第8課 消された日

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存在しなかった島

2012年に驚くべき発見がありました。長年、南太平洋の地図にはサンディ島という小さな島が記載されていました。ニューカレドレア島の西、ニュージーランドとオーストラリアの中間地点にある島です。しかし、この地域の最新の衛星写真を見た地図の製作者たちは、驚愕しました。サンディ島が存在しないことに気づいたのです。

科学者たちは信じられない思いで船に乗って現地に向かいました。しかし、やはりサンディ島はそこにはなく、ただ海原が広がるだけでした。何十年も地図に記載されていたにもかかわらず、サンディ島は最初から存在していなかったのです。

ほとんどの「伝承」や「言い伝え」はそれが真実でなかったとしても無害なものですが、キリスト教会で一般的に信じられていることのなかに、真実ではないことが含まれていることはないでしょうか? 存在すらしていないものを信じているということはないでしょうか?

神に従って生きる

わたしたちの幸福と清い生き方の指針として、神が与えられたものは何ですか?

これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ヤコブの手紙1章25節

ヤコブの手紙2章10―12節でヤコブが触れている律法とは、十戒のことです。クリスチャンが愛をもって神の律法に従うことを、神は願っています。

神に従い、神の律法を守りたいと願うクリスチャンの動機は何ですか?

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

ヨハネによる福音書14章15節

クリスチャンが神に従順に生きようと思う原動力は、神への愛です。

ある人は天国に行きたいからとか、または滅ぼされたくないと思って従う場合もあるかもしれませんが、神の戒めを忠実に守る最も力強い動機は、神への愛から生まれます。

神にとって、わたしたちが神の律法を守ることはどれほど重要ですか?

耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる。

箴言28章9節

わたしたちが罪を犯すとき、神はたしかにわたしたちをゆるしたいと願い(ヨハネによる福音書1章9節)、キリストは天においてわたしたちを弁護してくれますが(ヨハネの第一の手紙2章1節)、神に従うことを故意に拒む態度は、神を悲しませるものです。

罪深いわたしたちが、どのようにして神の律法を守れるようになるのですか?

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

ガラテヤ人への手紙2章20節

わたしたちが人生をキリストにささげるとき、キリストがわたしたちのうちに生き、神の力と品性を与えてくれるのです。わたしたちと共にいてくださるキリストの力によって、わたしたちは神に従うようになれます。

神のしるし

十戒の第何条が、神と神の民(クリスチャン)との間の特別なしるしですか?

わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。

エゼキエル書20章12節

第7日の安息日は、神が人間を神のような品性に再創造できるということを、神の民が理解するために与えられた日です。安息日はこの世界を創造された偉大な神の力を覚え、同じ神が人間の心をもつくり変えてくださる力をもっていることを覚える日でもあるのです。

神は安息日が、神の民(クリスチャン)にとって重要なものと考えていますか?

あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。

マタイによる福音書24章20節

十字架から40年後に起きるエルサレム滅亡を見越して、人々が安息日に逃げなくても良いようにと祈りなさいと、キリストは励まされました。キリストは十字架で死なれた後も、依然として安息日がクリスチャンにとって重要なものであることをはっきりと示されたのです。

日曜日に礼拝する根拠はあるのか

なぜ多くの人が第7日の代わりに日曜日を安息日として守っているのですか?

聖書にはいかなる理由も見当たりません。

日曜日を守りなさいと聖書で言われている箇所は見つかりませんし、神が聖なる日を変更するように指示した記録もありません。聖書のどこを探しても日曜日を聖日として守るようにと書いてある箇所はないのです。

たしかに、週の第一日目である日曜日は、新約聖書でしばしばとりあげられています。

さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。

マタイによる福音書28章1節

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。

マルコによる福音書16章1―2節

週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。

マルコによる福音書16章9節

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。

ルカによる福音書24章1節

さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

ヨハネによる福音書20章1節

これらの聖句は週の第一日目について語っていますが、どれも日曜日を安息日あるいは礼拝の日として認めたという記述ではありません。

新約聖書の他の場所で、週の第一日目について述べている箇所がありますか?

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

ヨハネによる福音書20章19節

弟子たちが週の初めの日に集まっていた理由は、キリストの死後、ユダヤ人からの攻撃を恐れていたからです(使徒行伝20章7―8節)。

たとえば、パウロが週の初めの日に説教をしたという記録がありますが、聖書的に言うなら、一日は日没で始まり、日没に終わります(レビ記23章32節、マルコによる福音書1章32節)。

つまり、パウロは土曜日の夜(週の第一日目の始まる時間)に説教をしたのです。それゆえ、パウロが週の初めの日に説教をしたということが、安息日を変更した証拠と考えるのは間違いです。

聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。

コリント人への第一の手紙16章1―2節

またパウロが毎週、各家庭で週の初めの日に献金を取り分けておくようにクリスチャンにすすめた記事もあります。献金を集めるためにコリントに使者を送ったときに、献金を集める手間をとらずにすむからです。しかし、週の初めに献金を取り分けておくというのは、その日が聖日と見なされたという意味ではありません。

神は復活を喜ぶための日として、日曜日を制定されたのでしょうか?

