「永遠の地獄の責め苦」を否定するその聖書的根拠はどこにありますか?

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*本記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。

「永遠の地獄の責め苦」を否定するその聖書的根拠はどこにありますか?

聖書には「義の奴隷」である者の「行き着く所は永遠のいのち」(ローマ6:22)であるのと対照的に、「罪の奴隷」である者の「行き着く所は死」(6:21)であるといわれています。ここでいう死は誰もが経験する第一の死ではなく、永遠の滅びである「第二の死」(黙示録21:8)です。聖書はその第二の死を「火と硫黄との燃える池」と表現していますが、罪の奴隷であった者の火と硫黄による「苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は昼も夜も休みを得ない」(黙示録14:11)とあります。ここで「永遠」といわれている言葉はギリシャ語の「アイオーン」で、「いつまでも」とか「永久に」と訳されますが、必ずしも文字通り無限の時間を意味しません。たとえばパウロは奴隷のオネシモをピレモンのもとに送り返すとき、「永久に」と言っています(ピレモン15)。ヘブライ語の「オラム」も「いつまでも」と訳されますが、人間にそれがあてはめられるときは、多くの場合その人が「生きている間」という意味になります。ハンナがサムエルを「いつまでも」神殿にとどまるようになるまで自分が育てると言っていますが(Ⅰサムエル1:22)、この場合の「いつまでも」は、長くてもせいぜいサムエルが生きている間という意味です。

イザヤ書34章には、主がエドムに復讐を誓われ、「エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る」(9,10節)と宣言されたことが記されていますが、イスラエルのこの地に今でも硫黄が燃えているわけではありません。ソドムとゴモラも火で滅ぼされたことはよく知られています。ユダの手紙7節にはこの町が「永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています」とありますが、今でも永遠の火が燃えているわけではありません。火による刑罰の結果が永久的なものであり、今も見せしめとなっているという意味に解することができます。

これらの一連の表現はみな「徹底した滅亡」の比喩であることを理解する必要があります。これらの比喩的な表現を基に永遠の責め苦を教義にする必要はありません。悪人の滅亡に関して別の理解を得させてくれる聖句も多数あります。終末の裁きと滅亡についてマラキ書はただ滅ぼされるだけでなく、「その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない」(4:1)と言っていますし、キリストも「毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります」(マタイ13:40)と言っておられます。詩篇記者は「罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように」(詩篇104:35)と願い、「しかし悪者は滅びる。‥‥彼らは消えうせる。煙となって消えうせる」(詩篇37:20)と罪人の消滅を語っています。

へブル人への手紙の著者は「死者の復活、とこしえのさばき」(6:2)と、「永遠の贖い」(9:12)について述べていますが、とこしえのさばきも永遠の贖いも時間的な長い経過や過程を言っているのではないことは明らかです。果てしなく裁きが続くとか、永遠に贖いが続くという意味ではなく、徹底した裁きがあり、贖いが完結し、その結果や効果が永遠に続くことを言っているわけです。罪人が受ける「永遠の滅びの刑罰」(Ⅱテサロニケ1:9)は第二の死であり、復活のない永遠の滅びであって、罪人の苦しみが意識をともなって永遠に苦しむというのでなく、「焼き尽くされ」(Ⅱペテロ3:10)るならば罪も罪人も消滅し、「正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)が出現するのです。

究極的な救いの完成である新天新地について聖書は、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)と描写しています。その前の20章には、いのちの書にしるされていない者はみな、また彼らを惑わした悪魔と共に滅ぼされる第二の死について記しています(10,13,14節)。またキリストはこのように「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われました。滅ぼすといっても実際は不滅の霊魂を持った罪人が永久に存在し、しかも永遠の火で焼かれ無限に苦しみ叫び続けるというのであれば、宇宙から悲しみと呪いの場所が永久になくならないことになります。「以前のものがもはや過ぎ去った」新天新地においては、悪魔も悪人も罪に関連したものが一切滅ぼされ、消滅してこそ、罪が侵入する以前の神の義が支配する完全な世界が回復し、救済の計画が完全に完成したと言えるのではないでしょうか。

Q35セブンスデー・アドベンチスト教会以外に、霊魂不滅や永遠の地獄の責め苦の信仰と違う条件的不死、あるいは復活と再臨による救い、罪の消滅といった信仰を持つクリスチャンは他にはいないのですか?

