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今日の聖句はこちら(口語訳)
マルコによる福音書9章1節―13節(口語訳)
9:1また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
9:2六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、 9:3その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。 9:4すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 9:5ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 9:6そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。 9:7すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。 9:8彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
9:9一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。 9:10彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。 9:11そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。 9:12イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。 9:13しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。マルコ9:7(口語訳)
「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。これと同じ言葉が、マルコによる福音書1章11節にもあります。
すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。マルコ1:11(口語訳)
ここでは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」とあります。
変貌の山の場面では「これはわたしの愛する子である」と言われ、バプテスマの場面では、「あなたはわたしの愛する子」と言われているのです。
変貌の山の場面では周りの人々に対して、そして特に弟子たちに対して宣言しています。しかし、バプテスマの場面では、キリスト自身に対して、父なる神は宣言しているのです。
「これは神の愛されている子」であると。
エレンホワイトは次のように述べています。
「イエスに『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と言われたことばは、全人類を含んでいる(マタイ 3:17 )。神はわれわれの代表者としてのイエスに語られた。どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない」
『各時代の希望』11章
ここの言葉は、キリストだけに向けられた言葉ではなく、すべての人たちを含んでいます。
神は個人的にわたしたちに対して、「あなたはわたしの愛する子」と語りかけておられ、そして公にわたしたちを指して、「これはわたしの愛する子である」と宣言されているのです。
変貌の山で神が「これはわたしの愛する子である」と宣言されたように、再臨のときに神は全宇宙の前で「これはわたしの愛する子である」とわたしたちを指して宣言されます。
この事実は、後にキリストを裏切ってしまったペテロの心を深く捕らえていきました。
ペテロは年老いてから、こう振り返っています。
1:16わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。 1:17イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 1:18わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。 1:19こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。2ペテロ1:16ー19(口語訳)
「あなたはわたしの愛する子」という言葉はペテロにとっては、事実でした。だからこそ、彼は裏切った後、もう一度キリストのもとに戻ることができたのです。
わたしたちにとっては、この言葉は事実でしょうか?