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悔い改めた預言者
4:10主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。 4:11ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。ヨナ4:10-11(口語訳)
「惜しまないでいられようか」という問いかけでヨナ書は終わりますが、ヨナにはこの言葉だけで十分だったのでしょう。彼はこの後、神の権威とその判断の正当性を認めて、悔い改めていったのではないでしょうか。
ニネベを離れたヨナの働きがどうなっていったかはわかりません。ただひとつわかるのは、ヨナは神の愛と裁きの正当性を理解し、悔い改めて、そのメッセージを伝えるためにヨナ書を書き綴ったということです。
その後、ヨナ書は大いなる贖いの日(レビ16章)に読まれるようになりました。興味深いことに、大いなる贖いの日を神の裁きとその正当性が明らかにされる日であると、ダニエルはその預言の中で表現しています。
大いなる贖いの日は救いの計画の最終段階を象徴するものです。神の救いの計画の最終段階では、神の愛とその統治の正当性を認めるヨナの悔い改めが求められているのではないでしょうか。
惜しまないでいられようか
ここに神の愛があふれています。
救いの最終段階で、神は惜しまれているのです。救いの扉を閉じるそのときに、泣かれているのです。
わたしたちは惜しんでいるでしょうか。友人を家族を、大切な人々を。
天国の門の内側に招きたいと願っているでしょうか?
神は惜しんでおられます。わたしたちはどうでしょうか?