宗教改革者たちの「死後の状態」に対する理解はどのようなものだったのですか?

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*本記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。

宗教改革者たちの「死後の状態」に対する理解はどのようなものだったのですか?

16世紀のキリスト教会において、死後の魂の問題が論争の的であったことがわかります。1513年に第5ラテン公会議が開かれましたが、会議の後、教皇レオ10世は次のような詔勅を出しています。「われわれは、知的な存在である魂は不死ではないと主張する者たちを罪に定め破門する」。これは魂の本性的不死を否定し、人間の条件的不死の立場をとるものを異端と断定するものでした。詔勅はさらに「これと同じような誤った主張に従う者は、異端者として遠ざけられ、罰せられるべきである」と定めています。

著名なイタリアの教授であったポンポナッツィは1516年、魂の不死に反対する立場から『魂の不死について』という本を著しました。これは広く読まれ、特にイタリアの各大学で読まれましたが、その結果、彼は異端審問所に引き出され、その著書はベニスで公に焼かれました。翌年の1517年ルターはヴィテンベルグ城教会の扉に有名な95箇条の提題を貼り出しましたが、後にその中でも教皇の不死に関する命題を「こやしの山のようなローマ教皇令の中に見いだされる奇怪な見解」と批判しています。英国国教会の大執事フランシス・ブラックバーンは『中間状態に関する小論争史』を著しましたが、その中で、「ルターは聖書に基づいて、魂の眠りの教理を信じ、それを煉獄や聖人崇拝への論駁として用い、生涯の最後の瞬間までその信仰を持ち続けた」(14ページ)と述べています。

ルターは伝道の書の注解を書いていますが、「ソロモンは、死人は眠っているのであって全く何も感じることがないと判断する。死人はそこで、日も年も数えることなく眠り、死人が目覚める時は、ほんの一分間ほどしか眠っていなかったかのように思うだろう」と言っています。トムソン・カー編の『ルター神学大要』には次のようなルターの死に対する言葉が記されています。「われわれは正しい光のもとで死を見ることを学ぶべきである。それはわれわれが死に関して、未信者のように驚く必要がないためである。なぜなら、キリストにあってはそれは、ほんとうに死なのではなく、快く、甘く、短い眠りにすぎないからである。それはわれわれをこの涙の谷より解放し、真の死の恐れと、その窮状から、また、この世のあらゆる不幸から解放するのである。そしてわれわれは安全な身となり、心配もなく、ソファの上に眠るように、甘く穏やかな気持ちで、ほんの少しの間、キリストがお呼びになり、呼び覚まされて、愛しておられるすべての子等と共に永遠の栄光と喜びにふれたもう時まで、眠るのである。死が眠りだと言い得るのなら、われわれは死に留まるのでなく、再び目を覚まし、生きるのだということ、また、眠っている期間といってもたった今眠りに落ちたばかりだというくらいにしか感じられないだろうということを、われわれは知っている」(242ページ)。

英語に聖書を翻訳し、殉教したウィリアム・ティンデールは条件的不死の教えを擁護するために闘いました。教皇派のトーマス・モーア卿はルターやティンデールを「悪疫のように拡がる分派」と呼び強く反対しましたが、その理由の一つは彼らが、「すべての魂は世の終わりの日まで横たわり眠り続けるのだ」という教えを奉じたからでした。1530年にティンデールはそれに対して、「貴君はそれら肉体から離れた魂を、天国、地獄、煉獄に置くことにより、キリストとパウロが復活の教えを立証しようとして用いた論証を打ち壊すのだ。魂が天にいるのならば、なぜ彼らは天使たちと同じように素晴らしい状態に置かれていないのか、私に告げよ。もし置かれているのならば、復活の理由はどこにあるのだろうか」と反論しています(『トーマス・モーア卿の対話への解答』180,181ページ)。

ティンデールは本性的不死の主張は、異教哲学者の教えに基づいていることを指摘し次のように述べています。「真の信仰は復活を説く。われわれはそれを、いつも求めるように警告されている。この教えを否定する異教の哲学者たちは、魂を永遠に生きると説いた。教皇は、キリストの霊的な教えと哲学者の肉的な教えを結び合わせるのだ。それら二つのものは余りにも相矛盾するものであって、キリスト者という人間の中で、霊と肉とが一つにならないように、決して一つになれないものである」(同)。

ティンデールは同じ論文の中の「聖人の祈り」の項の中で、死せる聖徒は天にいるという教えはキリストの時代にはまだなかったことを指摘し、教皇派の教えとパウロとの矛盾を鋭い皮肉の言葉で突いています。「パウロよ、あなたは無学である。モーア先生の所に行って新しい道を学んできなさい。たとい再びよみがえることはないとしても、われわれの魂は死ぬと直ちに天に行き、そこで、再びよみがえりたもうたキリストと同じく、大いなる喜びを味わうのだから。しかし、なぜパウロは、もし彼がそれを知っていたのなら、テサロニケの人々を、死んだ人々の魂は喜びの中にいるのだという教えによって慰めなかったのか、私には不思議だ。彼は、死んだ人々は再びよみがえるという復活の教えによって慰めたのである。もし魂が貴君の教えのように天にいて、天使たちと同じように素晴らしい栄光の内にいるのならば、復活の目的は一体何なのか、示して欲しい」

宗教改革者たちの、「生得的不死」に代わる「条件的不死」の考えはその後どうなったのですか?各キリスト教派の間において継承されたのですか?

