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アッシャー家の崩壊
アメリカ文学を学んだ人なら、エドガー・アラン・ポーの有名なノンフィクション『アッシャー家の崩壊』をよくご存知でしょう。
この小説の中では、妹マデリンが兄によって生き埋めにされてしまいます。やがて命からがら棺桶から出ることができたマデリンによって、今度は兄が殺されてしまうのです。
生きたまま葬られることほど恐ろしいことはありませんが、霊的(信仰的)な意味においては、想像以上にわたしたちの周りでよく起きていることなのです。
聖書の中でバプテスマ(洗礼式)は、キリストとともに生きる喜びと、新しい勝利の人生を始めることを公に宣言するものですが、同時に過去の古い自分に死ぬことの象徴でもあります。神に敵対し、自分自身のためだけに生きてきた古い生き方を葬るのです。
キリストは、バプテスマについて聖書が何と言っているかを正しく理解することが重要だと述べています。バプテスマの本当の意味を理解していない神の民(クリスチャン)は、自分が信仰的に「生き埋め」の状態になっていることにまったく気づいていないのです。
バプテスマの重要性
- バプテスマはどれほど重要ですか?
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よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
ヨハネによる福音書3章5節
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
ガラテヤ人への手紙3章27節
キリストによれば、すべての神の民(クリスチャン)にはバプテスマが必要です。救いはイエス・キリストを信じる信仰によって与えられるものです。バプテスマはその信仰を公にあらわすのです。
バプテスマについては聖書の中で100回も言及され、キリストご自身もバプテスマがクリチャン経験にとって不可欠であると明言しています。
- キリストが最後に弟子たちに与えた指示の一つは何でしたか?
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それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
マタイによる福音書28章19節
人は最後にとても重要な言葉を語るものです。弟子たちに語ったキリストの最後の言葉も、教会と教会の指導者にとって大切なメッセージでした。
キリストは、彼を信じた人々にバプテスマをさずけ、世界中に福音を宣べ伝えるために彼らを励ますようにと命じました。
沈めのバプテスマ
- 聖書には正式なバプテスマの方法がいくつ登場しますか?
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主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
エペソ人への手紙4章5節
聖書が教えているバプテスマはただひとつ、全身を水に浸すバプテスマです。
「バプテスマ」という言葉は「水の中に沈める」あるいは「水に浸す」という意味で、これはギリシャ語のバプティゾーという原語に由来するものです。
沈めのバプテスマ以外の方法でバプテスマを行う教会がありますが、聖書の中には「(水を)ふりかけ」たり「(水を)注ぐ」などの方法でバプテスマを行った記録はありません。
- キリストはどのような方法でバプテスマを受けましたか?
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そのころ、キリストはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
マルコによる福音書1章9―10節
キリストはヨルダン川に入り、「全身を水に浸して」、バプテスマを受けました。バプテスマのヨハネはヨルダン川で人々にバプテスマをさずけていました。そこには「水がたくさんあったから」です(ヨハネによる福音書3章23節)。
ヨハネによる福音書1章29―34節で、バプテスマのヨハネはキリストをメシア(救い主)と認めました(マタイ3章11節と比較)。キリストのバプテスマは預言の成就であり、とても重要な出来事だったのです。
- 聖書の他の場所にもバプテスマの例がありますか?
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ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。
使徒行伝8章38―39節
この聖句を読んでも、使徒ピリポが全身を水に浸すバプテスマをさずけたことが明らかです。ピリポとエチオピア人はともに水の中に入り、バプテスマをさずけたあとで水から上がりました。
キリストの例にならい、全身を水に浸すバプテスマを行ったのでした。
バプテスマの象徴
- 水は何を象徴していますか?
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すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い流しなさい。
使徒行伝22章16節
水は霊的な清めを象徴しています。聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と説明しています(ローマ人への手紙3章23節)。
すべての罪びとが、バプテスマによる新しい出発を必要としています。
「水」そのものに罪を洗い流す力が備わっているのではありません。バプテスマは、神がわたしたちの罪を清めてくださることの象徴なのです。
- バプテスマは何を象徴するものですか?
