死んですぐ天国に行っているように読める聖句がありますが、どう解釈すれば良いのですか?

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*本記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。

しかしパウロの書簡の中には、「肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよい」といった霊魂不滅と、死後のキリストとともにあるいのちを暗示させる言葉があるのではありませんか?

常に迫害による身の危険にさらされていたパウロにとって死は身近な現実でした。それに加えて教会内部の様々な問題もありました。尽きることのない重荷から解放され眠りにつきたいという気持ちと、神の働きの必要との間に揺れ動く気持ちを彼は教会に対する手紙の中に表しています。「もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です」(ピリピ1:22〜24)。

パウロはコリントの教会員に対しても同じような気持ちを表現しています。からだを彼は「地上の幕屋」と呼んでいますが、「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです」(Ⅱコリント5:4)。世を去るとか幕屋を脱ぐというのが死のときであることは明らかですが、キリストとともにいる、あるいは天からの住まいを着るということがいつ実現するのかは語っていません。それが実際にいつかということは、パウロ自身がその前の部分で語っているように、「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださる」(Ⅱコリント4:14)ときであり、「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき」(Ⅰコリント15:54)、すなわち復活と再臨のときであるわけです。

前述の「世を去ってキリストとともにいる」という言葉はそのことがほぼ同時に起きるような表現になっていますが、現実には「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:3)というキリスト再臨のとき実現します。しかしキリストにあって意識のない眠りについた者にとっては、実際死の次の瞬間は甦りの朝なのです。

キリストは十字架上の犯罪人に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と語り、死後彼がキリストとともにその日のうちに天国に救われる確証を与えられたのではありませんか?

この聖句や関連の聖句を調べてみると、必ずしもこのみ言葉が死後の昇天や死後の天国の救いの確証を与えるものでないことが明らかになってきます。キリストは犯罪人に語られたその3日後までは墓におられたわけですし、3日目に復活された後に、キリストとの再会を喜ぶマリヤに、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」(ヨハネ20:17)と言われました。その通り、実際キリストが天に昇られたのはずっと後(使徒1:9〜11)のことになるわけで、十字架上で金曜日に犯罪人に約束された「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」との約束は守られなかったことになります。

英語などで句読点をどこに打つかによって意味が変わってくることは良く知られていますが、新約聖書が書かれたギリシャ語でも同じことが起こり得ます。「きょう」という言葉はギリシャ語で「セメロン」ですが、原文ではこの言葉は「まことに、あなたに告げます」という節と、「わたしとともにパラダイスにいます」という節の間に置かれています。ギリシャ語には句読点はありませんので、「きょう」を意味する「セメロン」がどちらの節にかかるかと考え、どこに句読点を打つかによって2通りの訳が可能になります。「セメロン」がその前の節にかかると考え、「セメロン」の後に句読点を入れれば「わたしはきょうあなたに告げます」となりますし、「セメロン」がその後の節にかかると考えれば「きょうわたしとともにパラダイスにいます」となります。

もう一人の犯罪人は、「キリストなら自分と私たちを救え」と悪口を言いましたが、この犯罪人は、「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」とキリストの御国の到来と支配に対する信仰を言い表しました。その彼に人生の最後の日にあたってキリストは「まことにわたしはきょうあなたに告げます。あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と将来の御国における救いの保証を与えられたのでした。この訳の方が、キリストはその日のうちにパラダイスに行かれなかったこと、救われた者がキリストとパラダイスに共におることができるのは、「わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです」(ヨハネ14:3)と言われたご再臨のとき実現することなどを考え合わせると、妥当であると考えることができるのではないでしょうか。

キリストはルカの福音書16章の中で、ハデス(地獄)の炎の中で苦しむ金持ちと貧乏人ラザロの話をしておられますが、これはどのように理解するのでしょうか?

まずこれはあくまでもある教訓を与える目的で語られたたとえ話であり、実話ではないことを頭に入れておく必要があります。語られたたとえの対象は、人前で見せかけだけの正しさを誇る高慢で貪欲なパリサイ人であり、キリストはこのたとえを通して彼らに富に頼るよりも、神の国に入るには、心をご覧になる神の御前にみ言葉に従って忠実に生きることが大切であると教えようとされたのです。アブラハムの子孫であることを彼らは誇っていましたが、人生の清算をしてみると越えられない大きな淵が「金の好きなパリサイ人」(14節)とアブラハムとの間にはできてしまっていたのでした。

このたとえのすぐ前でキリストは不正の富を用いてでも将来に備えた管理人について話されましたが、それは永遠の住まいに備える重要性を示すのが目的で、不正の富作りを承認されたわけではありません。たとえの場合その中心となる教訓を掴むことがポイントで、たとえ話の詳細を現実と混同するとおかしなことになってしまいます。たとえの中でラザロが繰り返しアブラハムのふところにいたといわれていますが、歴史家のヨセファスはその著『ハデスに関する論説』の中で、「アブラハムのふところ」とか「アブラハムのひざ」といった表現が当時のユダヤ人が義人の行く至福の場所を表すのにしばしば用いていたと述べています。アブラハムは普通に死んで葬られたことは聖書に記されていますが(創世記25:8,9)、彼に関してエノクのように死を見ることなく神に移されたとも(ヘブル11:5)、モーセのように甦ったとも(ユダ9、マタイ17:3)記されていません。アブラハムは他の信仰の勇者とともに、約束の天の故郷をまだ手に入れるに至りませんでしたが、それを望みつつ眠りについたのでした(ヘブル11:10,13,39,40)。またこのたとえでハデスは、そこにいる金持ちが天国のアブラハムを見たり、会話を交わしたり、ラザロがその指先の水で金持ちの舌を冷やすことができるような近い場所に存在することになります。

キリストが語られたこの話はあくまでも当時のユダヤ人の通念を用いて、金を愛し、富に仕えていたパリサイ人(ルカ14:13,14)に、富が永遠の住まいに人を導くのではなく、むしろ妨げにもなること、この世における生活が御国への備えのために与えられる唯一の機会であることなどを示そうとされたたとえ話であって、たとえに基づいて人間の死後の状態や裁きについての教理を形成することはできないということです。W・スミス博士は聖書辞典の中で金持ちとラザロのたとえに関し、「明らかにユダヤの隠喩に富む話に重要な神学的教理の証明を基づかせることは不可能である」と主張しています。死後の状態や罪に対する神の裁きなどの重要な教理を学ぼうとする時は、一つ、二つの聖句やたとえ話や言い伝えられてきた伝統でなく、そのテーマに関連するすべての聖句を集めてきて、聖書そのものに語らせつつ教理を形成していくことが重要です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳または口語訳を使用しています。
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