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「高い基準の設定」や「目標を掲げてチャレンジ」では抵抗できない
「やめたいけどやめれないアレ」ありませんか?
やめたいけど、どうしてもやめられない。そんな状況におぼれたことが、だれしも一回はあるかもしれません。
自己啓発本のみならず、教会内でもしくはクリスチャンの書籍などでも、悪習慣や誘惑に対抗するために、「高い基準の設定」や「小さな目標を掲げてチャレンジ」しましょうとすすめられています。これは王道の手段なのかもしれません。
たとえば、スマホの利用時間を決めてみるとか、それがダメならスマホを机の下にしまい込んでみましょうとかです。
でも、もしかしたら、それができたら苦労しない、できなくて苦しい、これでいいのかなという思いの人もいるかもしれません。
この方法では、限界を感じてしまう人も少なくはないのではないでしょうか?

そこまで、依存しておらず、その人の中で大きな問題となっていないのであれば、これで変われるかもしれません。効果がないわけではないのです。
しかし、自分の意志の力で行動を律して、すべての誘惑と依存から打ち勝つことに難しさを感じるのも事実なのです。サタンの攻撃から身を守るものとしては、あまりにも弱いという現実が目の前にあります。
「高い基準の設定」や「目標を掲げてチャレンジ」をする副作用
さて、実はこの方法にはある副作用があります。それが「基準や目標の穴をつくろうとしていく」です。
たとえば、聖書の中に登場するパリサイびとたちは自分たちの都合に合わせて、その基準を解釈していきました(マルコ7:6―13)。
わたしのところによく来る質問があります。それが、「どこまでならいいんですか」という質問です。
わたしたちは意識的にせよ、無意識にせよ、ルールの穴を求めて探していくクセがあります。しかし、そんなわたしたちに、聖書は高い基準を示しています。
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。ヨハネ14:15(口語訳)
これは、原語のギリシャ語を見てみると、「守るべきである」は過去形で書かれて、これは確実になる未来を示す。
つまり、ここは「もし、イエスさまを愛するならば、イエスさまの戒めを守るように必ずなる」という意味なのです。
「どこにいるか」ではなく、「どこを見るか」。
わたしたちはしばしば、信仰生活において自分が「どこに位置しているのか」を気にしてしまいます。
今日、ディボーションをできなかった1つ上がる。今日、ネットフリックスでドラマワンクール見ちゃった1つ下がる。そんなことをしてしまっていませんか?
でも、わたしたちはどこまで行っても罪びとです。だからこそ、「どこに位置しているのか」ではなく、「どこを向いているのか」ということをまず考えていきましょう。
人間は、意志の力によって、自分を変えることはできない。人間には、この変化を起こさせる力がない。パン種―全く外部からのもの―が、粉の中に入れられない限り、希望する変化が起こらないのである。……神の恵みが、人の生活を変化させるのは、心を新たにすることによってである。単なる外的変化だけでは、わたしたちを神と調和させるのに不十分である。人々は、種々の悪習慣を改め、心を入れかえて、クリスチャンになろうと望むのであるが、それでは、出発点が誤っているのである。まず始めるべきところは、心なのである。
ただ、それは罪の中にいてもいいということではありません。伝えたいことは、視点を変える必要があるということです。
1. 罪を憎む心を与えてください
まず、新しい心を与えてくださいと祈るところから、すべては始まります
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。……その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから憎む。エゼキエル36:26,31(口語訳)
新しい心が与えられたならば、罪や悪習慣を憎むようになると聖書は約束しているのです。
悪習慣から抜け出す第一歩は「罪を憎む心を与えてくださいという祈り」です。
依存症の克服をサポートする有名なグループが依存問題克服のためのいくつかのステップを提唱していおり、興味深いものが厚生労働省のホームページで紹介されていました。

見てのとおり、明らかに聖書の価値観が入っているステップですが、この日本においても、多くの依存症をサポートするグループがこれをそのまま受け入れているのです。
その中で、11番の「祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた」というに注目してみてください。
祈りと聖書の学びが、悪習慣や依存症から回復の助けになりうるのです。

