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マルコによる福音書11章27節―33節(口語訳)
11:27彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、 11:28「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。 11:29そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。 11:30ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。 11:31すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 11:32しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。 11:33それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
預言者の権威を認めないものは、キリストの権威も認めない
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。ルカ16:31(口語訳)
もしわたしたちが過去の預言者を受け入れないのであれば、復活した人からのメッセ—ジであっても受け入れないのです。
同じように、過去の預言者を受け入れなかったユダヤの指導者たちの多くは、復活したキリストも受け入れませんでした。
聖書の権威を認める
わたしたちは預言者の権威を認める必要があります。そしてまた、わたしたちは聖書の権威を認める必要があるのです。
近年、聖書を神の言葉としてではなく、文学や思想の一つとして見ていく見方が出てきました。
しかし、それではダメなのです。
聖書を歴史批評的に読まなければならないということは、外的証拠が聖書の主張するところを支持していなければ、聖書は信頼できないという意味なのです。そのような批判的研究は、聖書の個々の出来事を不確実なものとする、信頼しようとしない態度に導いていきます。そういう読み方は、信仰の確かさについて疑問を提起する傾向だけを助長していきます。
『聖書を正しく理解する』16頁
聖書は一つのアドバイスでも、文学でも思想でもなく、神の言葉なのです。
全宇宙の王の権威によって、つくられたものなのです。
だからこそ、み言葉には力があり、重みがあります。
わたしたちは聖書の教えを権威あるものとして見ているでしょうか。
それとも、アドバイスの一つとして見ているでしょうか。
もしわたしたちが聖書や預言者のメッセ—ジを単なるアドバイスの一つとして見るのであれば、キリストのこともまた数ある選択肢のうちの一つとしてしか、見ていないということになります。
もちろん、当時の書かれた背景や文脈に気をつけて読む必要はありますが、その根底にあるメッセージは普遍的なものなのです。