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わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
ロ―マ人への手紙6章4節
バプテスマは古い罪の生き方を洗い流し、キリストにある新しい人生を始めることをあらわします。
バプテスマはキリストを信じる者がキリストの死、葬り、そして復活を自分の人生において体験することであり、自己に死に、新しい命に生まれ変わることを象徴しています。
ちょうどキリストが十字架で死んで葬られ、復活されたのと同じように、わたしたちも古い罪の生き方に死に、聖霊の力を受けて新しい命に復活するのです。
このようにバプテスマには重要な意味が含まれています。罪の生き方から離れたいと望む神の民(クリスチャン)は、バプテスマを受けることで一度水の中に葬られ、キリストにある新しい命に生きるために復活するのです。
バプテスマの大切な意味
1 古い生き方に死ぬ
クリスチャンになるということは「今より良い人」になることではなく、古い生き方に死ぬことです。使徒パウロは、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言いました。(ガラテヤ人への手紙2章19節)
バプテスマは、わたしたちがキリストに降伏し、古い生き方と決別するときに意味をなすものです。キリストにすべてをゆだねないままでバプテスマを受けたとしても、それはちょうど「生きたまま」で「葬られた」のと同じ状態になってしまいます。
2 古い自分を葬る
聖書には、わたしたちは「彼と共に葬られ」と書かれています(コロサイ人への手紙2章12節)。
水中にすっかり沈むこと(葬られること)なしには本当のパプテスマにあずかることはできません。どれほど水を振りかけても、水を注いでも、それが人を「葬る」ことにはなりません。聖書のバプテスマは、全身を沈めることによるバプテスマなのです。
3 キリストの新しい命によみがえる
バプテスマによって古い自分を葬ったあとで、キリストによる新しい命に生きる者として水から上がってきます(これが復活を象徴します)。
結婚する夫婦にとって結婚式が重要であるように、キリストを信じるクリスチャンにとってバプテスマはとても重要なものです。
- バプテスマを受けた人は何と呼ばれますか?
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キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
ガラテヤ人への手紙3章27節
使徒パウロは、バプテスマを受けた人は「キリストを着る」のであると述べています。わたしたちの古い生き方は、キリストにある新しい生き方に変えられるのです。
- 正しいバプテスマを受けることはどれほど重要ですか?
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信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
マルコによる福音書16章16節
バプテスマという行為そのものが救いを保証するのではありません。救いはキリストを信じる信仰により、恵みによってもたらされるからです。しかし、バプテスマはクリスチャンにとって欠かすことのできない経験です。
全身を水に浸すバプテスマでなければ、バプテスマが本来、象徴している意味と大きく違ってしまいます。
バプテスマは古い生き方を葬ることであり、キリストにある新しい生き方に復活することです。沈めのバプテスマだけがその霊的な意味を正しくあらわしています。
バプテスマを受ける準備
- バプテスマを受ける準備ができたことをどのように知ることができますか?
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あなたが個人的な救い主としてキリストを受け入れ(使徒行伝8章37節、ヨハネによる福音書3章3―5節)、新しい生まれ変わりを経験するときに、あなたは以下のことを公に言いあらわすバプテスマを受けます。
- キリストの教えを理解します(マタイによる福音書28章19―20節)
- キリストの教えを信じます(マルコによる福音書16章16節)
- 過去の罪を悔い改めます(使徒行伝2章38節)
- 罪から離れることに同意します(ローマ人への手紙6章5―6節、ルカによる福音書3章7―8節)
バプテスマはキリストを個人的な救い主として受け入れ、キリストとともに生きたいと願う人のためのものです。それは心おどる経験ですが、とても厳粛な決心をともないます。
もっとキリストは、あなたにバプテスマについて知ってほしいと願い、また誓約についても十分に理解してほしいと願っています。
- 水のバプテスマには何がともないますか?