条件的不死や救いを拒む者の消滅という理解はセブンスデー・アドベンチスト教会独自のものではなく、むしろ同じ聖書理解に立つ人は増えつつあるというのが現実のようです。例えばその一人が『キリストと時』などの著作で知られる著名な神学者、オスカー・クルマン教授です。同教授は1955年『霊魂の不滅か死者の復活か』(岸千年、間垣洋助共訳、聖文舎発行)という論文を発表しましたが、それは「すべての教派とすべての神学的見解をもつ多くのまじめなキリスト者の機嫌を損じた」と序文に記しています(同2ページ)。しかし誰もクルマン教授の見解に、聖書釈義で反論できた者はいませんでした。同教授は、これは「ギリシャ的な霊魂不滅の信仰を初代キリスト教のものだとする過ちが、どれほど広く行き渡っているかを示しているように思われる」と述べています。また彼は「しかしこの広く受け入れられている考えは、キリスト教について最大の誤った理解の一つである」(同15ページ)と指摘しています。

クルマン教授はギリシャ哲学のソクラテスの死とキリストの死を対照させています。ソクラテスにとってからだは永遠の世界に属する霊魂をとじこめておく牢獄であって、死はその鎖を解く解放者でした。ソクラテスは魂の不滅を弟子たちに教えただけでなく、死が永遠の家郷に帰る自由に至る道であることを示すために、自ら毒杯をあおったのです。それに対してキリストは、すべての人の救いのため、死を味わわねばならないことをご存知でありながら、死を罪に対する神の怒りとして受けとめ、できることであれば、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っています。ギリシャの二元論的な人間観からすれば、死は真の自己をからだから解放してくれる歓迎すべきものでしたが、クリスチャンにとっては、死は「最後の敵」として滅ぼされるべき大いなる敵なのです。ギリシャ的人間観においては、からだは、その人格性にとって、本質的なものではありませんが、神学者ホイラー・ロビンソンはその著『民と書物』の中で「へブル的人格概念は、魂を持った生けるからだであって、からだを持った魂ではない」(362ページ)という有名な表現を残しています。人間はからだを持っているのではなく、からだなのです。人間は、魂によって生きているからだであって、精神と肉体が結合したものとしての総体なのです。私たちセブンスデー・アドベンチスト教会は、人間の霊と心とからだの全人的な回復と健康のために奉仕することを目指して活動(6章で紹介)していますが、それはこの聖書のトータルな人間観に基づいています。

からだは、ギリシャ哲学の影響を受けたグノーシス主義が教えたような低いレベルの神によって作られたものではなく、神の御手によって造られたものであり、神の霊が宿る神の宮なのです。からだは不節制によって損なってはならず、「主のためであり、主はからだのためです」「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現」すように勧められています(Ⅰコリント6:13,20)。

人間は一つの総体ですから、からだを離れて生き続ける部分は人間のうちにどこにもありません。死ぬときは、人間のあらゆる部分、すなわち全人が死ぬのです。従って終末における復活もからだをもって全人、人間全体が甦るのです。

目次

眠っている者たち──死人の中間の状態と聖霊

Ⅰテサロニケ4章13〜18節の関連でクルマン教授は幾つかの聖句を挙げながら、次のように再臨までの眠りについて述べています。「ここで実際に、パウロが関心を持って示そうとするのは、キリストの再臨の時には、『生きながらえて残る者たち』が、キリストにあって死んだ人々よりも、『先になることはないであろう』ということである。それゆえ、キリストにあって死んだ者は、なお、時の中におり、その者たちもまた、〈待って〉いるのである。ヨハネの黙示録(6:10)において祭壇の下に眠っている殉教者たちは、『主よ、いつまで』と叫んでいる。『あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』(ルカ23:43)という十字架の言葉も、ラザロがアブラハムのふところに直接送られた(ルカ16:22)という金持ちのたとえも、『わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることである』(ピリピ1:23)というパウロのことばも、しばしば考えられるように、からだのよみがえりは、個人の死後ただちに起こるのだということを証左するものではない。そのかわりに、これらの種々の異なる象徴は、終わりの時の前に、キリストにあって死ぬ者たちの状態──生ける者とともに、彼らもそこにいる中間状態を描いたものである」(同59,60ページ)。

「まさに聖霊が存在するがために、恐るべき死の絶望、すなわち、私たちが先に語ってきた神からの離別はもはや存在しない。それゆえ新約聖書は、死人が実に(キリストとともに)いること、そしてそれゆえ見捨てられることはないということを強調する。こうして、中間時における、別離の恐怖について語っているあのⅡコリント5章1節以下において、パウロが、聖霊に対して、『切に』と言っているのはなぜか理由がわかる。同章8節によれば、死んだ者が、いっそうキリストに近いというふうに見える。『眠り』は、彼らをいっそう近くに引きよせるように思われる。『むしろ肉体から離れて主とともに住むことが、願わしいと思っている』。この理由から、この使徒は、ピリピ1章23節において、この世を去ってキリストと共にいることが望ましい、と書くことができるのである」(63ページ)。結論としてクルマン教授は、霊魂不滅を説いたソクラテスやプラトンの教えと新約聖書の死者の復活の教えを調和させることは不可能であると述べています(71ページ)。

教父たちもアンテオケのイグナチュースは2世紀の初頭に、リオンのイレナエウススは180年頃に復活の日に目覚めるまでの眠りとしての死について書いています。それに対して3世紀になるとアレキサンドリアのオリゲネスやテルトゥリアヌスなどは魂に対するプラトン的理解を導入していることがわかります。4世紀になるとますますその傾向は顕著になり、死んだ者に対する苦行による償い、煉獄における刑罰など中世期的な死後に対する捉え方が受け入れられていきました。マルチン・ルターは煉獄での苦しみ、苦行による償いなどに反対しています。

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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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