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苦しみの2つの考え方
ギリシャのエピクロス(BC341-270頃)は次のように言いました。
自然界は絶対にわれわれのために神が整えてくれたものではない。この世にはあまりにも罪が備わり過ぎている。
Luctretius, De Rerum Natura, with tr. W.H.D.Rouse,2nd ed. In Loed Ckassical Library (Cambridge:Harvard Univ.Press,1982),pp.394-395
この質問についてキリスト教の歴史の中で多くの神学者が答えを導き出そうとし、その中で大きく分けて2つの考えが出てきました。
1. 悪の存在が人間の成長には必要
1つめが「悪の存在が人間の成長には必要である」という考えです。
悪の存在は人間の成長の糧となり、不可欠である。
エイレナイオス(本多峰子「悪と苦難の問題へのイエスの答えーイエスと神義論ー」16ページ)
よく言われる「あの時の試練があるから、今がある」と言ったものです。確かに試練は私たちを成長させていくものであり、必要なものでもあります。しかし、この答えでは質問には完全には答えられません。
成長に不必要に見える苦痛に対する答えにはならないからです。先天的病気、精神障害、迫害、死。これら以外にも多くある圧倒的な苦痛と悲しみの答えにはならないのです。
希望が見えなくても、苦しみは依然として目の前に見えています。その苦しみを耐えるためにわたしたちは淡い希望を抱いたり、さまざまな理由づけをしたりしてきました。
「あと少しでこの苦しみは終わる」。
ホロコーストという史上最大の苦しみの渦中に投げ込まれた、ヴィクトール・フランクルは著書の中でこのように言っています。
何度も何度も失望に終わったために、感じやすい人びとは救いがたい絶望の淵に沈んだ。
ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版 (Japanese Edition) (p.52). Kindle 版.
「あと少し」という励ましはむしろ絶望へと誘う道でしかないのかもしれません。
事実、強制収容所の中で多くの人が命を落とした時は、淡い期待が裏切られた時であるとフランクルは記録しています。では、どのように苦しみと向き合えばよいのでしょうか。この苦しみに何か意味づけをすればよいのでしょうか。
そのような意味づけの最たるものが「この苦しみは将来の糧となる」という考え方でしょう。しかし、この考えはフランクルが経験したホロコーストのような圧倒的な苦しみの前では藁のように吹き飛ぶものです。戦争、虐待、自然災害、パンデミック、その他ありとあらゆる苦しみの理由としては、決して納得いくものではありません。
2. 自由意志が原因である
2つめの考えは「自由意志」という考え方です。
神は人間に自由意志を与えたが、人間はその自由意志を濫用して、堕罪を犯し、それゆえに今の悪がある。
アウグスティヌス(本多峰子「悪と苦難の問題へのイエスの答えーイエスと神義論ー」12ページ)
「神は愛である」(1ヨハネ4:16)と聖書は、はっきりと告げています。「愛」である以上、そこには「自由」がなければなりません。愛を強制することはできないからです。
もし、強制するのであればそれは愛ではなくなりますし、自由がないのにそれは愛と言えるでしょうか。
プログラミングされたロボットと人間との間に愛はあるのでしょうか。
それゆえに「道徳的に善をなせる被造物を造るためには、神は悪もなせる被造物を造らざるを得ない」という結論に私たちは行きつきます。
つまり、神さまは愛のある関係を人間と育むためには、悪を行う可能性を許す自由を与える必要があったということです。ここで確認しておきたいことは、「悪を行う可能性」が必要であり、「悪」は愛のある関係を育むためには必要ないということです。
神は、人間のような被造物が自分や他人との愛の関係を楽しむことを望んでおり、それには悪の可能性は必要だが、悪は必要ではない。
Peckham, J. C. (2018). Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (p. 12). Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group.
聖書では世界は完全な状態で創造されたと記録しています。しかし、人間がその与えられた自由を誤った用い方をしたので、悪が満ちていったのです。
ただ、この考えにも限界があります。
自由意志がなければ愛が成立しないのはわかりました。
そして、聖書が言う通り、最初の世界は完全な状態であったけれども、人間が自由意志を間違った使い方をしたために悪が満ちていったとしましょう。
それでも、今のこの世界にある悪や苦しみは人間の責任を超えるほどのものではないのですか?
