日本人の死生観と聖書の死生観は何が違うの?

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目次

日本人の死に対する感覚

日本で、過去に行われた調査で興味深い傾向が見られました。その調査の中で「宗教は大切」と答えた人の割合は年代が上がるごとに増加し、男女ともに70代以上がトップでした。ところが、「霊魂が残る」と答えた人の割合はなんと年代が下がるごとに増加して、男女ともに20代がトップだったのです。

20代の青年たちは「宗教は大切」であるとは考えてはいません。しかし、「霊魂が残る」ことをどの世代よりも強く信じているのです。

また約7割の青年たちが「死を怖い」と感じているが、約8割の人々が宗教を信じることにより、死への恐怖がなくなったり、やわらいだりするとは思っていないことが明らかになっていた。

「死」という問題に対して、彼らは「宗教」に答えは見い出せないと考えているのかもしれません。しかしそれは死後の世界を完全に否定しているという意味ではありません。むしろ、どの世代よりも強く信じているのです。その証拠に、その調査の中で、「宗教は信じないが死後生は信じる」と答えた男女の割合も、年代層が若くなればなるほど、増えていくのです[1]

この若年層の傾向は「霊魂不滅は信じるが、宗教や神を必要としない」とも言えるでしょう。聖書の世界観から見るならば、この現象はまさに偽りの主張そのものです。

「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」(創世記3:4)と「霊魂不滅」を主張して、神は必要ではないということを「神のように善悪を知る者となる」のです(創世記3:5)という表現で、そそのかした偽りの主張そのものが、今の日本の価値観ともいれるでしょう。

聖書はこの世界ではキリストの情報とサタンの偽りの情報が飛び交っているとしています。どちらの情報が正しいのかという、情報戦が行われているのです。フェイクニュースが起こり、それを打ち破る真実の情報が報じられている。これを大争闘と呼んでいます。

大争闘の始まり

まず最初に、大争闘について、つまり神がどのように死を解決し、世界を完全な状態に戻そうとされているのかを見てみたいと思います。

見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして 黙示録21:3(口語訳)

これは、天国の描写です。天国は「愛と信頼関係の下、神と人が共にいる」状態です。この状態は地球が創造された時のエデンの園の状態でした。

しかし、この状態は蛇に化けたサタンによって破壊されることになるのです。

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう創世記3:4(口語訳)

ここでサタンはエバに対して攻撃を仕掛けます。神への信頼を揺るがそうとするのです。神は善悪の知識の実を食べることを禁じられました。

善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。

「きっと死ぬであろう」そう神は言われましたが、蛇は「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と誘惑するのです。

そして、エバはその誘惑に負けるのでした。

神からの情報とサタンからの情報、どちらを取るかという選択をエバは迫られたのです。この情報戦を大争闘と私たちは呼んでいます。

大争闘は聖書全体を貫くテーマですが、人類が巻き込まれた大争闘の最初のテーマは「死」だったのです。

さて、「必ず死んでしまう」という神の主張と「決して死ぬことはない」というサタンの否定との緊張関係は、エデンの園を超えて、人類の歴史の中に広がっています。

死んでもなお、意識が残っているという考え方がその代表例と言えるでしょう。

死んだらどうなるのか

人は死んだらどうなるのでしょうか。それを知るためには、人がどのように創造されたのかを知る必要があります。

主なる神は土にちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。それで人は生きた者となった。創世記2:7(口語訳)

土のちりに命の息が加わり、人は生きたものとなりました。死はこのプロセスを逆にしたものとなります。

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。 伝道の書(コヘレト)12:7(口語訳)

人は土のちりに戻り、霊は神に帰るとあります。

まず、死について理解するために、「魂」という言葉を理解する必要があります。

興味深いことに、創世記2:7で出てくる「人は生きた者とあった」の「生きた者」は七十人訳聖書のギリシャ語では、魂を意味するプスケーと訳されています。

また、旧約聖書における「魂」はヘブル語のネフィシュの訳です。

ネフィシュはさまざまな箇所で「人」と訳されており、また「わたしの魂」や「あなたの魂」などの表現は、人称代名詞の「わたし」や「あなた」の慣用表現です。つまり、プスケーもネフィシュも、どちらも何かの意識体ではなく、生きている人間を指す言葉なのです。

聖書の記述からすると、ときどきネフィシュとプスケーが全体としての一人を指し、あるときは、人のある特定の側面、すなわち愛情、情緒、食欲、感情を指して用いられていることがわかります[2]

