第24課 あふれるほどに

目次

カルロの詐欺事件

カルロの新事業は、表向きは大成功に見えました。投資家たちは彼の事業に何百万ドルもつぎ込みました。資産運用の利益率が非常に高いため、ある者は家を抵当に入れてまで作り出した貯蓄のすべてをカルロに投資したほどでした。1920年当時、彼は1日に25万ドルを儲ける億万長者でした。

ところが間もなく、カルロの会社が何ひとつ利益を上げていないことが世間に発覚しました。カルロは、新しい投資家たちから受けた資金を、長期の投資家たちへの配当金に充てるために流用していたのでした。

多くの顧客が投資額の返金を求め始めました。やがてカルロ(チャールス)・ポンジの新事業は大規模な詐欺事件として裁判が行われ、多くの投資家たちは、残念ながら財産のほとんどを失うことになったのでした。

カルロのような世間を揺るがす詐欺事件は今後もなくなることは無いでしょう。いつの時代も、人々はうまいもうけ話に簡単に騙されてきたのです。神は、神の民がこのような「うまい」もうけ話に騙されることを願ってはいません。

神は、わたしたちが安定して生活できるようにはじめから配慮してくださっていると聖書は述べています。神は、わたしたちをあふれるほどに祝福してくださると約束しておられます。

神のものである財産

わたしたちの財産は、究極的には誰のものでしょうか?

地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

詩篇24篇1節

林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである。

詩篇50篇10―12節

聖書は「はじめに神は天と地とを創造された」という言葉で始まります(創世記1章1節)。

神は、宇宙を「主の口の息によって」無から創造されました(詩篇33篇6節)。

ですから、宇宙に存在するすべてのものの持ち主は神です。人間は、神の所有物である財産をまかされている管理者にすぎません。

わたしたちは、神の財産を管理するように命じられたしもべです。わたしたちが持っている(と思いこんでいる)すべての持ち物は神のものです。キリストはたとえ話の中で次のように説明しました。

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

マタイによる福音書25章14節
この世の富について、神は特別にどのようなことを言われましたか?

銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。

ハガイ書2章8節

天の神は、宇宙にあるすべてのものの真の所有者です。どれほどの大金を銀行に預金していても、あるいは高額な貴金属を身に着けていたとしても、すべてのものの真の所有者は神なのです。

わたしたちの経済的な祝福はどこから来るでしょうか?

あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。……主は……あなたに富を得る力を与えられるからである。

申命記8章18節

聖書は、神がすべての祝福の源であることを明らかにしています。

ヤコブの手紙1章17節は次のように言っています。

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

ヤコブの手紙1章17節

経済的なことについて説明するならば、金額が大きくても小さくても、わたしたちが所有しているものは神の祝福です。わたしたちの経済的な祝福はすべて神から来るからです。

神に返す献金

聖書は、わたしたちの収入のどれくらいを神に返すように求めていますか?

地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。

レビ記27章30節

「什一(じゅういち)」という語の意味は「十分の一」です。神はわたしたちの収入の十分の一をご自分のものだと宣言しています。それは神への信仰と愛をあらわすものとして神に返すべきものです。

什一という制度の目的は何でしょうか?

わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。

民数記18章21節

神が約束の地をイスラエルの部族ごとに分けたとき、聖所の奉仕をするレビ族には他の部族と同じように広い土地を与えませんでした。

神は特定の町をレビ人に与え、彼らの生活が什一によって支えられるように制度を作りました。この什一が彼らの収入となり、彼らが聖所で行う働きの報酬となりました。

神が、教会を司る牧師たちを什一で支えるようにしたのですか?

もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。

……あなたがたは、宮仕えをしている人々は宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人々は祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである

コリント人への第一の手紙9章11―14節

旧約の時代、聖所の奉仕をするレビ人が什一の制度によって支えられたように、神は教会を導く牧師たちを同じ方法で支えておられます。使徒パウロは什一の制度についての考えを的確に述べ、什一が福音宣教を支えるための神の方法であることを明らかにしました。

神は、すべての神の民が什一を神に返し、永遠の福音が世界中に伝えられることを望んでいます。こうして、神の民全体が世界に福音を伝える働きに等しくあずかり、喜びを分かち合うことができるのです。

キリストは什一の制度について何と言われたでしょうか?

