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マルコによる福音書3章1節―6節(口語訳)
3:1イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 3:2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 3:3すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 3:4人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 3:5イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 3:6パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。マタイ12:11(口語訳)
このようにキリストが言われたとき、パリサイ人たちは心穏やかではありませんでした。
羊の場合は所有者の利害のために助けても良いことになっていましたが、治療行為は許されていませんでした。もちろん、命の危険がある場合には、治療行為を行うことは認められていましたが、手がなえた人をいやすことは認めていなかったのです。
彼らは「どのように安息日を守るのか」、もっと言えば「どのように自分を救うのか」を考え、最初は罪を犯さないためのバリケードとしてルールをつくっていました。しかし、次第に罪を犯さないギリギリのラインを探るようにルールを定めていき、その結果、彼らは知らず知らずのうちに自己中心的にルールを解釈していったのです。
キリストは言われます。
安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか。マルコ2:4(口語訳)
キリストの関心は「どのように安息日を守るか」ではなく、「愛する人の救い」にあるのです。わたしたちの関心はどこにあるでしょうか。「どのように安息日を守るのか」「どのようにクリスチャン的で健全なライフスタイルを守るのか」「どのように自分を救うのか」、そこに関心が集中してはいないでしょうか。
しかし、パリサイ人たちの最大の問題は、キリストの関心と一致していなかったことではありませんでした。彼らはキリストから罪の指摘を受けると、礼拝が終わるのを待たずに、会堂から出て、安息日にキリストの殺害について相談を始めるのです。彼らのプライドゆえに、安息日の本来の意味を見失い、礼拝さえも彼らの関心から消えてしまったのでした。
結局のところ、パリサイ人の関心は「自分」だったのです。彼らは非常に敬虔に見える人物で、非常に律法に忠実でした。安息日を厳守し、厳格な食生活を送っていました。しかし、彼らの関心は「自分」だったのです。わたしたちの焦点はどこに向いているでしょうか。