第2課 天使にも悪魔にもなりえる人間

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人間の本性は善か悪か

「渡る世間に鬼はない」という言葉もありますが、「人を見たら泥棒と思え」という表現もあります。人間の本性は善か悪か、キリスト教には「原罪」という考えもありますので、性悪説の立場に立つかのように思われますが、そうとも言えません。善と悪との二面性、天使のようにもなりえますが、悪魔にもなりえる可能性を持っているのが人間なのではないでしょうか。

人間の起源について記した聖書の創世記1章には、人間だけが神にかたどって、神に似た者としてつくられたことが記されています。人間は言葉を用いて知識を蓄積し、文明を築いてきました。また人間だけが善悪を感じる道徳性、自分を超えた偉大な存在を認め、祈る宗教性を備えています。これらは、人間が神と心を通わせることができる唯一の存在として、人格神によってつくられたことをあかししています。人類には、魂の親とでも言うべき、完全な義と聖と愛を備えた神に向かって成長していく豊かな可能性が与えられているのです。

どう考えても何かがおかしい人間

過ぎ去った20世紀の特徴は、目覚ましい科学技術の発達でした。20世紀の初頭に、はじめて空を飛んだ人間が、60年後には月に行って帰ってきています。

しかし、フリーのドラマ・ライターとして知られる山田太一さんは、その編著『生きるかなしみ』(筑摩書房)の中で次のように書いています。

「心臓とか肝臓を移植出来たりロケットが宇宙で新しいことをしたり独裁者が倒されたりすると、人類は輝かしい力に溢れているようなことを新聞やTVはいうけれど、無論それはジャーナリズムの誇張で、人間は無力である。証明する必要があるだろうか? ……悪意中傷にも弱く、物欲性欲にふり回され、見苦しく自己顕示に走り、目先の栄誉を欲しがり、孤独に弱く、嫉妬深く、その上なんだかんだといいながら戦争をはじめて殺し合ってしまう」。

野獣と呼ばれるどう猛な動物でもめったに仲間を殺さないのに、万物の霊長といわれる人間は第2次世界大戦だけでも5000万人の同種の仲間を殺しています。ナチスドイツのユダヤ人強制収容所では600万人のユダヤ人が虐殺されました。

1960年に、ホロコーストの主犯格のアイヒマンが、南米で逮捕され、イスラエルで裁判にかけられました。アウシュヴィッツの数少ない生存者デイヌル氏が証人台に立つことになりました。同氏は連れて来られたアイヒマンを初めて目の当たりにしたとき、裁判所の床にくずおれて大声を出して泣いたのです。収容所でのつらい思い出がよみがったからかというと、そうではありませんでした。デイヌル氏は記者会見でこう語りました。

「わたしはアイヒマンが悪魔のような顔をした男に違いないと思っていました。ところが、実際に会ってみると普通の人とかわりありませんでした。その時、罪と悪が人間の性質であると思い知らされました。わたしも、この男がした通りのことをする可能性があるのです。そう思うと、自分がこわくなりました」。

人間はだれでも、いざとなれば自分を守るために、他に対して悪魔化しかねない暗い部分を心の中に抱えているのではないでしょうか。

本来のあり方からの転落

創世記の2章、3章には有名なエデンの園におけるアダムとエバのストーリーが記されていますが、そこに人間がいかに本来のあり方から転落していったかが鮮やかに描かれています。彼らは園のどの木からも「心のままに」取って食べることができる自由な存在としてつくられたのでした。しかしその自由は無制限ではありませんでした。神への愛と信頼のしるしとして一つの木の実だけは食べることが禁じられました。しかし、へびに姿を変えた誘惑する者が近づいて、「それを食べると神のように善悪を知るものとなることを、神は知っておられるのです」と神の愛を疑い、そむくようにそそのかしたのです。

神との信頼関係にそむき、自分を神のように最高の者としようとしてその実を食べたとき、すべての関係が破れていった姿がそこに描かれています。ありのままの姿で生きることができなくなった人間は、裸をいちじくの葉でおおい、神を恐れ、身を隠します。神に見いだされたとき、アダムは「わたしといっしょにしてくださったあの女が」とエバに罪を転嫁し、エバはへびのせいにします。自分さえよければ、他をおとしめ、すべてを神のせいにもしかねない人間のみにくい、自己中心の罪の姿が見事に描かれています。

希望はどこにあるのか

ほんとうの愛の源である神にそむき、自己中心の罪に陥った人間は、互いに傷つけ合う地獄をつくりだしてきました。キリストに次いで世界に影響を与えたといわれる使徒パウロも「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(ローマ人への手紙7章15節、口語訳)と罪に対するコントロールを失った赤裸々な自分の姿を告白しています。

そのパウロが変えられていったのは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節、口語訳)と言われた魂のいやし主、キリストとのふしぎな出会いによってでした。

日本においても、殺人犯が、極道が生まれ変わって、今、キリストによる救いを宣べ伝えています。どうしてそのようなことが起こりえるのか、次の課から学んでいきたいと思います。

祈りの言葉
神さま、あなたは私の心の中に良い部分と悪い部分があることをご存じです。
自分の中にある自己中心的な生き方を変えたいと思っても自分ではうまくいきません。
このような私を、そのままの姿で愛し、新しく生まれ変わらせてくださることを感謝いたします。どうか魂のいやし主とのふしぎな出会いへと私を導いてください。
イエス・キリストのみ名によって、お祈りします。アーメン。

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