第13課 世界の終末とキリストの再臨

目次

人類歴史の終結

1972年、有名なローマクラブの「成長の限界」というレポートが発表されました。この報告の中で、「世界の人口や工業化、汚染、食糧生産の増加、資源の消費がこのまま続くと、今後100年以内に成長は限界に達し、人口と工業生産が突然減少し始めて、人間のコントロールが効かなくなるであろう」と主張しました。当時経済成長に酔いしれていた世界の人々にとって、実にショッキングなレポートでした。その真実性を立証するかのように、その直後の1973年、世界は石油ショックの危機に見舞われました。

現在では、ローマクラブの警告の真実性を疑う人はいません。砂漠化する地球、深刻な食糧危機・飢餓問題、地球化する汚染問題、温暖化現象、爆発する人口など、今まで人類歴史において考えられなかった課題が次から次へと出てきています。ハワイの博物館には「人類の墓」が建てられ、その墓碑銘には「この種族は、自らの作り出した廃棄物と有害物と人口のために、2030年に絶滅した」と書かれていたということです。

1998年、柳田邦男氏は20世紀の諸問題を振り返りつつ「20世紀は人間を幸福にしたか」という本を著しました。この本の冒頭で彼はこう述べています。

「世界がこんなにも激しく揺れ動き変貌した世紀は、かつてなかった。だいいち、同時に変動する『世界』などというものは前世紀まで成立していなかった。この世紀ならではの出来事をとらえて名称を与えるならば、20世紀は、世界戦争の世紀、大量殺戮の世紀、民族自立・民族紛争の世紀、革命とイデオロギーの世紀、第三世界勃興の世紀、科学技術の世紀、大量生産・大量消費の世紀、メディアの世紀、大衆文化の世紀、女性の世紀、地球環境破壊の世紀・・・等々、実に多彩である。」

理性と科学の世紀として、期待と希望に満ちて幕開けした20世紀のその後の歩みは、人々の期待を全く裏切るものでした。特別に神を信じない者でも、地球の抱えるさまざまな問題を見るとき、その将来に対して危機感を抱くのはもっともなことでしょう。多くの指導的な政治家・科学者たちは、世界の終末的状況に心を痛めています。

聖書は、人類の諸問題に対して究極的な解決がもたらされるのは、社会改革・革命や文明の発達などの人間の力によるものではなく、地球外部からの神の介入によると教えています。聖書は、キリストの再臨こそが人類歴史の最終的完成のときであると教えています。

近代日本のキリスト教界の指導者・内村鑑三は、キリストの再臨についてこう述べています。

「再臨がありて天国が現はるるのであって、人類の自然的進化、又は社会の改良、又は政治家の運動に由て神の国の地上に現はるるのではない。余は今は此等の事を疑はずして信ずるを得て神に感謝する」。

聖書の冒頭は「初めに神は天地を創造された」(創世記1章1節)との言葉で始まっています。そして聖書の最後は次の言葉で終わっています。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22章20-21節)。

聖書は、人類歴史は、神による天地創造をもって始まり、キリストの再臨(二回目の来臨)をもって完成することを教えています。キリスト教の歴史観は、仏教のような輪廻の思想ではありません。回るのではなく、一方向に向かっていっているのです。歴史には、はっきりした目的があり、始まりと終わりがあります。私たちはその始めと終わりの間を生きている存在なのです。この世界は、神のご計画のもとに、キリストの再臨という人類歴史の最終的完成に向かっています。キリストが来られる時、天におけるように地においても神様の御心が完全になされるようになります。

ご在世当時、キリストは弟子たちに再臨について約束され、次のように言われました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章1-3節)。

クリスチャンは、キリストの初臨(2千年前のキリストの誕生から復活まで)において啓示された福音に生かされ励まされながら、人類救済のクライマックスである再臨を待ち望みつつ、この世の旅路を歩んでいきます。「マナラ・タ(主イエスよ、来てください)」は、使徒時代以来、各時代を通じてのクリスチャンの祈りと希望の源泉でした。

聖書において、キリストの再臨は重要な教えです。旧新約聖書を通して、再臨の約束が何回も出てきます。ある神学者は、旧約聖書では1527節、新約聖書では319節がキリストの再臨について言及していると言っています。

裁きと救いの完成のとき

黙示録では再臨の光景がこう描かれています。それは神の怒りと裁きの日であると聖書は述べています。

「天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、『わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ』と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」(黙示録6章14-17節)

聖書は、私たち一人一人は自分自身の人生に対して責任を持っていることを述べ、神の裁きを受けなけらばならないことを教えています。

「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(コリント第二、5の10)。

「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16章27節)

キリストの裁きは厳しいものです。キリストの前に隠れたことはありません。「神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう」(コヘレト12章14節)といわれている通りです。聖書は「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と述べています。その意味で、キリストの裁きに耐え得る人は誰もいません。キリストの再臨は、神に逆らってきた者にとっては、恐ろしい裁きの日になるのです。