ルターや、条件的不死(ConditionalImmortality)の教えを説くことに命をかけたティンデールの聖書理解は、17世紀に偉大な宗教詩人、「失楽園」の著者でもあるジョン・ミルトンをはじめ、その後の各世紀にわたりメソジスト、バプテスト、ルーテル、福音派など教派を超えキリスト者の支持を得てきた足跡をたどることができます。

その後18、19、20世紀と引き続き「条件的不死の立場」を聖書と初代教会の教父たちの信仰から掲げるキリスト者の主張は一貫しています。まず神のみが永遠性を持っておられ、人間のうちには無条件に、本性的に永遠性は備わっていないということ。これは肉体と魂を分け、魂の不滅性、永遠性を説いたギリシャ思想からキリスト教会に入ってきた非聖書的な考えであること。このいかなる人間の魂も不滅であるという間違った前提から、天国において永遠のいのちを神から受けることのできない不滅の魂は必然的に自らのいのちを断つことも許されず永遠に苦しみ続けるという教えに結びついたこと。永遠に比べ短い地上の罪の生活の報いとして、神が魂の終わりのない永遠の苦しみを是とされるという教えは、神の愛と正義のご品性に調和しないこと。それはまた宇宙から罪の悲惨な結果が永遠に消えないことになり、罪の痕跡もなくなる完全な救いを説く聖書の新天新地の教えに合致しないことなどがその理由です。

福音派の代表的指導者であるジョン・R・ストットは、自分の読者に対してこの地獄の問題を扱うに当たって、福音派の伝統と共同体の一致を尊重したいが故に「非常な躊躇と重い気持ち」で書いていると述べ、次のように記しています。「真理を決定することにおいては最高権威の座に高められてはならないものである。ひとりの献身した福音派の人間としての私の問題は、私の心が私に何を告げているかではなく、神の言葉が何を語っているかであり、またそうでなければならない。この問題に答えるためには、改めて聖書の題材を調べ直し、聖書が霊魂消滅の方向を示している可能性と『永遠の、意識のある苦しみ』が聖書の最高権威に従属すべき伝承である可能性とに対して(私たちの心と)理性を開く必要がある」

裁きについて彼は、神はそれぞれの行いに応じて人を裁かれる(黙示録20:12)のであり、すなわち課せられる刑罰はなされた罪につり合ったものであるということ。従って意識を伴った永遠に続く苦痛が、果たして地上での束の間の罪と見合ったものなのか、聖書の神の正義の啓示と両立するものか疑問だとしています。永遠の滅亡と、永遠に罰し続けるということは別なことなのです。また悔い改めない者が地獄に永久に存在するということと、神の悪に対する完全な勝利の約束を調和させることが困難であるということです。

そういうわけで、ストットは聖書的解釈とされてきた霊魂不滅説という福音派の長年の伝統と、世界的な福音派構成員の一致に配慮しつつも、この問題は不問に付すにはあまりに重要な問題があり、悪人の最終的な消滅説を、少なくとも永遠の意識を伴う苦痛に対する一つの正統な聖書に基づく代案として受け入れるように提案しています(『福音派の本質:自由主義と福音派の対話』pp.312~320)。

クラーク・ピノックも条件的不死説と霊魂消滅説を採用している主要な福音派の学者です。彼は次のように記しています。「もし霊魂が生まれつき不滅であるとするなら、それらは必然的にどこかで意識的な永遠を過ごさねばならないし、もし火の『ゲヘナ』があるのなら、それらは焦熱地獄の中で生きたまま意識的な永遠を過ごさねばならないことになる」「もし神が人間を永遠にわたって苦しめられるとすれば、神の慈愛とは何を意味するのであろうか。……地獄の本質に関する伝統的な考え方は福音に啓示された神の品性と一致しない。……地獄の本質に関する伝統的な教理に対しては、強い道徳的嫌悪感がある。永遠の拷問は道徳的見地から耐えられるものではない。なぜなら、それは神を血に飢えた人非人のように描いているからである。彼が管理している永遠のアウシュヴィッツでは、敵は死ぬことさえ許されないのである。人はそのような神を愛することができるであろうか。そのような神を恐れることはあっても、愛し、敬うことはできないであろう。私たちはこれほど非情な神に似る者になりたいと思うであろうか」(『地獄についての4つの見解』pp.144,165,166.Zondervan)。

ロバート・E・オルソンも「霊魂消滅説は福音の中心に打撃を与えるものでもなければ、いかなる主たるキリスト教信仰を否定するものでもない。さらに重要なことは、地獄の性質に関する意見の相違の故に、一部の根本主義者の厳しい非難によって、同じようにイエス・キリストの福音を信じる信仰者を受け入れることを思いとどまらせてはならない」と述べています(『キリスト教のモザイク:2千年間の一致と多様性』p.239)。

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