたボンヘッファーは、暗殺計画に関与していたことも発覚し、その数日後に処刑されました。
ボンヘッファーは収監先でも、聖書のメッセージを伝え続けます。
1945年4月8日の日曜日、ボンヘッファーは短い礼拝を行なっていました。彼が最後の祈りを終える前に、刑場へと連れていかれました。
ボンヘッファーの最後の説教で引用された聖句はイザヤ書53章5節でした。
彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。
参考文献
Encyclopædia Britannica、「Dietrich Bonhoeffer」、https://www.britannica.com/biography/Dietrich-Bonhoeffer、閲覧日: 2024年12月09日。
International Bonhoeffer Society、「Biography」、https://bonhoeffersociety.org/about/bonhoeffer/biography/、閲覧日: 2024年12月09日。
河 崎 靖 「ナチスに抵抗した聖職者 ディートリッヒ・ボンヘッファー Dietrich Bonhoeffer」『南山大学ヨーロッパ研究センター報第27号』南山大学ヨーロッパ研究センター、https://rci.nanzan-u.ac.jp/europe/ja/journal/item/f6be8a2cc3d45af8151796cb48b4029d1e5620d5.pdf、閲覧日: 2024年12月09日。
ウィキペディア、「ディートリヒ・ボンヘッファー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ディートリヒ・ボンヘッファー?utm_source=chatgpt.com、閲覧日: 2024年12月09日。
Theology and Church, “Remembering Dietrich Bonhoeffer”, https://theologyandchurch.com/2014/04/09/remembering-dietrich-bonhoeffer/, 閲覧日: 2024年12月09日.
命をかけた自己犠牲の泣ける話
デズモンド・ドス|命を救うための揺るぎない信念
ヴァージニア州の小さな町で育ったデズモンド・ドスは、幼い頃から「助ける」ことに心を燃やしていました。少年時代、ラジオで輸血を必要とする女性のニュースを聞いた彼は、片道5キロもの道を歩いて病院に駆けつけ、自らの血液を差し出しました。その時から彼の人生の方向性は決まっていたのかもしれません。
「命を奪うのではなく救いたい」との信念から、軍への参加を決意。しかし、武器を持つことを拒否した彼の道のりは平坦ではありませんでした。
軍隊では、武器を持たない彼に対して多くの嫌がらせがありました。同僚からのいじめや上官の厳しい視線。それでも彼は信念を曲げることなく、衛生兵としての訓練を続けました。
後にある上官がこう語っています。「彼が私の命を救ってくれました。皮肉なことですが、彼は最も勇敢な人間です。」
1945年5月5日、沖縄戦のハクソー・リッジ。日本軍の激しい攻撃の中、負傷した仲間たちは戦場に取り残されました。撤退命令が下る中、デズモンドはただ一人、崖の上にとどまる決意をします。
日本軍の砲火が飛び交う中、彼は負傷兵を次々と崖下に降ろしました。一人、また一人──。「あともう一人だけ、救わせてください」と祈りながら繰り返したその作業は4時間にも及びました。
軍の高官は100名近い負傷兵を救出したとしましたが、デズモンドは50人以上ということはありませんと謙虚に答え、その両者の間をとって、75名がデズモンドの名誉勲章の表彰状に記載されることになりました。
その後再度、最前線に出たデズモンドは手榴弾で負傷。そこから担架で運ばれますが、自分よりも重傷の兵士を先に運ぶべきと言って、自分から担架を降ります。
この時に、デズモンドは大切な聖書を亡くしますが、デズモンドに救われた彼の中隊は激戦の中、その聖書を探しに行きました。
1945年10月にトルーマン大統領から名誉勲章をデズモンドは授かりましたが、彼は世間の注目を避け、静かな生活を選びました。
しかし、人生の最期に映像化することを承認し、2006年に87歳でその生涯を閉じたデズモンド・ドス。彼の揺るぎない信念と行動は、映画『ハクソー・リッジ』の中で見ることができます。
彼が好きだった聖書の言葉があります。
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
参考文献
映画『ハクソー・リッジ』公式サイト、『映画「ハクソー・リッジ」公式サイト|6.24 Sat. ROADSHOW』、https://hacksawridge.jp/、閲覧日: 2024年12月05日。
フランシス・M・ドス(田頭美貴・訳)『デズモンド・ドス――もうひとつの真実』福音社
Encyclopedia of Seventh-day Adventists, “Doss, Desmond Thomas (1919–2006)”, https://encyclopedia.adventist.org/article?id=6IMP&highlight=Desmond|Doss, 閲覧日: 2024年12月09日.