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だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
ヨハネによる福音書3章5節
水のバプテスマには、聖霊のバプテスマがともないます。聖霊のバプテスマを受けることは、聖霊に「まったく浸される」ことです。
あなたの生き方が、聖霊によってまったく変えられることを意味しています。
聖霊の役割は、わたしたちに自分の罪を認めさせ、罪の解決としてキリストの義を受けるように導くことです。(ヨハネによる福音書16章8節)また、わたしたちが神の教えを理解するのを助けてくれます(ヨハネによる福音書16章13節)。
聖霊のバプテスマは、御霊の実(ガラテヤ人への手紙5章22―23節)を生じること、また霊の贈り物(賜物)を受けるときに実証されます。
これらは、わたしたちが神の愛について良い知らせを伝えるときに、効果的に働いてくれるものです(コリント人への第一の手紙12章3―7節)。
- バプテスマは、教会に加わることと関係があるのですか?
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そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。…そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
使徒行伝2章41―47節
そして自ら(御子)は、そのからだなる教会のかしらである。
コロサイ人への手紙1章18節
一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け…。
コリント人への第一の手紙12章13節
わたしたちがキリストにあるバプテスマを受けるとき、キリストのからだである教会の一部となります。
教会は、神に選ばれた者たちによるキリストのからだであり、ともに福音宣教のために働き、互いの霊的生活を支え合う助け手となります。
バプテスマを受ける決心をするときには、キリストの教会に加わる誓約をしていることにもなるのです。
バプテスマに関するさまざまな質問に対する答え
十字架上の強盗についてはどうなのですか?
十字架上の強盗はバプテスマを受けていません。彼はどのようにして救われますか?
十字架上の強盗が過去にバプテスマを受けていたかどうかについては聖書には記録されていません。もし彼がバプテスマを受けずに死んだとすれば、彼のケースは沈めのバプテスマを受けずに死んだ他の人々と同じ扱いになるでしょう。
このような場合には、彼らのバプテスマの代わりに、キリストのバプテスマが適用されます。しかし、バプテスマを受けたくない人がこれを言い訳にしてはいけません。バプテスマは現在でも有効なものだからです。
十字架上につけられた強盗が、信仰によってキリストを信じたあとで、水によるバプテスマを受けていないことは明らかでしょう。しかし、人はバプテスマによって救われるのではないということも同時に覚えておく必要があります。
救いはイエス・キリストを信じる信仰によるものです。バプテスマは、わたしたちの神への服従と、神に対する真実の愛を公にあらわすものなのです。
「父、子、聖霊の名」によるバプテスマについてはどうですか? 初期のキリスト教会の使徒たちは「キリストの名」によってのみバプテスマをさずけていたのではないでしょうか?
キリストご自身が「父、子、聖霊の名によって」バプテスマをさずけるようにと言っています。キリストは、バプテスマをさずける人のための説明書を書いたりはしませんでした。
バプテスマをさずける牧師が語るべき文言などは聖書のどこにも書かれていないのです。キリストが「父、子、聖霊の名によって」バプテスマをさずけるように弟子たちに語ったとき、彼は三位一体の神の権威によってバプテスマをさずけるように意図されたのです。
使徒行伝19章5節には、弟子たちが「主イエスの名によって」バプテスマをさずける場面が出てきます。人々はイエス・キリストが主であると信じてバプテスマを受けました。
この時代のバプテスマは、イエス・キリストを主として受け入れることが最も重要であったことがわかります。ここにもバプテスマをさずける人が語るべき詳細な文言などは何も記されていません。人々はキリストを個人的な救い主として受け入れ、バプテスマを受けたのでした。
幼児のバプテスマ(幼児洗礼)についてはどうでしょうか?