偽善な律法学者、パリサイ人々よ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

マタイによる福音書23章23節

キリストは、聖霊の働きによって心が変化していないままで、特定の宗教的規則だけを守る人々に注意をうながしました。

キリストは、クリスチャンの美徳を表さない人々の精神をお叱りになりましたが、什一を神に返す行為についてはほめられました。

パリサイ人は公平とあわれみをあらわすことには失敗しましたが、什一を神に返すことについては正しかったのです。

什一を納めた最初の記録は、聖書のどこにあるでしょうか?

その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。 願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。

創世記14章18―20節

この什一の制度は、イスラエル国家が存在する前から行われていたものです。決してユダヤ人のためだけに定められたものではありません。

神はあらゆる時代の人々に、しもべの仕事を忠実に果たして、彼らの所有している物で神に栄光を帰す特権を与えておられます。創世記28章22節には、ヤコブが財産の十分の一をもって神に栄誉を帰した誓いの記録が残されています。

聖書は「メルキゼデクに等しい」大祭司キリストの職について述べています。(ヘブル人への手紙6章20節)

メルキゼデクの職が什一制度によって支えられたように、キリストの祭司職もまた什一によって支えられるのでした。

什一はどんな目的のために用いられるのですか?

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい

マラキ書3章10節

その「倉」は祭司によって管理され、神殿(聖所)の務めと密接に結びついていました。

ネヘミヤ書10章38節には次のようにあります。

レビびとが十分の一を受ける時には、アロンの子孫である祭司が、そのレビびとと共にいなければならない。そしてまたレビびとはその十分の一の十分の一を、われわれの神の宮に携え上って、へやまたは倉に納めなければならない。

ネヘミヤ書10章38節

神が什一をその倉(今日の場合は教会)にもってくるようにと言われたとき、神が意図しておられたのは、什一を聖職の働きのために用いるということでした。

わたしたちは自分で什一の使用目的を選ぶことができますか?

地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なるものである。

レビ記27章30節

神は、什一を聖職の働きに用いるように意図していました。それは聖なる働きだからです。わたしたちは自分でふさわしいと思う目的のために什一を用いるべきではありません。

たとえその目的が慈善事業であってもです。神は什一を特別な目的に用いるようにはじめから計画されたのです。

什一以外にも、わたしたちはどのように神の価値ある目的を支えることができるでしょうか?

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。

マラキ書3章8節

聖職の働きを支えるための什一に加えて、神の民は自由意志による献金をもっていくことができました。これらは自主的なささげもので、それぞれの裁量にまかされていました。

同じように、什一を神に返した後でも、わたしたちも自由献金を神にささげることができます。什一以外の献金は、各々の裁量によって様々な目的のために用いることができるものです。

什一についての質問

忠実に什一を返すことはどれほど大切なのでしょうか?

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。

マラキ書3章8―9節

什一を怠ることは神のものを盗むことです。神は、什一を拒むことの深刻さについて明確に説明しています。出エジプト記20章15節で神は「あなたは盗んではならない」と言っています。什一を怠ることは神から盗むことと同じです。什一は神に属するものだからです。

什一を神に忠実に返す者にはどんな祝福が約束されているでしょうか?

「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これを もってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」と、万軍の主は言われる。「 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしよう」と、万軍の主は言われる。「 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからである」と、万軍の主は言われる。

マラキ書3章10―12節

神は什一を忠実に返す人々に繁栄を約束しておられます。神を愛する心から、忠実に什一を納める人々は、神からあふれるほどの祝福を受けると神ご自身が言っておられるのです。

神は、神の民があふれるほどに持つようになると約束しています。さらに神は、神との信頼関係に入る者の地を祝福すると言っています。

什一を納めることが正しい行為だという確信を、わたしたちはどうしたら得ることができるでしょうか? 什一を納める行為は、行いによる義のように見られることはありませんか?

もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。

ヨハネによる福音書14章15節

しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、

ローマ人への手紙6章17節

什一は十戒の戒めではありませんが、神が望んでおられることであるのは間違いのないことです。神に忠実に従う姿勢とは、行いによって義を得ようとすることではなく、むしろ信仰による義から生まれる行いなのです。

神は神の民が、従順な生活をすることを願っておられます。神のみこころに心から従うとき、わたしたちの信仰の目は純粋に神に向けられ、生活の中で神への愛を最優先していることの証拠となるのです。

什一を納めるのに、経済的な余裕のない人々はどうしたらよいのでしょうか?