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・キリストにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

ローマ人への手紙6章3―4節

だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

コリント人への第一の手紙11章26節

キリストの死と埋葬、そして復活を記念するために、神は別のものを教会に与えられました。
それはバプテスマ(洗礼式)であり、聖さん式です。

バプテスマ(洗礼式)と聖さん式、どちらもキリストの死と復活を記念するために、神がクリスチャンに与えられたものです。聖書のどこを探しても、日曜日をキリストの復活を祝う日として制定するとは書かれてはいません。

キリストの死後、キリストの弟子たちは日曜日を守るようになったのでしょうか?

パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じ、

使徒行伝17章2節

パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

使徒行伝18章4節

キリストの死後、何年か過ぎても、弟子たちは週の第7日の安息日を守っていました。彼らは安息日を変えていなかったのです。

ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。

使徒行伝16章13節

会堂がない時には、礼拝は屋外でも行なわれ、安息日は守られ続けました。初期のクリスチャンたちは、ユダヤの慣習としての安息日を守ったわけではなく、神への愛から律法のすべてを守ろうとしたのです。 

ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。……次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

使徒行伝13章42節、44節

異邦人(外国人)のクリスチャンでさえ、安息日に礼拝しました。もし安息日が変更されていたならば、彼らは日曜日に神の言葉を聞くために集まっていたはずです。

日曜日礼拝はどのようにしてキリスト教会に定着したのですか?

聖書には、日曜日を安息日として守った記録は一例もありません。

しかし、何世紀かの間に、日曜日を守ることがキリスト教会に定着していきます。ある宗教指導者たちは、ローマ帝国が迫害していたユダヤ人と自分たちを区別する手段として日曜日を選び、またローマ帝国の多神教の影響で、太陽神の礼拝日である日曜日を礼拝する日と定めました。

321年に、ローマ皇帝のコンスタンティヌスは、神が定めた安息日よりも日曜日を礼拝日として重んじるようにとの最初の法令を出しました。

尊い太陽の日には、都に住む奉公人や民衆を休ませ、すべての仕事場を閉鎖すること

Codex Justinianus, book 3, title 12,law 3; trans.in Philip Schaff’s History of the Christian Church,vol.3,5th edition, p.380. 

こうして数年後、教会は聖書の安息日よりも日曜日を優先させることを発表することになるのです。

クリスチャンはユダヤ化すべきでなく、土曜日には休まずに働くべきです。しかしクリスチャンは主の日(日曜日)に神をあがめ、可能な限りその日には仕事を休むべきです。しかし、もしクリスチャンがユダヤ化しているのであれば、彼らはクリスチャンとは見なされません

Charles Joseph Hefele, A History of the Christian Councils,vol.2,p.316.

クリスチャンは、多神教徒が守っていた太陽崇拝の日である日曜日を、宗教的に重要な日と認め、一致したのです。こうして、聖書に書かれている安息日は軽んじられることになりました。

またカトリック教会は、自分たちが安息日を日曜日に変えたと主張して、日曜礼拝をいっそう推し進めていきました。

質問 何曜日が安息日ですか?
答え 土曜日が安息日です。

質問 なぜ、わたしたちは土曜日のかわりに、日曜日に礼拝するのですか?
答え カトリック教会がラオデキア会議で正式に、礼拝する日を土曜日から日曜日に変更したので、土曜日のかわりに日曜日を遵守しているのです。

Peter Geiermann, The Convert’s Catechism of Catholic Doctrine,1957 edition, p. 50.

イエス・キリストの権威を代表するものとして、主の復活を記念し、礼拝日を日曜日に変更したのはカトリック教会です。したがってプロテスタントが日曜日を守ることは、彼らの意に反して[ローマ・カトリック]教会の権威に敬意をあらわすことになるのです。

Msgr. Louis Gaston de Ségur, Plain Talk about the Protestantism of Today, p. 225.

このような背景から、今日、多くのキリスト教会では、聖書に書かれている安息日を無視し、神が定めたものとはまったく異なる安息日である日曜礼拝を受け入れているのです。

神の言葉か、人の慣習か

教会や社会の慣習が神の言葉と対立するとき、聖書はどのように忠告していますか?

これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。

使徒行伝5章29節

聖書は明らかに神が与えた言葉です。人間の教えや慣習と差異が生じた場合には、わたしたちは人に従うよりも、神に従うべきです。ですから、神への愛をもつクリスチャンは、どんなときにも聖書の言葉を選ぶべきなのです。

神の戒めを人間の法令に変えてしまうことについて、キリストはなんと言われましたか?

人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。

マタイによる福音書15章9節

キリストに従うものは神の言葉に従います。神の愛によって救われた神の民(クリスチャン)は、神の律法を守る人たちです。彼らはダビデのように「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40篇8節)と言うのです。

聖書は、礼拝に関してどのような明確な指針を与えていますか?

神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

ヨハネによる福音書4章24節

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