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怒ることおそく
主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。ヨナ4:2(口語訳)
「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである」(ヤコブ1:19)と言われているように、「怒ることおそく」あることはクリスチャンが持つべき特性であるとされています。
ヨナが自分の思いどおりにならなかったときに「激しく怒り」、神にその思いをぶつけるのに対して、神は「怒ることおそく」、ヨナに対して具体的に言葉を投げかけられるのは4節と9節、10節、11節のたった4節だけです。
それまでヨナがどんなに神の思いを無視して、神の思いどおりに動かなかったとしても、何も言われていないのです。
ヨナ書全体を通して、神が「怒ることおそい」方であることがはっきりと示されています。そして、神は悔い改めるならば、必ず救われる方なのです。
思いかえされる神
また、ヨナは神が「災を思いかえされる」神であることを知っていました。ときに、わたしたちは自分の行動や判断を覆すことが難しいときがあります。
しかし、神はそうではありません。誇りではなく、柔和で謙遜な神は、自らの判断を覆されることがあるのです。
神の心の中は、ニネベの人々の救いのことだけでした。だからこそ、決断をくつがえされるのです。対照的に、ヨナの心の中には、自分とイスラエルの国の利益しかなかったことでしょう。
自分中心の思いが心を占めるとき、考えは狭まり、頑なになっていくのです。
わたしたちはどうでしょうか? どのような思いが心を占めているでしょうか?