ここではっきりとわかるのは、「魂」とは聖書において「人間」そのものであるということです。そして、この「人間」「魂」は土のちりから造られたゆえに、土にかえるのです。

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。 伝道の書(コヘレト)12:7(口語訳)

では、「霊はこれを授けた神に帰る」とはどのような意味なのでしょうか。

霊(ルアハ)はこれを授けた神に帰るとソロモンが言った意味は、神に帰るものは神がお与えになった生命の本質にすぎないということです。霊または息は、体から離れた、意識を持った実体であったというようには暗示すらされていません。このルアハは神が、最初人間の命のない体を生かすために吹き込まれた「いのちの息」と等しいものです[3]

また、G・S・ヘンドリーも次のように説明しています。

「塵は元の大地に戻り、霊は与え主である神に帰る」という言葉は、示唆的である一方、不死の希望を抱かせるための根拠を形成するものではありません。「太陽の下」という立場から体と霊の消滅を見届けています。それぞれは、出所に戻る、体は塵となり、霊は神に戻されるということです[4]

死とは、人が創造される前のもとの状態に戻ることなのです。

それゆえに、人が死後、何らかの状態に変化したり、意識を持ち続けることはないのです。

聖書は「死は眠り」であるとはっきりと述べています。

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。・・・その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。1テサロニケ4:13-16(口語訳)

聖書は、「死は眠り」であるとした上で、「復活」があることを明確に記しています。その時、わたしたちは「いつも主と共にいる」のです。

そうです。「主と共にいる」天国の状態はサタンによって破壊されましたが、キリストの再臨の時にもう一度、この「主と共にいる」天国の状態が完全に回復されていくのです。

そして、サタンによってもたらされた罪と死が滅ぼされるので、死から復活するのです。

まさに「死」は大争闘によってもたらされた最たるもので、大争闘の終わりと共に、この「死」が消し去られるのです。

もし、死んですぐに霊体などの何らかの形で存在することが「復活」ならば、そこに希望はありません。

考えてみてください。苦しみを受けて、死んだ後、すぐに霊体となって復活するならば、自分の葬儀が執り行われ、家族や友人たちが嘆き悲しむのを見るばかりとなるのです。もしくは、すぐに天国に行ったとしても、そこには愛する者たちはいません。何年、もしかすると何十年と待たなければならないのです。そして、その間にも愛する者たちは苦しみ続けているかもしれません。

「永遠に生き続ける」ことが天国なのでしょうか。それとも、「物質的な豊かさに囲まれる」ことが天国なのでしょうか。

もちろん、天国はそれらを満たすところでもあります。しかし、聖書ははっきりと「誰といるか」が復活と天国の希望であるとしています。

「誰かと共にいる関係の回復」こそが、復活と天国の希望なのです。その関係は「死」によってだけでなく、「罪」によっても破壊されましたが、復活の時には死も罪も取り除かれている状態へと変えられているのです。

聖書の中に描かれている復活は、ただ単に命が復活することではないのです。

「霊魂不滅は信じるが、宗教や神を必要としない」という価値観は、「誰かと共にいる関係の回復」をその中に入れていません。極端なことを言えば、この価値観は自分1人だけで生きることを考えているのかもしれません。

1テサロニケ4章17節では先に死んだ人々と「共に」、キリストに出会い、いつも主と「共に」いると書かれています。これこそが、聖書の中の復活なのです。

聖書の価値観では「誰といるか」があって、初めて復活は希望となるのです。そして、クリスチャンにとっての最大の喜びとなる、その「誰か」はイエス・キリストです。

では、そもそも、なぜ神はこの大争闘という状況を許されたのでしょうか。

神は愛である

「神は愛である」という事実は、少なくとも3つの意味を含んでいます。

1つは、愛の本質はそれが表現されなければ、存在し得ないということです。

当たり前のことですが、愛は言葉や行動などに表されて、初めて認知することができます。

同じように、神の愛は内面的には父・子・聖霊の神のうちに、またすべての被造物との関係に表されます。

2つ目は、神のなさることは、すべて無条件で変わることのない愛の表現です。

それは創造や贖い、救いだけでなく、裁きをも含みます。

3つ目は、神は愛であり、神のなさることが愛の表現であるということは、それに反する罪や悪を創造されることはないということです。

神は、人間のような被造物が自分や他人との愛の関係を楽しむことを望んでおり、それには悪の可能性は必要だが、悪は必要ではない[5]

愛は自由意志を必要とする

では、神が愛ならば、なぜこの世界に悪があるのでしょうか?