結局のところ、この考え方でも1つ目の質問に対する疑問と同じ疑問が出てくるのです。
たとえば、「自分の不摂生で病気になりました」と言う話であれば、この自由意志の話はある程度納得することができます。もしくは、あとから思い返して「あの時の試練は自分にとって成長の糧となった」と思えるなら、先ほどの「成長の糧」の話も納得でしょう。
しかし、そうではない苦しみ、悩み、悲しみにはどのような答えがあるのでしょうか。
この質問に答えるためには、大争闘という世界観を学ぶ必要があります。
大争闘の世界観
さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。
ヨハネの黙示録12章7節
ここではミカエルと龍が戦ったと出てきます。龍はその後を見てみるとサタンのことを指していることがわかります。神の勢力とサタン、悪魔の勢力が戦っている、これが大争闘です。ただこれは力と力の戦いではありません。善と悪の両方が最初からあるという単純な話でもありません。
これは神とサタンとの間の論争なのです。
この論争の争点こそまさに、「神の品性」についてです。「神は愛なのか、正義なのか」。
言い換えれば、「なぜこの世界に苦しみはあるのか」「神の統治は正当なのか」ということについてなのです。
この大争闘は聖書全体を貫くテーマであり、言い換えれば今、私たちが学んでいるテーマこそ、聖書のテーマであるとも言えます。
さて、この大争闘の枠組みから次のことを言うことができます。
それは「神は全てを思い通りには動かせない」ということです。
あれ? 聖書には「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)と書いてあるじゃないですか。どういうことですか?という疑問が出てきたのではないでしょうか?
例をあげてみてみましょう。
テモテへの第一の手紙2章4節では「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」とあります。しかし同時に、他の箇所では救われない人もいると教えています(ヨハネ3:18、ヘブ10:36、第一ヨハネ2:17)。
つまり、「神の思い」は「すべての人を救いたい」という思いですが、「現実」は「救うことができない」ということです。
しかし、聖書は「神に不可能はない」と言っています。
- すべてを救いたいと思っている
- 現実には救えない
- 神に不可能はない
この3つが真実であり、成立しているとすれば、考えられる理由は一つです。「愛」ゆえに与えられている「自由意志」です。
つまり、全能の神は無理やり救うことができますが、もしそれをしたならば、神は愛ではなくなるのです。その結果、大争闘つまり、神とサタンとの間の論争の中において、神の品性の証明をすることができなくなってしまうのです。
ここに神の忍耐と苦しみを見ることができます。
ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
ペテロの第二の手紙3章9節
神が悪を妨げない理由
1. 被造物の自由意志を侵害するため
神が悪を妨げない理由として考えられる1つめは、「被造物の自由意志を侵害するため」です。
神が被造物に結果的な自由を与える限り、神自身の自由はそれによって制限される。もし神が約束をし、それを必ず守るのであれば、神の行為は、神が交わしたどんな約束や契約によっても道徳的に制限されることになる1。
Peckham, J. C. (2018). Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (pp. 43–44). Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group.
つまり、「神は愛ゆえにご自分の力の行使や活動の範囲を制限される」のです。
参考文献はこちらをタップ
主は彼のすべての約束に忠実であられる(詩編145:13)……ここでのポイントは、能力と信頼との間に緊張があるということです。……ここに私たちは、神の自己限定という重要な思想を見ます。神はある仕方で行動することを自由に選び、実際にそうすることで、神的な行動に限定を設けられるという考えです。気ままに、あるいは気まぐれに行動すると言って神を非難することはできません。神とは、信頼できる仕方で誠実に行動される方なのです。……
神の自己限定というこの思想の最も劇的な表現は、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』の中に見出せるでしょう。……
『神はご自身をこの世から十字架へと追いやるのである。神はこの世にあっては弱く、無力である。そしてそれこそ、まさしく神がわたしたちと共におられ、私たちを助ける方法なのであり、唯一の道である』
アリスター・マクグラス(芳賀力・訳)『神学のよろこび』キリスト新聞社、94ー95ページ
2. それがより大きい悪に至るため、もしくは愛の繁栄を妨げるから
神が悪を妨げない理由、2つめは「それがより大きい悪に至るため、もしくは愛の繁栄を妨げるから」です。
これらの悪はすべて、それらがなければ達成できなかった特定のより大きな善を実際にもたらしていると示唆することである。
Peckham, J. C. (2018). Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (p. 16). Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group.