しかし、クリスチャンにとっては、キリストの再臨は、喜ばしい救いの日となります。キリストの十字架の犠牲を信じる者は、罪の赦しをすでに得ており、永遠の命に授かるときとなるからです。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6章23節)。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(ローマ5章20節)。

クリスチャンにとっては、裁き主なるキリストは救い主でもあるのです。ゆえに、クリスチャンにとっては、キリストの再臨は救いをもたらす希望に満ちた日です。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブル9章27-28節)。

「また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」(2テサロニケ1章7-10節)。

全ての人に見えるかたちで

キリストの再臨の光景について聖書はこう描写しています。

「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(黙示録1章7節)。

「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ24章30節)。

キリストは「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(マタイ24の27)と弟子たちに教えられました。キリストは、全ての人にはっきり見える形で再臨され、救われた者たちは天に挙げられ、空中で主にお会いするのです。

キリストは、十字架にかかり亡くなられましたが、三日目に甦られました。そして、弟子たちの見ている前で、天に帰っていかれました。聖書はこう述べています。

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」(使徒言行録1章9-11節)。

死人の復活と生きている者の栄化

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」(1コリント15章51-55節)。

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(1テサロニケ4章16-17節)

キリストの再臨のとき、まずキリストにあって死んでいた者の復活があり、そして生きている者が天に挙げられます。ある人たちはキリストの再臨を空中再臨と呼んでいます。キリストはこの地上まで降りてこられずに、救われる者たちが天に挙げられ(携挙され)、空中でキリストと出会うからです。

1995年、米国で「レフトビハインド(LeftBehind)」という本が出版されて多くの反響を呼び起こしました。この本は、またたく間に20世紀のベストセラーの一つになりました。この本の内容はこうです。ある日、多くの人たちが一瞬にして姿を消してしまい、他の者たちは残されて(LeftBehind)しまいました。みんなの見ている中で、多数の人たちは自分の着ていたものだけを残して突然いなくなってしまったのです。世界的規模で起こったこの謎の人体消失事件に人類はパニックに陥るというストーリーです。

実は、この突然消失してしまった人たちは、携挙されて天国に行ったというのです。そしてキリストの再臨はその7年後にあり、この神の携挙を逃した者は、この間にもう一度救いのチャンスが与えられると続きます。

しかし、聖書を注意深く読むと、この携挙はキリストの再臨と同時に起こることが分かります。また、キリストの救いの完成はこの再臨の時にあり、この時に滅ぼされる者は永遠に失われることが分かります。

キリストにあって死んだ者は、不死のからだに復活し、生きている者は栄光のからだに変えられます。死はもはや人類を支配することはありません。「最後の敵として、死が滅ぼされ」(1コリント15章26節)たのです。救われた者は、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(1コリント15章55節)とキリストによる勝利を賛美します。

筋ジストロフィーという難病と闘いつつ亡くなられた難波紘一氏は、その著書「この生命燃えつきるまで」の中で次のように言っています。

「私は、やがて苦しみの本番を迎えようとしています。それでは、死に勝利する秘訣はどこにあるのでしょうか。私が平安に死を迎える秘訣はどこにあるのでしょうか。それは、私の苦しみに先立って苦しみ抜かれたイエスさまを全面的に信頼し、この方に私の全存在をおまかせする以外にはないのです。・・・・・・

この、体のよみがえりこそ、私のように体が日に日に衰え、滅びていく者にとっては、最大の希望となっているのです。私は、この世ではみじめな最後を迎えなければならず、毎日毎日、肉体の終点に向かって確実に私の病気は進行していきます。その、滅びゆく自分の肉体が、終わりのトランペットの響きと共に栄光の姿に変えられるというその一点を見つめつつ、今、すべての苦難、苦痛を耐え忍びながら、淡々と残された日々を送っていく。それが、私の喜びであり、私の希望となっていくわけです」。

公平で平和な世界の確立

私たちの生きている現実の世界は、なんと不公平で理不尽なことが多いのでしょうか。多くの人が、この問題に心を痛めてきました。ドストエフスキーは「悪霊」の中で、スタブローキンをして「神がいないから、全ての事が許される」と言わしめています。

預言者エレミヤは次のように神に問いかけています。

「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」(エレミヤ12章1節)。

理不尽なこの世界に住みながら、クリスチャンを支えてきたのはこの再臨の希望でした。この世における苦しみや迫害に耐えながら、彼らはひたすら再臨を待ち望んできました。再臨こそ、神の平和と秩序が回復されるときでした。ヘブル書の著者は、再臨信仰に生きた彼らの生き様についてこう述べています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブル11章13-16節)。

ヘブル書の著者は、さらに続けて信仰の勇者たちについて述べた後、彼らは、「無一物になり、悩まされ、苦しめられ、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた」と述べて、「この世は彼らの住む所ではなかった」(ヘブル11章37-38節)と付け加えています。チャールス・エドマンは、ヘブル書のこの箇所について「神の偉大な勇者たちは、この世に住む価値の無いものかのように扱われた。しかし実際には、この世が彼らにとって住む価値の無いところであった」と解説しています。