愛は自由意志を必要とします。つまり、選択の自由が与えられて、初めて愛の関係を持つことができるのです。

愛の関係に応じることができるのは、自由意志を持って創造された被造物しかありません。自由意志は、関係が不忠実になるという可能性を持っていますが、愛は常にそのリスクをためらわないのです[6]

聖書は悪の存在をはっきりと示しています。それは「敵のしわざ」であるとされているのです。(マタイ13:28)

敵はヘブライ語でサタンです。サタンは、もともとはルシファーという天使であり、神に愛され、自由意志を持った存在でした。しかし、彼は堕落したのです。

なぜ、彼が神から離れ、逆らう道を選んだのかはわかりません。

罪は神秘的で説明できないものです。その存在に理由はないのであり、それを説明しようとすることは、罪に理由を与えようとすることであり、罪を正当化することになるのです。罪は完全な宇宙に出現した弁解できないものなのです[7]

いずれにしても、サタンは神に対して反逆し、戦いを挑みました(黙示録12:7)。神の愛と正義に対する疑惑を世界に生み出そうと試みていくのです。

ここで出てくる疑問は、なぜすぐにサタンを滅ぼさなかったのかということです。

もしサタンの存在がたちまち抹殺されてしまったら、彼らは愛よりもむしろ恐怖から神に仕えたであろう。欺瞞者の感化を完全に滅ぼすことも、反逆の精神を根絶することもできなかったであろう[8]

サタンは神の愛と正義に対する論争を巻き起こしました、この論争の性質上、力による解決はできないのです。戦いはサタンそのものではなく、サタンが巻き起こしたこの論争そのものにあるからです。この戦いを大争闘と呼んでいます。

ある人たちが主張しているように、もし悪が、神と共に永遠に共存し、始まりがなければ、悪の存在が終わることもないでしょう。……しかし、主は誉むべきかな。悪には始まりがあり、それゆえに、終わりがあることを私たちは確信しています[9]

創世記に見る大争闘

サタンは天国の破壊を目論み、ヘビに姿を変え、人間に攻撃を仕掛けていきました。

天国とは、愛と信頼関係のもとで神と人が共にいる状態です(黙示録21:3)。とすれば、天国を破壊するための第一歩は、信頼関係の破壊です。

ヘビは次のようにエバを誘惑しました。

へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神は言われたのですか」・・・「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」創世記3:1,4,5(口語訳)

ヘビはここで、「神の言葉」に疑いを持たせ、神が自分のことしか考えていないように見せ、神の愛を疑わせようとします。

このへびの誘惑に惑わされ、エバは神から禁じられた善悪の知識の実を手に取るのです。この実自体は毒ではありませんでしたが、その行動自体が毒だったのです。実を食べるということは神から離れる選択をするということでした。

これにより、サタンは天国の状態である、「神への信頼」を破壊し、「神から離れる」選択をさせるのです。

人間の論理で考えれば、蛇の言うことは、神が言われたことよりもずっと説得力がありました。第一に、それまで自然界には罪と死の存在についての証拠は何もありませんでした。第二に、蛇は実際に禁じられた実を食べ、それをとても楽しんでいました。それなのに、なぜエバは同じようにしてはいけないのでしょうか。神のご命令はあまりにも厳しく、無意味に思われました[10]

ここでエバは選択を迫られます。人間の知恵か、神の言葉かです。そして、エバは人間の知恵に頼る選択をするのでした。しかし、人間の堕落と天国の破壊を決定的なものにしたのは、エバではありません。その後、エバの行動を知り、エバと共に破滅の道を歩むことを決めたアダムが堕落を決定的なものにしたのでした。

彼女(エバ)よりもむしろ、神の明白なご命令を完全に理解していたアダムの故意の選択が、多くの人類にとって罪と死を避けられないものにしたのである。エバはだまされたが、アダムはそうではなかった[11]

アダムは「誰と共にいるか」という選択を迫られ、神ではなく、エバを選んだのでした。

天国とは、愛と信頼関係の下、神と共にいることです。エバはその信頼を疑い、アダムは神と共にいることではなく、エバと共にいることを選びました。これにより、天国は破壊されたのでした。

その後、このアダムとエバのもとに神が来られます。

主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」創世記3:9(口語訳)

