第6課 地に平和があるように

目次

平和が欠如した世界

「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように……」(ルカによる福音書2章14節)。クリスマスの時期になると、この言葉が繰り返されますが、現実にはこの地上に平和はほとんど見当たりません。

世界のいたるところで激しい武力衝突や紛争が起こり、わたしたちの社会は決して安全ではなく、多くの家庭や個人の人生においても悲しくなるほどに平和がありません。ストレスや病気、依存症、うつ病など多くの要因が重なってわたしたちから平安を奪っていきます。

聖書はキリストを「平和の君」(イザヤ書9章6節)と呼んでいますが、わたしたちの生きている世界は驚くほど平和が欠如した世界であるように見えます。わたしたちの人生に、本当に真の平安を回復することがキリストはできるのでしょうか。

平安を持って生きる人々

世界中が多くの課題を抱えるなかで、どのようにして本当の平安を持つことができるでしょうか?

あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、……

詩篇119篇165節

神の律法(聖書の教え)を愛する人には、平安が約束されています。

世界の終わりの時代に救われるのはどのような人々であると聖書は言っていますか?

ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

ヨハネの黙示録14章12節

キリストが再臨されるときに生きてキリストに会うための準備をしている人々は「神の戒めを守っている」と聖書は述べる一方で、「よこしまな者には平安がない」(イザヤ書57章21節)と述べています。

神の戒めとは

十戒とは何でしょうか?

出エジプト記20章2―17節

  1. 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20章3節)。
  2. 「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。……それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジプト20章4―5節)。
  3. 「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)。
  4. 「安息日を覚えてこれを聖とせよ。……七日目はあなたの神、主の安息である……」(出エジプト20章8―10節)。
  5. 「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20章12節)。
  6. 「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20章13節)。
  7. 「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)。
  8. 「あなたは盗んではならない」(出エジプト記20章15節)。
  9. 「あなたは……偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)。
  10. 「あなたは……むさぼってはならない」(出エジプト記20章17節)。
十戒は、神がシナイ山で石の板に書かれる前に存在していましたか?

アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

創世記26章5節

アブラハムは、神がシナイ山で十戒を石の板に刻まれるよりずっと前の時代に生きていました。

カインがアベルを殺したときには、6番目の戒めを破ったために、「罪が門口に待ち伏せている」(創世記4章7節)と神はカインに言われました。これらのことから、十戒は神がシナイ山で石の板に書かれるより前に存在していたことがわかります。 

罪とは

聖書は罪をどのように定義していますか?

罪は不法である。

ヨハネの第一の手紙3章4節

今日、世界に罪が存在しているという事実は、神の律法が存在し、今なお効力を持ち続けている証拠です。もし神の律法がなかったならば、罪というものは存在しなかったであろうと聖書は述べています(ローマ人への手紙4章15節)。

十戒の目的

十戒について

  • 神は十戒をご自身の指で書かれた(出エジプト記31章18節)。
  • 十戒は契約の箱に収められた。その契約の箱が象徴するものは天にある。それは十戒が天にあることを示している(ヨハネの黙示録11章19節)。
  • 聖書は神の律法が完全であると宣言している(詩篇19篇7節)。
  • 十戒は罪が何であるかをわたしたちに示している(ローマ人への手紙3章20節)。
  • 十戒は永遠のものである(詩篇111篇7―8節)。
  • 十戒は大きく神に対する愛(1―4条)と隣人に対する愛(5―10条)の二つに要約できる。キリストはこれをマタイによる福音書22章37―40節で教えられた。
  • モーセの律法または礼典律は決して十戒の一部ではない。「規定からなっている戒めの律法」(エペソ人への手紙2章15節)は、キリストが十字架で死なれたときに廃止された。

    神殿の幕が二つに裂けたのは(マルコによる福音書15章38節)、犠牲と供え物による神殿での奉仕が完全に廃止されたことをはっきりと示している。

    しかしながら、十戒は永遠にその効力を持ち続ける(詩篇111篇7―8節、詩篇119篇89節、ローマ人への手紙3章31節)。
  • 十戒は新しい契約の一部である(ヘブル人への手紙8章10節―10章16節)。
新約聖書は、十戒についてなんと言っていますか?

このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

ローマ人への手紙7章12節

新約聖書の著者たちは、十戒が時代を超えたものであることを理解していました。十戒は本質的に、神の品性を文字で表現したものなのです。

それはちょうど、国の法律がそれを制定した人々の性質を反映しているのと同じです。十戒は、神の国の性質と神の品性を反映しているのです。

十戒は、神を信じる人々に重荷として与えられたものですか?

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない

ヨハネの第一の手紙5章3節 

神は十戒を、神の民(クリスチャン)への祝福として与えられました。

ヤコブは、十戒は「自由の律法」である(ヤコブの手紙1章25節)と述べています。神の律法に従って生きる人は誰でも、罪悪感、恥、罪とその報いからの自由を味わうことができるのです。

十戒は信じる者をどのように導くのでしょうか?

それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

ローマ人への手紙7章7節

神の律法は罪を明らかに示し、罪から離れてキリストに向かうように導きます。

十戒は永遠のもの

十戒はこれまでに廃止されたことがありますか?

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

ローマ人への手紙3章31節

使徒パウロは、神の律法がただの一度も変更されたことがあるとは言いませんでした。それどころか、神の律法は不変で永遠のものであると断言しています。

キリストは、いつか十戒が廃止されるだろうと言われたことがありますか?

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

マタイによる福音書5章17―18節

キリストは、決して十戒を破棄しようとはしませんでした。キリストは地上にいたとき、「わたしは父の戒めを守った」(ヨハネによる福音書15章10節)と宣言され、人々に十戒を守るようにすすめました。

「もし命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」(マタイによる福音書19章17節)という資産家の青年に対して発せられたキリストの言葉は、このことをはっきりと物語っています。

律法は現在も有効ですか?

聖書に登場する律法は主に、十戒と礼典律(儀式に関する律法)の二つです。これらのうち、どちらが現在でも有効でしょうか。

十戒

十戒を守るようにとの神の命令は現在も変わっていません。十戒の「殺してはならない」や「盗んではならない」は不変の原則です。

ヤコブは、ヤコブの手紙2章11節で十戒から引用し、パウロもローマ人への手紙7章7節で同じように十戒を引用しています。

またキリストは、資産家の青年と話したときや(ルカによる福音書18章18―20節)、弟子たちに話されたときに(マタイによる福音書24章20節)十戒を引用しています。

また、ヨハネの黙示録14章12節、22章14節には、神の残りの民(最後の時代の神に忠実な人々)は神の律法を守る者と表現されています。

礼典律(儀式に関する律法)

礼典律は十戒とはまったく異なったものです。礼典律は救いの計画を明確にするために、神によって与えられたものです。

さまざまな犠牲や祭りはあらゆる時代を通して、神がどのようにして罪びとを救われるのかを理解するのに役立ちました。

たとえば、「世の罪を取り除く神の小羊」とヨハネによる福音書1章29節にあるように、犠牲の小羊はキリストを象徴しており、過ぎ越しの祭りのときに家の柱と戸口に塗られた小羊の血は、キリストの救いの血を象徴していました(出エジプト記12章13節、ローマ人への手紙3章25節)。

キリストが死んだとき、何が起きましたか。

キリストが十字架の上で死んだとき、もはや礼典律を守る必要はなくなりました。真の小羊であるキリストの死は、さらなる動物の犠牲を無意味なものとしたのです。動物の犠牲は神の小羊であるキリストを象徴しており、救い主が世界のために死なれたならば、これ以上キリストを指し示す必要はありませんでした。

キリストが十字架上で死なれたとき、「イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂け」ました(マルコによる福音書15章37―38節)。神は、神殿の儀式が人々にとって義務ではなくなったことを公に示されたのです。

過越の祭りとその他の祭り

過越の祭りはもはや必要ありません。というのも、「わたしたちの過越の小羊であられるキリストは、すでにほふられた」からです(コリント人への第一の手紙5章7節)。

神の民は犠牲をささげることも、儀式としての祭りを行う必要もないのです。

十字架につけられたとは?