どのような経済状態の人でも、什一を納められないということはありません。

神は什一を納める人々に祝福を約束しておられます。なぜなら収入の90パーセント以上の祝福を神様が約束してくださっているからです。収入の100パーセントを自分自身のために使う人に比べても、はるかに良い生活ができるように神が配慮してくださるのです。

ある者は、什一を納めることがストレスだと感じていることも事実です。しかしマラキ書3章10節でキリストが言われた言葉を思い出してください。「これをもってわたしを試み(よ)」。言い換えるなら「わたしをためしなさい」と言っているのです。

什一について不安に思う人は誰でも神をためし、神に対するわたしたちの信仰に神がどのように答えてくださるかを体験するように奨励されているのです。

この制度が悪用されたことはありませんか? 誰かがこの制度を自分の私利私欲を満たす目的で利用したことはないでしょうか?

確かに過去には悪用された事例もありました。しかし現代の信頼できる教会組織になってからは、什一は注意深く管理されるようになり、牧師たちは正当な支払いを受けています。

弱い人間が集まる集団は不完全な組織です。しかしこのような人間の弱さが、神に忠実な人々を神から遠ざけるようなことが絶対にあってはならないのです。

神は、すべての神の民が裕福になることを望んでいるのでしょうか?

決してそうではありません。ヨハネによる福音書12章8節で、キリストは「貧しい人々はいつもあなたがたと共にいる」と言われました。

わたしたちの間には、教会の中であっても、常に貧しい人々が存在します。富や財産が神の祝福のしるしとはならないように、富を持っていないことが神の寵愛を受けられていないしるしとはなりません。

すべての神の民が裕福になることが神のみこころであると信じる根拠はありません。神は神の民がみな聖なるものであってほしいと望んでおられるのです。

神に什一を納めていながら、なお困難を経験している人々についてはどうでしょうか?

什一を納めることは、困難からの回避を保証するものでありません。什一を忠実に納めている農夫が、かんばつや不作を経験することもあるかもしれません。

什一を納めている事業家が、損失や困難を経験するかもしれません。什一を納めているわたしたちは、なおも挑戦に満ちた世の中で生き続けなければならないのです。

什一を納めることは神への忠誠と愛を示すことです。什一を納めることから来る祝福は、経済的なものに限ったことではありません。

また什一を納めることがあらゆる困難から人々を守る「防護壁」とはなりません。しかし神は、確実にこのような人々に恵みを与えてくださっているのです。

わたしたちは収入の基本給の什一を納めるべきですか? それとも手取りの十分の一ですか?

わたしたちが住む国において、政府に支払う税はわたしたち個人に対して請求されるもので、毎月の水道代や電気代の支払いと同じ扱いです。所得税や請求書の支払いをすべて終えた後で什一を返すのではなく、その前に返すのが良いでしょう。

使徒パウロの勧告はとても的を射ています。

わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。

コリント人への第二の手紙9章6―7節

わたしたちは豊かに神にささげるときに、豊かに刈り取ることになります。喜んで神にささげるときに、神の約束された祝福が来ることを期待できるのです。

什一を納めたなら、わたしたちは経済的な繁栄を期待できるのでしょうか?

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふれる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

マラキ書3章10節

神の「恵み」はさまざまな方法で与えられます。神は忠実な神の民の事業を繁栄させることもできますし、わたしたちの生活に予想もしない授かりものをもたらすこともできるのです。

一方、神はわたしたちに健康という祝福、あるいは物品を安く購入できる機会、また心の平安という恵みを与えてくださることもあります。神の恵みの手段はさまざまありますが、わたしたちが確実に得ることのできる最大の恵みはキリストの臨在(キリストがともにおられること)です。

神は什一を納める者の生活に大きな恵みを注ぐと約束されましたが、これを経済的な繁栄への約束と単一的にとらえるのは間違いです。神は物質的な富に限って保証しておられるわけではないからです。

前述したように、什一を納めることがあらゆる困難から人々を守る「防護壁」とはなりません。しかし神は、確実にこのような人々に恵みを与えてくださっているのです。

これまで什一を納めていなかった者が什一をはじめるときにはどのようにすればよいでしょうか? 

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイによる福音書6章33節

神に忠実でありたいと望むものは誰でも、神のみこころを第一にして、それをわたしたちの生活の中で実行してほしいと神に求めるべきです。神のみ言葉に従い、神の意思がわたしたちの生活に反映されるように日々祈ることが、正しい信仰者の生き方です。

神は、わたしたちが神のみこころを求め、神が与えると約束された祝福を信頼して待つようにと励ましています。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

聖書を学ぼう!

会員登録後、聖書について学べるコンテンツを無料でご利用いただけます。

よかったらシェアしてね!
目次