ここで、神はあえて人に呼びかけられます。そして、何をしたのかを聞き出していかれるのです。

「どこにいるのか」「誰が告げたのか」「木から食べたのか」という言葉で、神が調査されている姿が表されています。

神が全知全能の方であるならば、なぜこのようなステップが必要なのでしょうか。

速やかに、神の判断のもと、結論から話されても良いのではないでしょうか。

なぜ、「調査」されてから、「審判」があるのでしょうか。

それは、この大争闘の性質に理由があります。この大争闘は、神の品性に対する攻撃です。それゆえに、その判断が正当なものであるかが疑われているのです。

神の判断の正当性を明らかにするために、神は説明責任を果たされる必要があり、それを天使たちに対してなさっておられるのです。

同じようなことをバベルの塔やソドムとゴモラのときにもなさっておられますが、その行動がはっきりと表されているのは、ダニエル書7章でしょう。

大争闘の全体像

ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。ダニエル7:22(口語訳)

ここでは、「聖徒のために審判をおこなった」とあり、「この聖徒たちは国を受けた」とあります。つまり、救われる人々のための審判が行われているのです。すでに、神は救うと決断されているにもかかわらず、なぜ審判が行われているのでしょうか。神のためではないとすれば、誰のための審判でしょうか。

彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。ダニエル7:10(口語訳)

ここでは、「神に仕えるもの」が出てきます。つまり、この審判は天使たちに神の判断の正当性を明らかにするものなのです。

神は裁きを判断され、執行される前に、被造物がその神の判断を調査し、理解するステップをはさまれるのです。

これこそが、悪がまだこの世界にある理由であり、また大争闘を終わらせる大切なステップなのです。

興味深いことにこの理解は、ダニエル7章を研究した数々の学者たちも口にしています。

たとえば、ローマ・カトリックの学者 ダスターワルドは次のように述べています。

ここで描かれてる事柄は、これまで昔の多くの解釈者たちが想像してきたような世界に対する一般的な審判ではない。これは地上における神の審判ではなく、審判が行われている場所は天においてである。この聖句の文脈が示しているように、これは予備審判であり、これに基づいて後に世界に対する一般的な審判がなされるのである[12]

また、19世紀にダニエル書の註解書を書いたプロテスタントの旧約学者 ロビンソンも次のように述べています。

すでに述べたように、これはキリストの地上の統治の終わりになされる一般的な審判、または普通に理解されている表現を使えば、世の終わりのことではない。これはむしろ覆いの内側で行われている目に見えない裁きであり、その結果により、その判決の執行によって明らかにされるものである。・・・その判決が完全に執行されていないことを見ると、この裁きは現在行われているのかもしれない[13]

大争闘の全体像は次のようになっています。

創世記に見る大争闘

さて、創世記に戻りましょう。天国の状態を蛇は破壊し、神はそれを調査されました。そして、裁きが下るのです。

わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。 創世記3:15(口語訳)

これはキリストの十字架の預言です。キリストは十字架の時、釘で踵を砕かれましたが、サタンは十字架の時、その頭を砕かれ、敗北が決定的になったのです。

ヘブライ語においては、「敵意」という語がその預言の最初に置かれ、強調されています。最初から、その聖句の基本的な最も重要な思想が指摘されています。これは宇宙において続いている対立です。敵意という言葉は、大争闘を指し示しています[14]

十字架からキリストは復活されました。これはわたしたち人間も復活するという希望を示すためであり、サタンに対する神の裁きの正当性を明らかにするためでした。

そして何より、この十字架により、サタンの敗北は決定的になったのです。つまり、罪と死が滅ぼされ、「神と人が共にいる」天国の状態が回復される決定打となったのです。

永遠を望む心

人間には、どこか死すべき命をながらえさせ、永遠に生きたいという願望があるのかもしれません。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。コヘレト(伝道)3:11(口語訳)

この解釈についてのもっとも受け入れられているものは、フランツ・デーリッチュの解釈でしょう。

人の内奥の欲求は、一時的なものでは満たされないことを示している。人は時間によって制限されている存在である。しかしその内奥の性質についていえば、人は永遠と関係している。はかなく過ぎるものは、人を支えてはくれない。それは急流のごとく人を流し去り、永遠にしがみつくことで、自らを救うように人を強いるのである[15]

つまり、「永遠への欲望」が人間にはあると、彼は理解したのです。そのあこがれは、芸術や記録、または業績などによってあらわされています。また、宗教的な意味ではミイラや輪廻転生なども、この朽ち果てない命へのあこがれを表現していると言えるでしょう。

