第3課 聖書の神

目次

聖書の神概念

聖書は、その冒頭において「初めに、神は天地を創造された」と宣言しています。これは聖書全体を通じて聖書が一貫して主張しているメッセージです。聖書は、神が全てのものの根源であり、全てのものは、その存在を神に依存していると述べています。

この聖書の教える神は、従来の日本の神の概念とは全く異なっています。キリスト教の神を神というなら、その意味での神は日本には存在しませんでした。聖書の世界においては、神と人間との区別は絶対的であり、聖書の神は超越的存在です。

仏教思想の権威であり東大名誉教授であった中村元氏が指摘していますように、元来日本では、空間的にあるいは序列的に上にあるものが「かみ」でした。それはあくまでも相対的なものだったのです。日本文化においては、昔から人間と区別された神(God)の観念がはっきり成立していませんでした。日本の「かみ」は、あくまでも人間の上下関係から出発しており、その人間のつながりの延長に存在するものとして理解されています。

日本社会においては、仏教の「かみ」も、日本的「かみ」に変容しました。「菊と刀」で知られる人類学者ルース・ベネディクトは「日本では、どんな人間でも死ねば仏になる。仏壇に祭られている家族の位牌を表す言葉が正に『仏さま』である。このような言葉遣いをする仏教国は、ほかにはない」と指摘しました。

そしてこの「仏さま」はまことに人間味あふれる「神々」です。社会学者見田宗介氏はこう表現しています。「仏壇には、お茶やご飯を『あたたかいうちに』供える。長い旅から帰ったら『おばあちゃまにアイサツをなさい』、学校でゴホウビをもらったら『お父様にご報告した?』、そして孫達が不良になれば『草葉の陰で泣いている』なんという優しい神々!・・・

ヘブライ的な神をもし神と呼ぶならば、日本人は神というカテゴリーを本来は必要としない。神の名において人間が価値づけられる世界とは逆に、人間的な幸福に寄与する能力の大小によって、『神々』が価値づけされる」(現代日本の精神構造)。

政治学者丸山真男氏は「日本社会の特質は、無限包容性である」と言いました。そして日本の宗教の特徴は、その無限包容性からくる「宗教の雑居性」であると言っています。多くの家庭では、神棚と仏壇が一緒に置いてあるように、神道と仏教が雑居しているのです。七五三では神社にお参りして、結婚式はキリスト教会で挙げ、葬式はお寺でする、ということに何の矛盾も感じないのです。日本社会は全ての宗教を包容する「無限包容の社会」、すなわち「あれもこれも」の社会なのです。

明治時代、日本人に布教を試みたキリスト教宣教師たちが一番苦労したのは、日本人に対して聖書の教える「超越者である唯一の神」を説くことでした。宣教師タムソンは「日本人は気軽なる人民なり。宗教においても正直に信仰す。されど余が今日までの実験に依れば、罪悪のために甚だしく悲しむのを見たること少なし。敬畏すべきエホバの神を信ずるユダヤ人と、親しみやすき地蔵観音に依頼する日本人とは、その宗教心おのずから異なりて、信念の傾向も別にするに至るは、止むを得ざることというべし。」(植村正久とその時代)と言っています。

ヘレニズムとヘブライズムが、西欧文明の二大源泉であることは周知の事実です。明治以来、近代日本は貪欲に西欧文明を吸収してきましたが、科学・技術・芸術・娯楽などヘレニズムにつながるもののみを選択的に受容してきました。これに対して、ヘブライズム(キリスト教)はほとんど受容されませんでした。キリスト教にしても、クリスマスや慈善事業に代表される「人間に優しい隣人愛としてのキリスト教」の側面のみを日本社会は受け入れてきましたが、人間を超越した神という思想は拒絶してきました。

全宇宙を支配される神

神が天地を創造されたということは、全宇宙は神のご支配の下にあるということです。万物は神のみ手の内にあって、神様に支えられて、はじめて存在しているということです。それは言い換えるならば、私たちは一瞬一瞬神様の力によって支えられて存在している、あるいは、私たちの存在そのものは神様に依存しているということです。天地創造の日から人類歴史を通じて神様が歴史を支配し導いておられるのです。

