第1課 あなたは愛されています

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神から遠く離れたい

聖書の中にイエスの語られた「放蕩息子」と呼ばれているたとえ話があります。自由にあこがれた息子が、父に財産を分けてもらって遠い国へ行き、そこで放蕩の限りを尽くしてすべてを失ってしまう物語です。食べるにも事欠くようになって息子は父の家を思い出し、雇い人になる覚悟で故郷に帰ることにしました。聖書は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と放蕩息子の帰るのを待ちわびていた父親の姿を描いています。

このたとえ話で、イエスは父を神に、息子を私たち人間に準え、神に対して人が持つ2つの心について語っておられます。神に対して人が持つ第1の心は、遠く離れていたいという気持ちです。この息子と同じように私たちは神などと関係を持たず、自分の望むままに生きて行きたいと思う心のあることをイエスは知っておられたのです。

日本には「触らぬ神に祟りなし」という言葉があります。最近、宗教が関わっている事件が多発しているせいで、そうした考え方をする人たちが増加しているようです。「宗教がかえって争いを引き起こす原因なのだ」と言う人もあります。確かに今起こっている紛争の中には宗教が大きく関わっているといえる戦いも幾つかありますが、でも、ちょっと考えてみてください。しばらく前まで鉄のカーテンやベルリンの壁と言われるもので世界を二分していたのは別の理由によるものでした。ですからほんとうは、自分たちの考え方だけが正しいとする人々がいて、己を鼓舞する旗印として宗教やさまざまな違いを持ち出してくるのではないでしょうか。

話が横道にそれてしまいましたが、確かに私たちの心には、神に関わりたくない、信仰に頼るのは弱さの現れ――等の思いがあるようです。そして現代人の多くは、神を自分には必要のないものとして生活しています。

神のもとへ帰りたい

神に対しての人の第2の心は、神のもとに帰りたいとの思いです。でもこの気持ちは人の心の奥深くに隠れているので、何か大きな出来事が起きるまで気付かないようです。

放蕩息子は財産を失い飢えが迫ってきて、初めて父の家に帰ろうと思いました。聖書では『彼は本心に立ちかえって』(ルカによる福音書15章17節)とあります。つまり神から離れたいと望んだ心はうわべのもので、彼の心の奥には父への信頼がしっかりと根をおろしていたのです。

Aさんが教会に来るようになったきっかけは、高校2年の時に体験した大地震でした。2階にいた彼はあまりの激しい揺れに立つことさえできず、気がつけば「神様、助けて下さい」と叫んでいたそうです。後日彼は、なぜあの時神に助けを求めたのだろうと不思議に思いました。ふだん高校生位の男の子が「神」という言葉を口にすることは、まずあり得ないでしょう。

神とは自分にとってどなたなのだろう、Aさんはその疑問を解くため、教会に来るようになりました。

「かなわぬ時の神頼み」という言葉があります。私たちは愛する者が病に倒れたときや危機の中にいるとき、思わず「神様、助けて」と叫んでしまうことがあります。神は私たちにとって、それほど近しい方なのではないでしょうか。聖書に『神は御自分にかたどって人を創造された』(創世記1章27節)とありますが、きっと人の心には『神』という言葉に反応する何かがあるのでしょう。

以前失語症の方に「人の心の中には、神のみしか掻き鳴らすことのできない弦がある」と話したとき、その方は、ハラハラと大粒の涙を流されました。失語症のため、難しい言葉や文章は理解できないはずの方です。その方の心に確かに「神」という言葉が深く触れていったのでしょう。その涙はひどく印象的でした。誰の心の中にも、神によってのみ癒される部分があることを教えてくれるようでした。

学校の音楽室にあった音叉を思い出します。ピアノを弾くとその音に共鳴する――そのように人の心にも、神に共鳴する部分が確かにあると思います。だからこそ人は大きな困難に出会ったとき、思わず神の名を呼ぶのでしょう。イエスはそうした私たちの2つの心をご存知だからこそ、放蕩息子のたとえを語られたのです。

現代人の神に対する思い

神を信じると強くなりすぎることがあります。正義は我にあって反対する者はすべてサタンというわけです。またその反対に弱くなりすぎ、今自分が受けている不当な扱いはすべて神の御心と耐えてしまう生き方もあります。そのどちらもが、世の中でクリスチャンに対する反感を買ってきました。

イエスは「あなたがたは地の塩である」(マタイによる福音書5章13節)と言っておられます。塩というものは濃すぎても、薄すぎても、その料理が美味しくなりません。ほど良い塩梅が塩に求められるように、クリスチャンもバランスのとれた生き方をするようイエスは望んでおられるのです。

私は、あのノーベル平和賞を受けたキング牧師の生き方が好きです。彼は黒人に対する差別をただ黙って耐え抜こうとは言いませんでした。間違っているから血を流してでも闘おうとも言いませんでした。キング牧師のとった行動はその中間、差別が間違っていることを静かに、けれど勇気を持って訴えていく道でした。そして有名なバスボイコット運動が始まったのです。たくさんの人々がバスが差別を止めるまで乗らないと誓い合いました。この運動の中でキング牧師は「愛こそ我々を導く理想であるべきです。我々は白人の兄弟を憎むことを止めなければいけません」と語っています。彼らの精神の骨子はイエスの御言葉でした。

抗議運動はともすれば憎悪が原動力になりがちです。それが、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』(マタイによる福音書5章44節)と言われたイエスの愛の倫理が、新しい力、新しい目標とする運動となりました。

ほんとうの人として

イエス・キリストの御言葉に正しく耳を傾けるとき、私たちは偏ったクリスチャンにならないでしょう。そうした人のいる所はそれが社会であれ、家庭であれ、より良い場所に変わっていくでしょう。

私たちは誤ったものを神としたり、自分勝手に神の御心を解釈する恐ろしさを十二分に見聞きしてきました。でも本当に神を信じて歩むということは、豊かな人間らしい人になることです。神に愛されているのを知ったとき、そこに小さな愛が生まれてきます。それは他の人の幸福を願い、他人の意見も尊重し、示される愛情に感謝する生き方です。自分に過ちがあったら、それを正す勇気のある生き方です。それこそ、本当の人間と言えるのではないでしょうか。

聖書の言葉
わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し……イザヤ書43章4節

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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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