パウロは、コロサイ人への手紙2章14―17節で次のように書いています。

「神はわたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。だから、あなた方は、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」。

パウロが「規定もろともぬり消した」と書いていることに注目してください。この規定とは「わたしたちを責め」、「不利におとしいれ」るものです。

誰にも批評されてはならない。

パウロはコロサイの人々に、「きたるべきものの影」である「食物や飲み物」あるいは「祭や新月や安息日」に関して、誰にも批評されてはならないと熱心にすすめています。肉と飲み物の供え物は祭りと関連してささげられましたが、「影」は礼典律に関連したものを示す、と明確にヘブル人への手紙で述べています(ヘブル人への手紙8章5節)。

十戒と礼典律とのいくつかの違いに注目してください。

       十戒      礼典律
神によって書かれた(申命記10章2節)モーセによって書かれた(申命記31章24節)
石の板に書かれた(申命記10章1―2節)書物に書かれた(申命記31章24節)
十戒と呼ばれた(申命記10章4節)律法の書と呼ばれた(申命記31章26節)
契約の箱の中に置かれた(申命記10章5節)契約の箱の横に置かれた(申命記31章26節)

今日、クリスチャンは礼典律に従う必要はありません。しかし、わたしたちが平安と喜びの人生を生き、神をほめたたえることができるように、わたしたちの心に神の律法を書き記すことを、今なお神は喜ばれるのです。

十戒は新しい契約の下でも必要なものなのでしょうか?

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

ヘブル人への手紙8章10節

旧約とは

「古い契約(旧約)」とは、旧約聖書の時代における神とイスラエルとの契約です(創世記17章1―8節)。神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となることに同意し、十戒が契約の骨組みとなることを双方が同意したのでした。

新約とは

「新しい契約(新約)」は、古い契約(旧約)を更新したもので、神は自らの民の神となり、キリストを信じる人たちは神の民となります。十戒は、神と神の民との間の健全な関係のための仕組みを整えていくものです。

救いと律法

わたしたちはどのようにして十戒を守ることができますか?

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

ガラテヤ人への手紙2章20節

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

ピリピ人への手紙2章13節

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

コリント人への第一の手紙10章13節

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」いる(ローマ人への手紙3章23節)と聖書は述べています。

しかし、キリストは聖霊を通して、わたしたちのうちにご自身の命をまっとうしようと望んでおられます。神の民(クリスチャン)は、キリストが共にいてくださることによって強められ、神の力によって神の律法に調和した生き方ができるようになるのです。

わたしたちは十戒を守ることで救われるのですか?

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

エペソ人への手紙2章8―9節

救いは賜物(プレゼント)であり(ローマ人への手紙6章23節)、何かをすることによって獲得できるものではありません。

神は、わたしたちが従順に生きることができるように神の力を約束していますが(ユダの手紙1章24節)、救いは神の律法に服従した報酬として受け取るものではありません。救いは神によって無償で与えられるものなのです。

わたしたちを救ってくださる神の力と意志に信仰を働かせるときにそれが与えられます。救いの賜物をあなたが受け取ろうと決心するときに、あなたはそれを受け取るのです!

神の律法を破ったときに、わたしたちは何をするべきですか?

わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

ヨハネの第一の手紙2章1節

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

ヨハネの第一の手紙1章9節

罪を悔い改めて神のもとに来る人を、神は喜んでゆるしてくださいます。ローマ人への手紙5章20節では「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」とあります。

このゆるしの原則は、決してわたしたちが罪を軽く扱うためのものではありません。

そうではなく、たとえ罪を犯したとしても信仰によって神に立ち返ることで、神が恵みと憐れみの手をのべてくださることを保証しているのです。聖書は明確に「神はあわれみに富み、めぐみふかく」(詩篇103篇8節)と述べています。

わたしたちはどのようにして神の律法を守ることを学びますか?

わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

詩篇40篇8節

神は、神の律法をわたしたちの心に書き記すと約束しておられます(ヘブル人への手紙8章10節)。

人生をキリストにささげ、聖霊がわたしたちの生活に介入するときに、神に従うことは大きな喜びとなります。

キリストがわたしたちのうちに入られるときに、神に従うための愛の思いが与えられるのです。神はわたしたち自身では決してできないことを、わたしたちの内に実現してくださいます!

神の律法に調和して生きるための秘訣は何でしょうか?

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

ヨハネによる福音書14章15節

わたしたちが心から神を愛するときに、わたしたちの内側で何が起こるかをキリストははっきりと述べています(マタイによる福音書22章37節)。

神に対する愛が深まるにつれ、わたしたちの献身もより深いものになります。わたしたちがキリストを愛するときに、キリストに従うことはとても自然なことになるのです。

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