天地万物の創造主なる神が、この広大な宇宙を支配されているということは、まことに想像を絶する事実です。

地球は、太陽から1億5千万キロメートルという遠すぎも近すぎもしない距離に位置していて、地球環境は大気層に守られています。地球の軸がちょっと傾いているだけで、四季があり、暑い夏と寒い冬があるのです。この距離がちょっとでも違っていたならば、生物が棲息するには困難な環境になってしまうのです。

私たちの宇宙船地球号は、秒速30キロメートルの速さで太陽の周りを回り、太陽は太陽系の惑星を引き連れながら、秒速20キロメートルの速さでヘルクレスの星団の方向に向かって動いています。さらにヘルクレス星団は太陽系を伴って、銀河系の中心を半径3万光年の円を描きながら、秒速300キロメートルという超高速で宇宙空間を走り続けています。この銀河宇宙には、太陽のような恒星が1000億個も存在し、さらに観測可能な宇宙には何十億という銀河宇宙がちりばめられています。

近代科学の出発点には、神がこの世界を創造したというキリスト教信仰がありました。近代科学の基礎を造り上げたコペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどの著作を読むと、彼らの前提には、神がこの世界を造り、整然とした秩序をこの世界に与えたこと、そしてこの美しい秩序が自然の中に読み取ることができるという確信があったことが分かります。ガリレオは「神は二つの書物を書いた。一つは聖書であり、もう一つは自然である」という有名な言葉を残しています。

近代科学はどうして唯一、西ヨーロッパに、しかも近代という時代にのみ生まれ育ったのか、という問いに対して、科学史家・村上陽一郎東大名誉教授は、具体的史実を列挙した後、「近代自然科学は根本的には、キリスト教信仰の賜(たまもの)であり所産」であったと結論づけています。さらに彼はこう言っています。

「彼らは、キリスト教的偏見を捨て、宗教的迷妄から解放されてありのままの自然を見たから『自然科学的真理』に到達することができたのではなくて、この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ、『自然科学的真理』を得ることができたといえるのではないでしょうか。

『近代自然科学』なるものが、キリスト教のような『非科学的』な迷信から解放された結果として、つまり、誤った偏見や先入観を捨て去った結果として、誕生したという通説は、まったく根拠をもたないことがはっきりしたと思います。」(新しい科学論)

たとえば、惑星の運動についての有名な三法則を発見したケプラーは、実に何年もの間、この法則を見つけるまで複雑な計算に挑みました。毎日毎日、気の遠くなるような計算を繰り返している間、彼を支えたものは、この世界は神によって創造されたがゆえに、神の秩序があり法則があるという確固たる信仰でした。そしてついに「惑星の公転周期の二乗と公転半径の三乗との比は一定である」という結果に達したとき、彼は「神の偉大さを示すことができた」と躍り上がって喜んだのでした。

聖書は、自然界における神の栄光について、次のように称えています。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞こえないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩篇19編1-4節)

評論家の立花隆氏は、米国の宇宙飛行士とのインタビューをまとめて、「宇宙からの帰還」という本を書いています。

この本を読むと、彼らの宇宙飛行の体験は彼らにとって「テクニカルな体験であると同時に内的経験でもあった」ことがわかります。シュワイカートは「宇宙体験をすると、前と同じ人間ではありえない」と断言しています。宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものでした。彼らは、地球を離れて初めて無限なる宇宙の広大さを実感したのでした。ジーン・サーナンはこう言っています。

「月の上まできて地球を見るとき、この宇宙の無限の大きさが一層実感される。我々は何日もかけて、超高速のロケットに乗って、やっと月まできた。そして、地球を一つの天体として見ることができるくらい地球から離れることができた。だが、それだけの時間をかけて、それだけ地球から離れてみても、暗黒の宇宙に輝く無数の星のどれか一つに一歩でも近づいたわけではない。宇宙の眺めの中で変わったのは、地球の大きさだけであって、その他の宇宙には何の変化もない。無限の宇宙の中では、人類史上最長の旅で動いた距離も無に等しいのだ」。

有限なる人間が、無限なる宇宙を体験したとき、それはある者を宗教体験へと導いたのでした。ジム・アーウィンは彼の宇宙での体験を次のように表現しています。

「自分がここに生きている。はるかかなたに地球がポツンと生きている。他にはどこにも生命がない。自分の生命と地球の生命が細い一本の糸でつながれていて、それはいつ切れてしまうかしれない。どちらも弱い弱い存在だ。かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。これこそ神の恩寵だということが何の説明もなしに実感できるのだ。神の恩寵なしには我々の存在そのものがありえないことが疑問の余地なくわかるのだ」。