そして、前述した通り、日本の青年たちのほとんどが「霊魂が残る」ことをどの世代よりも強く信じているのです。このあこがれは、古代世界のものではなく、現代日本においても見られ、それゆえに、人間や人生のもろさを意識してしまうのかもしれません。

興味深いことに、青年層に人気の高いWeb小説サイトでは「異世界転生」というジャンルが流行っています。これは現実世界から、異なるファンタジーの世界に転生して活躍するという小説全般のことを指すものです。ある調査ではなんと、10代の40%が異世界に転生したいと考えていることがわかっています[16]

この背景には、現代社会の行き詰まりを指摘されていますが、ある意味「永遠への欲望」が最高潮に達しているとも言えるかもしれません。

その一つの証拠として、このWeb小説サイトでは、ストレスがかかるような展開、つまり主人公が不幸になるような描写があると、読者離れが起きると言われています。過去にも異なる時代や世界に主人公が行ってしまう作品はありましたが、そこでも主人公は苦闘し、そして元の世界に戻るかどうかで葛藤していく姿が描かれていきました。

しかし、今はそのような姿は青年たちの心を打つことはないのです。読者の思い通りに物語は進み、つらい側面は描かれなくなりました。

これは一例に過ぎないかもしれませんが、もしかすると、今日本では「自分の思い描く幸せが待つ場所」を求めている青年たちが増加しているのかもしれません。

聖書は確かに、人間や人生のもろさを明確に書いていますが、その結論は少し異なります。

Web小説サイトで描かれる異世界転生が、今の環境を捨てて、自分を中心とした世界への旅立ちだとするならば、聖書で約束されている復活はその逆です。

もしかすると、日本の死生観は非常に自己中心的なものになっているのかもしれません。自分の幸せ、自分が満たされる物質的な恵み、それらが約束されているのが復活ではありません。聖書の復活は、罪と死によって分断された、人との関係の回復と愛するキリストとの関係の回復を約束しているのです。だからこそ、聖書は将来だけでなく、今を意識させているのです。

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[1]堀江宗正『日本人の死生観をどうとらえるか——量的調査を踏まえて』臨床死生学倫理学研究会、2014年4月、4-8頁

[2]SDA世界総会『アドベンチストの信仰』セブンスデー・アドベンチスト教団、140頁

[3]SDA世界総会『アドベンチストの信仰』セブンスデー・アドベンチスト教団、625頁

[4]G. S. Hendry, “Ecclesiastes,” in The New Bible Commentary, Revised, ed. D. Guthrie and J. A. Motyer, 3rd ed. (Downers Grove, IL: Inter Varsity, 1970),577.

Alberto R. Timm『再臨と死者の復活 そして悪の終焉』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、27頁

[5]Peckham, John C.. Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (p.12). Baker Publishing Group. Kindle 版.

[6]Alberto R. Timm『再臨と死者の復活 そして悪の終焉』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、11頁

[7]エレンホワイト『天使についての真実』30頁

[8]エレン・G・ホワイト『各時代の大争闘 下巻』福音社、236頁

[9]Alberto R. Timm『再臨と死者の復活 そして悪の終焉』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、14頁

[10]アルベルト・R・ティム『永遠の命』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、13頁

[11]SDABC vol1, p.231(エレンホワイトコメント)

[12]F.Dusterwald, Die Weltreiche und das Gottesreich(Freiburg: Herder’sche Verlagsbudh-handlung, 1890),p.177. Translation G.Pfandl.

ゲルハルト・ファンデル『体験するダニエル書』福音社、81-82頁

[13]T. Robinson, Daniel, Homiletical Commentary(New York: Funk and Wagnalls, 1892), vil.19, p.139. Similary, S. P. Tregelles, Remarks on the Prophetic Visions in the Book fo Daniel, 8th edition (Chelmsford: The Sovereign Grace Advant Testimony,n. d. ),pp. 36-38.

ゲルハルト・ファンデル『体験するダニエル書』福音社、82頁

[14]ジャック・B・デュカーン『現代人のための創世記物語』 セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、20頁

[15]C. F. Keil and F. Delitzsch, Commentary on the Old Testament in Ten Volumes, Vol. 6, The Song of Songs and Ecclesiastes, trans. M. G. Easton (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1989), 261.

[16]Alberto R. Timm『再臨と死者の復活 そして悪の終焉』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、29-30頁

https://sirabee.com/2019/06/21/20162103685/ 2022年10月10日閲覧

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