幼児のバプテスマについては聖書に何も触れられていませんが、実際には不適切であると考えられています。バプテスマを受ける人々は、自らキリストを個人的な救い主として受け入れる決心をし、神のみこころにゆだねる生活をしたいと心から願う成熟した人たちでした。キリストご自身も、バプテスマを受けられたのは成人してからでした。
沈めのバプテスマが「信仰者のバプテスマ」とも呼ばれるように、バプテスマを受ける人々は、自らの意志でキリストを個人的な救い主として信じ、受け入れるのです。
しかし、幼児の年齢では、バプテスマの必須条件である個人的な罪の認識、神への信仰、罪の告白、悔い改め、神のみこころ(意志)に従う選択を十分に満たすことは不可能です。子どもたちがまだ幼い時期は、両親の信仰をとおして神にささげられるべきです。(ルカによる福音書2章21―39節)
両親はまず、彼ら自身が神に献身していなければなりません。神の言葉に従い、クリスチャンとして子どもたちを優良な生活環境の中で正しく教育するためです。それが子どもたちを神にささげることになるのです。
聖書にはバプテスマを受ける適正年齢についての定めはありません。ある者は、若くてもキリストとの関係を良好に築くことができる場合がありますが、すべての人がそうであるわけではありません。
沈めのバプテスマ以外の方法についてはどうでしょうか? このような形式はどのように教会に広がったのでしょうか?
沈めのバプテスマ以外の他の方法は、聖書に根拠を置くものではありません。つまりキリストが始めたものでも、弟子たちが始めたものでもないということです。
キリストの死後、何百年間も、キリスト教会におけるバプテスマの標準は沈めのバプテスマでした。現在見られる他の方法は、長い年月をかけて徐々に教会の中に入り込み、やがて伝統となっていったものです。
事実、他の方法でバプテスマを行っている教会でも、かつては沈めのバプテスマを行っていました。水をふりかけるバプテスマを施している教会でも、古い時代のバプテスマ槽が教会堂に残っている場合もあります。
沈めのバプテスマ以外の(聖書に根拠を置かない)方法は、ただ人間の伝統の上に成り立っているものです。聖書は「人間に従うよりは、神に従うべき」だと教えています(使徒行伝5章29節)。
再バプテスマ(再度バプテスマを受けること)は正しいことですか?
彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、キリストを信じるように、人々に勧めたのである」。 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
使徒行伝19章2―5節
理想的には、水によるバプテスマはただ一度の経験ですが、再バプテスマが適切とされ、すすめられている場合もあります。
1) 重大な新しい真理を発見したとき
使徒パウロがエペソで説教していたとき、バプテスマのヨハネによってバプテスマを受けた一団が、聖霊について聞いたことがないと告白しました。パウロは彼らをそばに呼び、聖霊のわざと力について教えました。
この真理は、彼らの生き方に大変大きな衝撃を与えたので、彼らは再バプテスマを受けることを希望しました。この例は、永遠の命に関わる重大な新しい真理に出会ったときには、再バプテスマが適切であることを示しています。
2) キリストに背き、再び立ち戻りたいと思ったとき
バプテスマは、例えるならキリストとの結婚の儀式です。もしあなたが一度キリストとの結婚関係を捨ててキリストの元を去っていたのであれば、再バプテスマは適切です。キリストとの「新たな出発」にあたって、もう一度キリストに対する真実の愛と忠誠を公にあらわす機会となるからです。
バプテスマをためらってしまうのですが……
- 使徒パウロは回心したあとで、バプテスマについてのどんな忠告を受けましたか?
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なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい。
使徒行伝22章16節
サタン(悪魔)の巧妙な戦術の一つは、人々の決心を引き延ばすこと、決心を延期させることです。しかし聖書ははっきりと述べています。「なんのためらうことがあろうか」と。
ですから、「自分には資格がある」と納得するまでバプテスマの決心を延ばさないでください。「心の中がきれいになった」と満足するまで待たないでください。あなたの決心に他人が賛成するのを待たないでください。聖書は「立ってバプテスマを受けなさい」とすすめています。
- 人がバプテスマを受けるとき、神はどのように感じているのでしょうか?
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すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
マルコによる福音書1章11節
キリストがバプテスマを受けたとき、天では喜びと称賛の声が上がりました。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
ルカによる福音書15章7節
人がバプテスマを受けるとき、全天は歓喜につつまれるのです!
覚えておく3つの重要なこと
- バプテスマはクリスチャン人生にとって最も重要な経験の一つである。
- 全身を水に浸すバプテスマのみが聖書に根拠を置くものであって、バプテスマが象徴する正しい意味をあらわしている。
- バプテスマはキリストの弟子として教会に加わるための入口である。
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聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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