この記事は約2分で読むことができます。
今日の聖句はこちら
マルコによる福音書9章33節―41節(口語訳)
9:33それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。 9:34彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。 9:35そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。 9:36そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。 9:37「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
9:38ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。 9:39イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。 9:40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。 9:41だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
9:33それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。 9:34彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。 マルコ9:33―34(口語訳)
「一番偉いか」は、原語では「相対的に優れているか」という意味があります。このとき、弟子たちは人と比べて、自分がどのポジションにいるのかを争っていました。
そこには弟子たちのプライドがあったのです。
わたしたちも社会において、どこのポジションに自分が位置しているのかが、気になることがあります。もしくは、相手がどこのポジションに位置しているかが、気になることもあるでしょう。
学校や会社においては「評価」という形で、それは明らかになりますが、そこには「評価基準」という定規が確かにあり、それをあてて、測り、人を見ます。
もしかすると、わたしたちも信仰生活において、霊的「評価基準」という定規をあてて、測り、人を見ているのかもしれません。
いやいや、人に対して「あれはだめですよ」「これはダメですよ」ということはないですよー
そんなことを思っている人もいるかもしれません。
しかし、自分に対してその定規をあててはいませんか?
今日、ディボーションをしたから少し上にあがった。
最近はずっと菜食だし、安息日も意識できてる、小グループも始めた。
さらに上にあがる。
もしくは、今日ディボーションできなかった少し下がる。
あー、安息日ちゃんと過ごせなかったな。最近、YouTube見すぎているかもかなり下がる。
そんなことをしていないですか。
わたしたちは信仰生活において、ライフスタイルを基準にどこのポジションにいるのかで自分を評価してしまうときがあります。
ここに落とし穴があるのです。
自分がどれだけ多くの良いことをしたかということを基準にして、クリスチャンであることを公言する人々に対しては、キリストは救いを保証することはおできになりません(マタイ7:21-23参照)
『アドベンチストの信仰』570ページ
ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。 マルコ9:38(口語訳)
弟子たちは、プライドから悪霊を追い出すことをやめさせました。彼らは自分たちの定規でその人を見て、自分たちの基準に達していないので認めなかったのです。
しかし、キリストの基準は異なりました。
9:39イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。 9:40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。 9:41だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。マルコ9:39ー41(口語訳)
この水をくれる人は、「菜食だから」とか「ディボーションを1時間しているから」という基準ではなく、「キリストについている者」だからという理由で水をくれました。
「キリストについている者」は、原語では「キリストに属した」者という意味です。キリストに属しているからという理由が、水をくれた理由なのです。
また、この人が報いを受ける理由はキリストに反対せず、肯定的であったという点であると言われています。
わたしたちが大切にしたいのは、どこに位置しているかではなく、どちらを向いているかです。
自分がキリストに属しているか。キリストと共にいるかどうか。その結果として、もちろんライフスタイルの改善もあります。
しかし、一番大切なのは、どこに位置しているかではなく、キリストと共にいることを喜んでいるかどうかなのです。