この再臨の希望は、この世での辛い苦しい経験をしている人たちの希望の源泉でもありました。戦後の日本キリスト教会の指導者であった鈴木正久牧師は、すい臓がんで亡くなられました。彼は、その闘病生活の中で次のように書き残しています。

「わたくしに与えられたこの世の生活が、このようにして、内臓をすっかりガンにおかされて終わるということは、入院当時には実は考えていなかったことでした。しかし今はこのことが全く神の摂理であり、『神のなされることは皆その時にかなって美しい』(伝道の書3章11節)ことを覚え、わたくしの生活の頂点として、主とそのみ国をこのように深く真剣に思う時を与えられた恵みに感謝しております。

わたくしの肉体はやせ細り、日ごとに衰弱の度を加えております。すでにひとりで寝返りをうつこともできなくなりました。しかしわたくしは『死を待つ』のではなく、『キリストの日』に向かって歩みを進めているのです。この確信を得ることによって、わたくしはとても元気で過ごしております」。

死の病床にあって、彼を支え、力付けたものこそ、再臨への希望でした。この希望こそが多くの人たちの苦しみを堪え抜く力を与えてくれたのでした。死に臨んでもなお、望みについて語ることができるのはクリスチャンの特権です。キリストの十字架の死と復活により、神は私たちに天国への門戸を開いてくださいました。キリストが再臨されて、この世界が新たにされる時、私たちの苦難の問題に最終的な解決が与えられるのです。私たちの痛み、苦しみ、そして死さえも一時的なものにすぎないことを聖書は私たちにはっきり教えています。

再臨によってキリストの王国は永遠にわたって確立されます。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7章13-14節)

再臨において、私たちが日ごとに唱える「主の祈り」の『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』(マタイ6章9-10節)との祈りがついに成就するのです。

新しい地とは

使徒ヨハネは、黙示録で来るべき天国についてこう描写しています。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』

すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」(黙示録21章1-5節)。

聖書からの描写をいくつか引用してみましょう。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11章6-9節)

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。
そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザヤ35章5-10節)

「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない。
わたしの民の一生は木の一生のようになり、わたしに選ばれた者らは、彼らの手の業にまさって長らえる。
彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。
彼らは、その子孫も共に、主に祝福された者の一族となる。
彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。
狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、
わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」(イザヤ65章20-25節)

これらの表現は、あくまでも人間の言葉で人間が分かるように書かれたものです。天国は、私たちの理解と想像力をはるかに超えたところなのです。聖書は、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(1コリント2章9節)と述べています。

再臨の待ち方

キリスト教の歴史を通して、多くの人たちが、再臨の時期を知りたいと思い色々と推測してきました。キリストの弟子たちもキリストにその時期について質問しています。

「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか』」(マタイ24章3節)。

これに対してキリストはこう答えられました。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(マタイ24章42-44節)。

私たちは、あとどのくらいでキリストが来られるのかはっきり知ることはできません。その日その時は、神のみが知っておられるからです。しかしキリストは、私たちにキリストの再臨の近いことを示す「時の兆し」に心を留めるように言われました。

「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」(ルカ21章29-30節)。

キリストは、憐れみをもって罪の世界を見守っておられます。しかし、いつかはキリストが、罪の歴史に終止符を打たれ、罪の問題に対する最終的解決をなされるときが来るのです。そして、公正と平和に満ちた世界を確立されるのです。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(2ペテロ3章8-9節)。

「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ローマ13章11-12節)。

私たちが時を知ること、私たちの生きている時代がどのような時代であるかを知るということが、きわめて大切です。もし私たちの信仰が眠っている状態にあるならば、今現実に起こっている事態を察知することはできません。「平和だ、無事だ」と言っている間に、世界は確実に終末に向かっているのです。

パウロは、「眠りから覚めるべき時がすでにきている」と言っています。いわゆる私たちの見る現実と聖書の語る事実とはギャップがあるように思えることがあります。むしろ断絶があるとさえ言ってもよいでしょう。しかし、信仰の目を持ってみるならば、聖書の語る事実こそが、究極のリアリティーであることを悟ることができます。

確かに闇が私たちのまわりを覆っています。しかし信仰の目を持って見るならば、夜は決していつまでも続くのではなく、必ず夜明けが来ることがわかります。夜明けは近づいています。だからこそ私たちは、いつまでも眠り続けるのではなく、新しい朝を迎える者としてその準備をすることが求められているのです。

「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(2ペテロ3章10-14)。

ある人はクリスチャンのいきかたについて「私たちは、主イエスが明日来り給うかのように待ち備えをするが、なおこの地が千年続くかのようにこの地を耕すのである」と表現しました。終末信仰に生きる者は、日々の生活においてキリストの再臨を心から待ち望みつつ、かつ、積極的にこの世における責務を果たしていくのです。

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