この無限に広がる大宇宙と、永遠の時の流れを考えるとき、パスカルが言っているように、なぜ私が「今」「ここに」存在しているのかということに恐れと驚きを感じざるをえません。

聖書は、全宇宙の創造者にして支配者なる神は、同時に私たち最も小さい者をも顧みてくださる神であると私たち教えています。それは実に驚くべきことです。故に聖書の中であの偉大なダビデ王は、こう問いかけるのです。

わたしは、あなたの指のわざなる天を見、
あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。(詩篇8編3-4節)

聖書は「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒言行録17章28節)と述べています。いうなれば、私たちは、全宇宙の創造主なる神の大きなみ手の中を、ただ、あちこちと動き回っているに過ぎない存在です。神様は、私たち一人一人を、文字通り手に取るように見守っていて下さるのです。

人間を探し求める神

神学者ヘッシェルは、聖書の神を「人間を探し求める神」と呼びました。アダムとエバが罪を犯し、神のみ前を避けて逃げた時、神は、まず神の側から「あなたはどこにいるのか」と彼らを探し求められました。反逆した人類への救いのイニシアティブは、まず神がとられました。聖書は「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4章10節)と述べています。

このように、聖書信仰の特徴は、神を父なる神と表現し、神と人間との関係を父と子の親子の関係でとらえていることです。その神は愛の神であり、人間はその神との愛の関係に入るように招かれているのです。

「我と汝」の著書で知られる哲学者マルティン・ブーバーは「真の人生とは出会いである」と言いました。彼はさらにこう言います。「真に生きている時間とは、出会いのある時間なのである。出会いという決定的瞬間において、今までにない、全く新しい事柄が我々に起るのである。人間が最高の出会いの瞬間の後は、それ以前とは全く違った人間になるのである。」

本物との出会いは、私たちの生き方を根底から変えてしまいます。私たちが体験しうる最高の出会いを、聖書は「神との出会い」と述べています。アウグスチヌスがあの「告白」の冒頭で「神よ、あなたは私たちをあなたに向かって造られました。私たちはあなたのうちに安らうまでは、安らぎを得られません」(告白)と述べているように、私たちは、神との出会いの体験をする時、本当の意味での平安を得ることができるのです

私たちを支えられる神

神は、ご自分を「私はあるというもの(自分自身で存在するもの)」(出エジプト3章14節)と宣言されています。神は永遠から永遠に存在されます。神は万物の出発点です。この聖書の主張に対して、無神論的現代科学は、私たち人間を含めて生物はすべて、無生物から生まれてきたと主張しています。

世界の始まりを人格的なもの(神)にするのか、非人格的なもの(物質)にするのか、その立場の相違は、その世界観や人生観に大きな影響を及ぼします。もし非人格的なものをもって世界の始まりとするならば、人間存在は全くの偶然にすぎず、人格について、あるいは人生の意味や目的について説明することが困難になってきます。

神の存在を否定し自ら無宗教を標榜する人は、自分自身が神とならざるを得ません。頼るものは自分自身だけなのです。自分の能力、地位、財産などが、一番重要なものとなります。それらが、生きる目的そのもの、すなわち最高の価値観になる時、それはその人にとっては神となっているのです。

第二次世界大戦後の復興において日本人はひたすら経済的繁栄を追い求めました。全てを犠牲にして経済的成功を追い求める日本人を、パキスタン人ジャーナリストは皮肉りながら「エコノミック・アニマル」と呼びました。それがたちまち日本人の代名詞として世界に広がったのですが、それはそれだけ皆の共感を呼んだからでしょう。

実はこの「エコノミック・アニマル」という言葉は、イギリスの経済史家トーネーによって、すでに定義されていたものでした。彼は、「(エコノミック・アニマルとは)神とか人間精神とか最高善については一切無関心で、ただひたすら経済的な成功や利益だけを追求している人であり、物質的な富の取得を人間の努力の至上目的とし、人間の成功を図る最高の基準であると考える人である」(宗教と資本主義の興隆)と定義しています。私たち日本人がエコノミック・アニマルと呼ばれること自体、実に宗教にかかわる深刻な問題であると言えるでしょう。

聖書はその冒頭で「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1章1節)と宣言しています。聖書は、この世界を偶然の産物ではなく、神のみ手によってできたものと主張しています。聖書はあくまでも人格をもった「永遠の存在者なる神」を前提としています。この創造者なる神こそが、私たちの存在の土台であり、人生に意味と目的を与えてくれることを聖書は私たちに教えているのです。

