第12課 愛にあふれた故郷

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あるキャンプ場で

イエスの昇天後から2千年の間、クリスチャンは天国の約束に希望を抱き生きてきました。長く激しい迫害の続く時代にも信仰が受け継がれてきたのも、やはり天国が大きな力でした。

でも私は「天国へ行きたい」という言葉が、あまり好きではありませんでした。教会にご利益を求めに来ているように思えて、ただイエス・キリストが好きなだけだと、つっぱっていたのです。

そのような私が、素直に天国へ行きたいと思えるようになったのは、あるキャンプに参加した時からです。それは労働奉仕を中心にしたキャンプで、約30名の老若男女が集まりました。電気もガスもない場所で1週間を過ごしたことで、私たちはお互いに本当に親しくなりました。

普段、仲が良くなかったわけではありませんでしたが、やはり遠慮はありました。けれど、そのキャンプ場で、全員の心に信頼と友愛が生まれてきたのです。全員が自分の大好きな人で、誰の心のうちにもお互いを受け入れる場所がありました。そして私は初めて、天国がこうした愛のみなぎる世界であるならば、そこへ行きたい、そここそが本当に人の生きるところだと思い始めました。

現在私たちの生きている社会では、人々は心の中に持っている愛を、ほんのわずかしか用いていません。一握りの親しい人たちの間でだけ愛を受け、又自分の愛をあげているのがほとんどです。本当は私たち人間の心の中には、お互いに与えあう、もっともっとたくさんの愛があるのではないでしょうか。

30人の人たちと家族のように過ごせたその1週間は、心の中の愛を思いきり現せて、又、もらえたという満足感で心が一杯でした。キャンプが終わって、それぞれの家へ帰る電車に乗った後、私は周りの人たち――それは見知らぬ人たちでしたけど――に、「どうして笑い合わないの?」「どうしてオシャベリしないの?」と語りかけたくて仕方がありませんでした。

そのキャンプのことは、今も私の胸の中に鮮やかに残っています。あの時、親しい3人の友だけと行ったのでしたら、あれほど楽しくなかったでしょう。30人だったから喜びは大きくなったのです。もし300人、いえ3000人だったら永遠という時さえ、長いとは思わなかったことでしょう。

愛の溢れているところ

それ以来、天国は私にとって、人が心に持つ愛を100%活用できるところと考えるようになってきました。

もし人間の命がこの世界だけで終わるのだとしたら、私たちは豊かに持っているはずの愛を、ほんの少し使っただけで終わってしまうのです。それではあまりに悲しくはないでしょうか。

太平洋戦争の終わった後、しばらくして『私は貝になりたい』という本がベストセラーになりました。戦犯であった加藤哲太郎が巣鴨プリズン(現東京拘置所)で書いた本で、幼かった私にはハッキリと理解することはできませんでしたが、その本の題になった文章は、今も忘れられません。

私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い岩にヘバリついて
何の心配もありませんから。
何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、
……私は貝に生まれるつもりです。

その頃はただ暗い文章だと感じていただけでしたが、今改めて考えると、そこには豊かなものを持っていながら、戦争のためにその生命を散らして行かねばならなかった若者の心の叫びのように聞こえます。

豊かな愛を持ちながらわずかしか用いないで死んでいくのが人間の生き方であるならば、いっそ何も感じない貝であった方が良いとそこでは言っているのではないでしょうか。

人間性の溢れているところ

地上の生涯だけでは、自分の持っているものをすべて活用することは無理です。そうであるならば人として生まれたのが幸福だとは決して言えないでしょう。また、人の持つ知性や感性についても同じように言うことができます。

天才アインシュタインでさえ、その頭脳の20%位しか活用していないと聞きます。そうだとすると、私たち普通の人は10%も使ってはいないでしょうし、残りの90%を使うことは、永遠にないのかもしれません。

しかし、私は残りの部分は天国で活用できると思っています。そこには自分自身も知らなかった新しい才能が隠れているかもしれません。私はまだ弾いたことはありませんが、バイオリンの才能があるかもしれませんし、あなたは絵画の天才かもしれません。頭脳も今よりずっと優れていて、新しいことを理解したり、研究したりできるでしょう。

美しいもの、優れたものに感動する感性だって、私たちはもっと豊かに持っているはずです。美しい景色や、自然界の生き物の姿に深い感動を覚えたことがおありだと思います。けれど、私たちの毎日は、そうした喜びを忘れてあわただしく過ごしています。ですから天国に行ったとき、私たちは自分の感性の豊かさ、素晴らしさに目を瞠るでしょう。

又、身体というものの素晴らしさにも――。そこでは歩くのが楽しくて、走るのが楽しくて、働くのが楽しくて、身体の奥から生きている悦びが湧き上がってくるでしょう。

人間とは、これほど素晴らしく創られているのかと、驚くでしょうし、人として生まれて良かったと、心の底から喜びを噛みしめるでしょう。

本来あるべきところ

初めに書いたように、かつて私は、天国を求めるのは、ご利益を求めるのと同じと思っていました。が、今は違います。

そこは人間が本当に人間らしく生きられ、心から「こここそが、私たちの住むべきところ」といえる場所です。現在の私たちは、愛も知性も何もかも、ほんの少しだけ用いて、身を屈めるように生きています。でも天国では、すべてを自由に出し切って、のびのびと生きられるでしょう。

そしてその幸福な人間の上に、神の温かい目が注がれるのです。聖書にはこう書かれています。

「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章3、4節)

今、私の机の上には子ヤギと豹の寄り添った陶器があります。それは獣たちの間にさえ平和が漲っているという聖書の1節からイメージして作られたものです。そこには私たちが求めて得られなかった完全な平和があります。そうです。宇宙の中心にある天国こそ、神の用意してくださったあなたが本当にあなたらしくして生きられる世界、すべてのクリスチャンが求めてきた真の故郷なのです。

聖書の言葉
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。ヨハネの黙示録21章3、4節

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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