でも、どういう理屈でそうなるの?
本読んだだけで、解決するなら苦労しない!
2. 聖書の学びを通してキリストに出会う
そもそも、悪習慣や依存の原因はなんでしょうか?
原因1 ストレス
これをしたらストレスや苦痛が少し和らぐと、わたしたちが学んだら、それがやめれないモノになっていくと言われています。
だとすれば、効果的にストレスを解消することも大切ですね!
興味深いことに、読書はストレス発散に効果があるとされています。ある研究では静かなところでたった30分でも読書をしたら、ストレスが68%以上解消されることが明らかになっているのです[1]。
また、本を読むスピードも「ゆっくり一字一句読んでいく」ように読むのが推奨されています。ただ単にゆっくり読むのではなく、その文章を味わうように読むと効果的なのです。
原因2 さびしさ、満たされない気持ち[2]
ネットであったり、ポルノ、またゲームなどに依存していくその根底には、「さびしさ」や「満たされない思い」があると言われています。
そのために、ただ「やめる」だけでなく、「他のもので満たしていく」ことが大切なのです。
イエスさまは悪習慣や悪循環に苦しみ女性に対して、次のように声をかけられました。
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。ヨハネ4:13,14(口語訳)
コップの中の水を飲んでも、時間が経てば、また乾きます。わたしたちのハマっているもので、完全に満たされることはないのです。
しかし、イエスさまが与えてくれる「永遠の命に至る水」は、わたしたちを本当に満たしてくれます。
この水について、パウロは次のように言っています。
3:15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 3:17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。2テモテ3:15-17(口語訳)
「救いに至る(永遠の命に至る)知恵を与える書物」である聖書によって、わたしたちは完全にととのえられたものになると約束されています。
聖書を通して、イエスさまと交わっていくときに、私たちは本当の意味で満たされていくのです。
悪習慣から抜け出す第二歩は「満たされるまでイエスさまとの時間を持つ」です。
青年の皆さん。刺激的な読書の影響について自分の経験を考えてみてください。みなさんは、そうした読み物を読んだ後で、聖書を開いて、生命のみ言葉を興味を持って読むことができますか。神の本は面白くないものだと思いはしませんか。……熱心に何度も聖書を研究すればするほど、それはますます美しいものに思われ、軽い読み物に対する興味がだんだん減ってきます。
上記の言葉を記したエレン・ホワイトは、特にポルノなどをイメージしてこのメッセージを書き残しました。
しかし、この言葉はポルノだけでなく、エンターテインメントやライフスタイルのすべてにつながっている言葉です。
わたしたちがYouTubeやネットフリックス、マンガ、アニメに触れていけばいくほど、わたしたちは聖書への興味を失っていくのです。
逆に聖書に触れれば触れるほど、そういったものへの興味も失われていきます。だからこそ、もしその悪習慣をやめたいならば、「やめる努力」から、「満たされるまでイエスさまとの時間を過ごす努力」をしていく必要があるのです。
3. 奉仕する
また、依存の原因となってる「さびしさ」や「満たされない気持ち」の解決として、「人との繋がり」をしっかりとしていくというのもあります。
この「人との繋がり」をつくっていくのに重要なこととして、「関わりを通して他人を喜ばせること」、「人のために何かをすること」が挙げられます
依存や悪習慣の本質は「自分を満たすこと」です。そこから「他者を満たすこと」に視点を向けてみましょう。
「悪に抵抗する力は、活動的な奉仕によって最も多く得られる」患難から栄光 11章
悪習慣から抜け出す第三歩は「奉仕と献身をする」ことです。


わたしたちの一番大きな悪習慣は、ゲームでも、YouTubeでも、マンガでも、アニメでも、人に依存したり、お酒やタバコに依存したり、ポルノだったり、噂話や不平・不満をもらすことでもありません。
「イエスさまとの時間をおろそかにすること」なのです。
パウロはこの問題を次のようにはっきりと言っています。
2:21人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。……3:18わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。3:19彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。ピリピ2:21、3:18,19(口語訳)
これがわたしたちの罪なのです。
まとめ
もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。ヨハネ14:15(口語訳)
これは命令ではなく、約束です。
わたしたちの中にあるキリストの方に行きたい、愛したいという小さな思いを、キリストは決して見捨てられることはありません。
1:6そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。……2:13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。ピリピ1:6、2:13(口語訳)
だからこそ、「どこに位置しているのか」ではなく、「どこを向いているのか」が大切なのです。
すぐには、変われないこともあるでしょう。歩き出してはつまずき、後退りし、また歩き出すということを繰り返すこともあるでしょう。
イエスさまに対する思いが増していく時もあれば、失われる時もあるでしょう。
人はみなどんな力によって支配されようと自由である。キリストのうちに救いをみいだすことができないほどどん底まで堕落した者はなく、またそれほど悪い人間はいない。悪鬼につかれたあの男は、祈りの代りに、サタンのことばしかしゃべることができなかった。それでも彼の心の中にある無言の訴えはきかれた。困っている魂の叫びはたとえそれが言葉にならなくても、決して見過ごされることはない。天の神との契約関係に入ることに同意する者は、サタンの力や自分自身の弱い性質のままに打ち捨てられることはない。
ここで出てくる悪霊に憑かれた男はまさに悪習慣にハマり続けた男でした。しかし、その男の中にある小さな思いをキリストは見捨てられませんでした。
わたしたちがわたしたちの中にあるキリストの方に行きたいという小さな思いを大切にして、「わたしはイエスさまの方に行きたいです。助けてください」と祈り続けていくならば、キリスト・イエスの日までに、わたしたちのうちに始まった良いわざが完成されていくのです。
問題はわたしたちがイエスさまを愛しているか、いや、愛したいと思っているかどうかなのです!