ディーン・リーパー|洞爺丸事故に散った宣教師たちの自己犠牲
日本の海難史に残る大惨事―洞爺丸事故。
1954年9月26日、北海道函館湾で青函連絡船5隻が沈没し、1,004人もの命が奪われたこの悲劇。その現場では、愛する家族を失った人々が七重浜でただ海を見つめ、涙を流していました。
その船に乗っていた宣教師ディーン・リーパーとアルフレッド・ストーンは、沈没の直前、混乱する人々を少しでも落ち着かせるため、手品を披露していました。そして、命の危険が迫る中で彼らが選んだのは、自分たちの救命胴衣を近くにいた子どもたちに譲るという行動でした。
事故から5日後、2人の遺体は七重浜で発見されます。リーパーには妊娠中の妻と幼い2人の子どもがいました。自分の命を犠牲にして他者を救おうとした彼らの姿は、まるでイエス・キリストの愛の教えを体現しているかのようでした。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
参考文献
読売新聞、「日本人の子に救命胴衣を譲った父を『誇りに思う』…洞爺丸事故で犠牲の米宣教師の長男『父を忘れないでほしい』」、https://www.yomiuri.co.jp/national/20240925-OYT1T50046/、閲覧日: 2024年11月7日。
ウィキペディア、「ディーン・リーパー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ディーン・リーパー、閲覧日: 2024年11月7日。
ウィキペディア、「アルフレッド・ストーン」、https://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレッド・ストーン、閲覧日: 2024年11月7日。
NHKアーカイブス、「NHKクロニクル 番組詳細」、https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030005_00000、閲覧日: 2024年11月7日。
ジョン・ハーパー|タイタニックの最後の英雄
1912年4月14日の深夜、豪華客船タイタニック号が北大西洋で氷山に衝突し沈没しました。
この事故は世界中を震撼させ、1,500人以上が命を落とす大惨事となりました。
イギリスの伝道師ジョン・ハーパーは、タイタニック号に乗船してアメリカへ向かう途中でした。
氷山衝突後、救命ボートの数が限られていることが分かると、彼は娘を救命ボートに乗せ、タイタニック号が沈みゆく中で、近くにいる乗客に聖書の言葉を伝えました。
彼は自分の救命胴衣を他の人に渡し、女性と子ども、そしてまだキリストを信じていない人を救命ボートに乗せるようとしていたと言われており、生き残った人々の証言によると、恐怖に怯える乗客たちの中で甲板にひざまずいて祈っていました。
タイタニック号が沈没して4年後、カナダのハミルトンで開かれたある集会で、若者が立ち上がり、次のように証言しました。
「あの夜、私は漂流中にジョン・ハーパー牧師と出会い、彼から『主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます』と繰り返し語られました。そしてまもなく彼は沈んでいきました。その後、私はその言葉を受け入れ、信じました。私はジョン・ハーパーの最後の改宗者です」
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。
参考文献
Encyclopedia Titanica, “John Harper : Titanic Victim”, https://www.encyclopedia-titanica.org/titanic-victim/john-harper.html, 閲覧日: 2024年12月05日.
Encyclopedia Titanica, “John Harper”, https://www.encyclopedia-titanica.org/john-harper.html, 閲覧日: 2024年12月05日.
Grace Online Library, “John Harper – Hero of the Titanic”, https://graceonlinelibrary.org/biographies/john-harper-hero-of-the-titanic/, 閲覧日: 2024年12月05日.
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