王の門にいて【エステル記5章9節】

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身動きもしない

こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。エステル5:9(口語訳)

モルデカイが王の門にいたことから、すでに荒布を脱いだということがわかります(エステル4:2)。彼は、王がエステルに好意を示したことを知っていたか、もしくは彼女の計画が必ず成功することを信じていたのです。

そして、ここでモルデカイは「礼拝」のみならず、「ハマン自身」をも拒絶したことが原語からわかります。モルデカイは確信を持って、頑固と拒絶していくのです。

確信を持って行動する

モルデカイは3日間、エステルと共に断食をした後、計画が必ず成功する確信を持って、王の門へと戻っていきます。

この計画が成功するという保証はどこにもありませんでしたし、自分自身の力はまったく及ばない問題でした。

「王の門へと戻る」ということは、「日常生活に戻る」ということです。モルデカイは3日間の断食祈祷の後、まだ決定的な報告が何もないにも関わらず、日常生活に戻っていったのです。

思い悩むな

「思い悩むな」ということばは、平穏な日々においてだけでなく、どうしていいかわからない、混乱の日々にも、役に立つものでなければならない。そうでなければ、そもそも役立つことなどあり得ない。……あなたの「見解」や「想像」は脇に置き、全能者の陰に宿ることだ(詩篇91・1参照)。自分に関わることで思い悩むことはしません、と心に決めて神に伝えよ。私たちが焦ったり、心配したりするのは、すべて、神を抜きにして考え、計画した結果なのである。

オズワルド・チェンバース『限りなき主の栄光を求めて』いのちのことば社、221ー222ページ

日々のわずらいから、自分の思いや考え、想像を脇に置いて、神に頼ることをモルデカイはしていたのでしょう。だからこそ、危機においても、日常生活に戻っていけたのです。わたしたちはどうでしょうか? 重大な危機ではなく、日々の細々とした心配事のレベルから神に委ねているでしょうか? それらを脇に置いて、日常生活を送れているでしょうか?

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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