私たちが被造物であるということは、私たちの存在は神に依存しているということです。電源が切れれば、瞬く間にすべての明かりが消えてしまうように、神様のお支えがなければ、私たちは一瞬にして消滅してしまう存在なのです。

イエス・キリストは、私たち一人一人を支えたもう神についてこう言われました。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章25-34節)

神の愛と人間の愛

文学者伊藤整氏は、「求道者と認識者」という論文集を書いています。彼は、この中で「愛」の概念について考察しています。彼は、キリストの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)との言葉を紹介して、愛の本質は、他者本位、相手本位であると言います。しかし元来日本には、このような「愛」の概念は存在しなかったと述べるのです。

「だから、男女の愛の接触を理想的なものたらしめようとするとき、ヨーロッパ系の『愛』という言葉を使うのは、我々にはためらわれるのである。それは惚れることであり、恋すること、慕うことである。しかし、愛ではない。…男女の結びつきを、翻訳語の愛で考える習慣が知識階級の間にできてから、いかに多くの女性がそのために絶望を感じなければならなかったろうか。…心的習慣として他者への愛の働きかけがない日本で、それが愛という言葉で表現されるとき、そこには殆どまちがいなしに虚偽が生まれる。…・……

毎日の新聞を見るだけでも足りる。『愛しているのに私を棄てた』とか、『私を愛さなくなったのは彼が悪い』などという考え方でそれらは書かれている。愛しているのではなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、やがて倦き、逃走しているだけである。

………悔い改めと祈りに信仰の本質があり、人間として不可能なことを前提としているキリスト教的な愛の考え方、それと関連している男女の愛の考え方が存在している。つまり信仰による祈り、懺悔などがない時に、夫婦の関係を『愛』という言葉で表現することには、大きな根本的虚偽が存在している。」

彼は、神学者トマス・アクイナスの「私たちは、善の方向への努力を繰り返すが、常にそこから落ちてしまう。しかし諸々の善行の示す方向に神が実在するのである」という言葉を紹介して、「愛という上昇努力のないところにマイナスとしての罪は実感されないであろう」と言って、「マイナスを意識すること、罪なるものを意識することの大きな負担から我々日本人は解放されている」というわけです。

伊藤整氏は、自己中心的な愛とキリスト教の教える愛を対比させています。彼は、クリスチャンではないにもかかわらず、彼の「愛」についての理解は、キリスト教の核心を突いています。

新約聖書はギリシャ語で書かれています。ギリシャ語には、日本語の「愛」に相当する言葉が4つあります。親子の愛情を表す「ストルゲー」、友情・友愛を示す「フィリア」、男女の愛を含めて一般的な意味での愛を示す「エロース」、神の愛を表す「アガペー」の4つです。

聖書では、神の愛を表す「アガペー」を、一般的な意味での愛である「エロース」からはっきり区別しています。アンダース・ニグレンは、愛についての古典的著書である「アガペーとエロース」の中で、この二つの愛を対比させました。エロースは、愛するべき者に対する愛、すなわち愛するに価値がある者への愛です。このことは逆に言うならば、愛する価値のない者は愛さないということになります。これは自己の欲求を満たすための愛なのです。自己本位の愛であり、それは自己愛の裏返しなのです。人間の愛は、あくまでも自分本位の愛です。自分にとって価値あるものを愛する愛であり、条件付の愛です。

聖書の述べている神の愛は「アガペー」の愛であり、人間の愛とは本質的に異なっています。アガペーの愛は他者本位の愛です。愛するに価するか否かにかかわらず注がれる絶対的愛であり、それにより相手のうちに価値を創造していく愛です。救いに価しないものを救う神の愛なのです。自己犠牲的愛であり、無条件の愛なのです。

言い換えるならば、人間の愛(エロース)は求める愛であり、神の愛(アガペー)は与える愛なのです。聖書は「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5章8節)と述べています。

敬虔なクリスチャン文学者C・S・ルイスは、ギリシャ語の「四つの愛」についてその関係を「人は、エロースの愛によってこの世に存在するようになり、ストルゲーの愛を受けて育ち、フィリアの愛によって成長し、アガペーの愛によって救われる」と美しく表現しています。