これは最初に学んだよく言われる「あの時の試練があるから、今がある」に近い考え方ですね。
3. 交戦規定を破ることになるから
そして最後、3番めが「交戦規定を破ることになるから」です。
この最後の考え方を学ぶためにはまず「大争闘」の価値観を押さえていく必要があります。
最初、サタンはルシファーという天使であったと聖書は言っています。
あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。
エゼキエル章28章15節
ルシファーは完全な状態で創造されましたが、神に与えられた自由意志を誤った用い方をし、神の品性を攻撃していき、そして人類に罪へと誘っていったのです。
神のご品性をまちがって伝えることによって、神を苛酷で圧政的なお方であると思わせ、人類を罪にさそった。
エレン・ホワイト『各時代の大争闘』29章
先ほども学んだように、この大争闘の争点は「神の品性と統治の正当性」についてです。この嫌疑の性質上、力による解決はできないのです。
たとえば、ある国でジャーナリストが国の不正をスクープしたとします。その後、すぐに国によってそのジャーナリストが消されたとしたらどうでしょうか。人々の心の中には、そのスクープが真実だったのではないかという疑念が生まれ、消えないのではないでしょうか。
つまり、すぐにサタンを消し去ったとしてもこの大争闘の問題は解決しないということです。
この問題を解決するためには、証拠をもとに被造物全体の合意を得るステップが必要です。
わかりやすくいえば法廷裁判のステップが必要なのです。
この法廷裁判の場面がゼカリヤ3章に出てきます。
「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのを私に示された」ゼカリヤ3:1
ここでも、サタンが訴えるものとして出てきています。このサタンの訴えに対して反論していくのが大争闘なのです。
そして、その際に起こるのが「交戦規定」です。
「交戦規定」とは実際の戦争においてもある規定です。戦いをする際に一定の規定を設けるのです。
ヨブ記のあらすじ
1つの例を見てみましょう。
「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来て、その中にいた」(ヨブ1:1)
ヨブ記では神とサタンとの間で取り決めがされている場面が出てきますが、その取り決めには「神の子たち」つまり「他の被造物」もそこにいるのです。
他の被造物もいるところで、サタンは次のように言います。
ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。……今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう。
ヨブ記1章9,11節
ここでもサタンは、人と神を非難し、攻撃しています。このサタンの主張に対して神は反論をする必要がありました。つまり、神が物を与えているからヨブが神を愛しているという主張を退ける必要があったのです。
そこで次のように神は言います。
見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。
ヨブ記1章12節
ここで神はサタンとの間に一定の規定を設けられています。サタンの主張を退け、ヨブの品性と神の品性を擁護するために、一定の規定を設けた上でサタンの活動を許されるのです。
神はすべての悪を防ぐのに十分な力を保持しているが、神が交戦規定を守るために(道徳的に)防ぐことができない悪もある。
Peckham, J. C. (2018). Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (pp. 118). Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group.
ここまでのまとめ
ここまでをまとめると次のようになります。
神が悪を妨げない理由として考えられる理由は、
- 被造物の自由意志を侵害するため
- それがより大きい悪に至るため、もしくは愛の繁栄を妨げるから
- 交戦規定を破ることになるから
では、この大争闘は最後にはどのような結末を迎えるのでしょうか。
全体の流れを見て、終わりたいと思います。
十字架から調査審判までの流れ
この大争闘には二つのフェーズがあります。
1つは十字架です。
今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12章10節
黙示録には「訴える者」であるサタンの敗北が記録されています。これはキリストの十字架の時に起こりました。
「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」ヨハネ12:31
もし宇宙規模の論争が神の品性に関する裁判のステップを含んでいるなら、神の力の行使によって早急に解決することはできず、敵の中傷的な主張を打ち砕くために、まず神の正義と品性を公に示すことが必要です。この証明は、キリストにおいて究極的かつ決定的に示されたのです。
Peckham, J. C. (2018). Theodicy of Love: Cosmic Conflict and the Problem of Evil (p. 120). Grand Rapids, MI: Baker Academic: A Division of Baker Publishing Group.
十字架によって神の愛と義は証明されていったのです。では、なぜこの大争闘の戦いはまだ終わりを告げていないのでしょうか。
黙示録12章では、サタンが十字架によって完全に敗北し、落とされていった後、サタンがどのように動いているかを記録しています。
地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである。
ヨハネの黙示録12章12節
ここではサタンの攻撃対象が特に神を信じる者たちに向けられていくことが書かれています。このサタンの攻撃に対する反論が、神によってなされていきます。
まさにこの場面が描かれているのが、先ほども開いたゼカリヤ3章です。
時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのを私に示された。
ゼカリヤ書3章1節
ここでも、サタンが訴えるものとして出てきています。ヨブのケースも同様にサタンの訴えから事は起こりました。サタンは神を信じる者たちを訴え、救いにふさわしくないと主張します。
このサタンの訴えに対して、神は次のように答えられていきます。
「サタンよ、主はあなたを責めるのだ」。……またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた」
ゼカリヤ書3章4節
サタンの訴えを退けていくために、「罪を取り除く」ということをされていくのです。
大争闘の最後のフェーズ、サタンが神を信じる者たちを訴え、救いにふさわしくないと主張し、そのサタンの主張を退けるために罪を取り除き、神と神を信じる者たちの品性を擁護していくことを調査審判と呼んでいます。
この審判は救いを決定するものではなく、むしろその神の決定を擁護するものなのです。
この大争闘の中で私たちは簡単に試練や苦しみの理由を見つけることはできません。しかし、キリストが十字架で死なれた事実を見るときに、神がこの問題の解決のために最善を尽くしておられることを信じることができます。
そして、神ご自身もまたわたしたちと同じように苦しんでおられるのです。
耐え忍び方
近年、耐え忍ぶ力(ネガティブ・ケイパビリティ)が注目されてきています。
ネガティブ・ケイパビリティ(negativecapability負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。
帚木 蓬生. ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.78-81). Kindle 版.
あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。
わたしたちの社会は、どうにか物事を解決しようとし、また物事を解決する力を持っている人が優れているとされています。
しかし、現実は解決できる問題のほうが少なく、どうしようもない状態がそのままあることが多くあります。
ネガティブ・ケイパビリティは、性急な解決ではなく、宙ぶらりんのどうしようもない状態を耐えぬく力です。
作家であり、精神科医の帚木蓬生はその著書の中で、ネガティブ・ケイパビリティについて講義をした後、受講生からもらったある手紙を紹介しています。
今の時代は、「こうすれば、苦労なしで、簡単に、お手軽に解決しますよー」のほうが受けるのです。でも、お手軽な解決ばかり求めてしまうと、何かが欠落していきますし、結局は行き詰まってしまいます。
なぜならば、「世の中には、すぐには解決できない問題のほうが多い」からです。……解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。
消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。
人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。
「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います。
耐えていけば、落ち着くとこに落ち着いて、いつかは解決していく。
そのことを信じて耐え続けていくしか、わたしたちにはできないのでしょうか?
聖書は「耐え方」もわたしたちに教えてくれています。
ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある。
ヨハネの黙示録14章12節
キリストを信じる信仰が「忍耐」の鍵なのです。
マタイによる福音書24章で、キリストが弟子たちに「世の終わりはどうなるのですか?」と質問されたとき、キリストは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。
ただ、ここで話は終わりませんでした。このキリストの話の最後は次のような言葉で終わっています。
イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。
マタイによる福音書26章1節―2節
キリストの十字架は、キリストがこの問題の解決のために最善を尽くしておられることの証拠です。そして、キリストの十字架によって、わたしたちは神と和解し、神と共にいることができるようになりました。
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
ローマ人への手紙5章10節
「救い」とは「神と人が共にいること」です。神が共にいることによって、わたしたちが慰められることを聖書は約束しています。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録21章3ー4節
キリストはふたたびこの世界に戻ってきて、わたしたちを救うことを約束されているのです。このキリストとキリストの十字架を信じる信仰によって、わたしたちは耐えることができるのです。
苦しみが限界に達したとき、キリストは天を飛び出します。
「もう十分、もう苦しみも悲しみも痛みも十分だ」。
そういって、人の目から涙をぬぐいとってくださるのです。しかし、それは同時にキリストが最も激しく泣くときでもあります。
悪の原因を消さなければ、この世界から悲しみはなくなりません。それは、かつての親友であったサタンを滅ぼし、そのサタンを選んだ人々を、愛しているにもかかわらず、滅ぼさなければならないことを意味しているのです。
キリストはわたしたちの罪を背負い、十字架で死なれました。それはどんなにわたしたちが神を必要としていなくても、わたしたちを愛しておられるからです。アダムがキリストの手を振り払ったとしても、手を差し伸べ続けたように、今もなおわたしたちに手を差し伸べておられます。だからこそ、この苦しみの世界に終止符を打つ決断は重いのです。
愛ゆえに苦しみは存在し、愛ゆえに神は苦しむといえるでしょう。
なぜ、わたしたちの人生に苦しみがあるのか。その理由を完全に理解することはできません。しかし、キリストが人類の罪を負ったということは、神がわたしたちを愛し、悪の問題を解決するために最善を尽くしている何よりの証拠になるのです。
ホロコーストという最大の暗闇を生き延びたフランクルは次のように言っています。
思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版 (Japanese Edition) (p.57). Kindle 版.
希望が見えない暗闇の中にあっても、人は愛によって満たされるのです。愛こそが、わたしたちが今の苦しみを耐える希望となります。
神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3章16節
わたしたちはこの神の愛によって、満たされるのです。聖書はその愛を伝えているのです。
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