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預言者の召命
1:1主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、1:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。……ヨナ1:1,1:2 (口語訳)
「主の言葉が……臨んで言った」という表現は、預言者の召命の場面でよく使われる表現です。ヨナ書は預言者の召命から始まっていきます。
この召命の場面で、預言者に求められることのいくつかを見ることができるでしょう。
主の言葉が臨むまで待つ
一つめは、主の言葉が臨むまで待つことです。自分の思いで、自分の意志を伝えるのが預言者ではありません。神の意志を伝えるものが預言者なのです。
それゆえに、主の言葉が臨むまで忍耐強く待つ必要があります。主の言葉と向き合う必要があるのです。
モーセも使命を自覚してから、主の言葉が臨むまでに多くの年月を必要としました。同じように、わたしたちにも忍耐が求められる場面があるかもしれません。
立って、行き
二つめは、立って行くことです。
イザヤが召命されたとき、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」という声を彼は聞きました(イザヤ6:8)。
預言者の働きは行動にあらわれます。その場に留まるのではなく、出ていくことを必要とするのです。
呼ばわり
三つめは、呼ばわることです。
モーセもイザヤも、またエレミヤも召命されたときに「口」に言及しているのは、とても興味深いです(出エジプト4:10、イザヤ6:7、エレミヤ1:6)。
預言者の働きは、呼ばわること、つまり伝えることなのです。人々につかえ、奉仕し、導くことも大切な働きでしたが、その主たる役割は「伝える」という行為でした。
現代において、わたしたちは広い意味では預言者であると言えるでしょう。わたしたちは神からの言葉を預かる者なのです。今、この三つの果たすべきことはわたしたちに与えられているのです!