三浦綾子さんは「塩狩峠」という小説を書いています。これは、実在のクリスチャン鉄道員長野政雄氏がモデルになっています。

明治42年2月28日、塩狩峠を登っていた列車の最後尾の車両の連結部分が切れて、後ずさりを始めました。そのままでは、列車はコントロールを失って転覆してしまいます。車掌として乗務していた長野政雄さんは、とっさに飛び降りて、自らの体を投げ出して車両の歯止めとなったのです。車両は長野さんの体に食い込み、長野さんを押しつぶして止まったのです。列車は転覆事故という大惨事をまぬかれましたが、それは長野さんの命という尊い犠牲の上に成り立ったのでした。

三浦さんは、この小説の冒頭に「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」(ヨハネ12章24節)というキリストの言葉を掲げています。

この長野さんの犠牲的愛の行為は、まさにキリストの十字架の犠牲を示しています。長野さんの犠牲的行為によって乗客の命が救われたように、キリストの十字架の犠牲的愛の行為によって、全人類が救われる道が開かれたのです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(1ヨハネ4章9-10節)

人間中心から神中心の世界へ

ノーベル平和賞受賞者であり、黒人解放運動の指導者としての数々の迫害を経験し、ついにそのために殉教の死を遂げたマルチン・ルーサー・キング牧師は「われらの神の能力」という説教の中で次のように言っています。

「唯一の神だけが有能であり給う。われわれが再発見しなければならないのは、唯一の神に対する信仰である。この信仰によってわれわれは寒々と荒れ果てた谷間を日の当たる喜びの小径に変え、悲観論という暗い洞窟に新しい光をもたらすことができる。・・・なぜ絶望するのか。神は諸君に変えようのないものを耐え忍ぶ力を与えることができる。なぜ不安なのか。何でも来るなら来い。神は有能な方なのだ。・・・・

我々の日々が低くたれこめた雲で、やるせないものとなり、我々の夜々が、真夜中の千倍も暗くなってしまう時、我々は、この宇宙には一人の偉大な恵み深い方がいまし、その名を神ということ、そしてその方が道なきところに道を開き、暗黒の昨日を輝かしい明日に変える能力を持っておられるということを思い起こそうではないか」。

E・トゥルンアイゼンは、神学者カール・バルトとの死の前夜の会話を記しています。カール・バルトは世界情勢について語った後、次のように言ったということです。

「そうだ。世界の状況は暗い。だが耳に入ってくることだけを頼りにしちゃいけない。断じていけない!治められているのだから。ワシントンやモスクワや北京ではない。天において、だよ。だから心配はない。どんな真っ暗な瞬間でも心配はないよ!」。

敬虔な宗教家エレン・ホワイトは、歴史を導かれる神について次のように述べています。

「人類の歴史の記録の中では、世界の諸国民の発展や諸帝国の滅亡は、人間の意志や勇気に左右されているかのようにみえる。色々な事件の形成はその大部分が人間の能力や野心あるいは気まぐれによって決るかのように見える。しかし、神の御言葉である聖書の中には幕が開かれていて、我々はそこに、人間の利害や権力や欲望の一切の勝ち負けの上に、またその背後に、あるいはそれを通して、あわれみに満ちた神の摂理が黙々と忍耐深く、御自身の目的を達成するために働いておられるのを見るのである」。

全能なる神を信じることとは、人間中心の世界から神中心の世界へ招き入れられることです。コペルニクス的転回という言葉があります。昔の人々は、地球が宇宙の中心であり、太陽やその他の天体は地球の周りを回っていると考えていました。ところがコペルニクスが出てきて、実は、太陽が中心であり、地球はその周りを回っていることを示しました。このように、世界観、人生観などの根本的考え方がひっくり返しになることをコペルニクス的転回といいます。私たちが神を信じるということは、まさにこのコペルニクス的転回を経験することなのです。以前は、神も含めて、全ての世界が自分中心に回っていたのが、神との出会いを体験することによって、神中心の世界に変えられてしまうのです。

その時、私たちの人生の究極の目標は、ただ「神のために」という生き方に変えられていくのです。あの偉大な作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハは、全作品の楽譜の最後にS・D・Gと書き入れました。これは「ただ神の栄光のために」という意味のラテン語の略号です。被造物である私たちの全ての活動、私たちの人生の一つ一つの歩み、それらがたとえどんなに些細なものであっても、全ては神の栄光のために捧げられるのです。

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