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王妃の服を着て
三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。エステル記5:1(口語訳)
ここでエステルは「王妃の服を着」と書かれています。ここからも、エステルと侍女たちの断食がモルデカイと同じように、荒布をまとって行われたことがわかります(エステル4:16)。
こうして、霊的な備えをしたエステルは荒布から王妃の服へと着替え、王の前に出ていくのでした。
王の前に出る
2節でエステルは「王妃」と呼ばれていますが、王の怒りひとつで前王妃ワシュティ(ワシテ)は廃妃となっていることからも、エステルの地位が、あまりにも脆いものであることがわかります。加えて、暗殺未遂事件も起こったことから王の身辺警護は非常に緊迫したものであったことでしょう(エステル2:21)。
エステル記外典には、エステルが恐怖のあまり、王の前に出たときに倒れてしまう場面が描かれていますが、エステルの行動を見ると実際にそのようなことが起こっていたとしてもおかしくない状況であったことがわかります。
友と呼ばれる王
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。ヨハネ15:15(口語訳)
ペルシャの王は自らの命を守るために、あらゆるものに刃を向け、近づかせないようにしていました。しかし、キリストはむしろ、人々から刃を向けられることを受け入れ、自ら近づかれていったのです。
自分を守ろうとする人は他者に刃を向けますが、人を愛そうとする人は他者から刃を向けられることを恐れません。
たとえば、自己中心な思いに駆られ、人に当たったり、当たられたりすることがあるかもしれません。でも、本当に愛している人から当たられたとしても、わたしたちはその1回の出来事だけで、その人を嫌いになることはありません。
しかし、その人との関係がなかったり、あるいは壊れたりしているならば、それは非常に強い不快感を伴う出来事になるのではないでしょうか。
わたしたちの刃は簡単には折れません。自己中心的な思いは簡単には消えないのです。しかし、愛のある関係はたとえ刃をお互いに突き立ててしまったとしても、もう一度、関係を回復することを恐れないのです。
神さまがそのような愛をわたしたちに与えてくださいますように。