第5課 ほんとうの愛はどこに

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一人では生きられない人間

「わたしは人の世話にならない。自分一人で生きていく」などと言うことがあったとしても、それはあくまでも言葉のあやで、実際だれの世話にもならずに生きている人間など、一人もいないのです。人間は読んで字のごとし、人と人との間柄、関係の中にあって、はじめて人間となるのです。どのように人との関係を結ぶかが重要で、よい人間関係を持てない人は、豊富な物に囲まれていても、心は満たされないのです。

宇宙にたった一人しかいない自分を自覚できる人間は、自分を自分として認めてほしい、自分に付随した何かではなく、素の自分そのものを受け入れてほしいという願いを持っています。あるがままのその人をまず受け入れ、たいせつにすること、それが人をかけがえのない人格として愛するということなのですが、なかなかそれができないのです。

人間の愛の限界

一口に「愛」といっても種類があるようで、偽りの愛についてイエス・キリストは次のように言われました。

「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している」(ルカによる福音書6章32節、口語訳)。

互いに傷つけあう人間の罪の問題は、自分の利益になる者しか愛そうとしない人間の自己中心性にあるとイエスは看破されました。ほんとうの愛を失っているところに人間の問題の本質があるのです。さまざまな条件をつけて、その条件にかなう間は愛しますが、条件に合わなくなれば、愛もなくなります。相手を愛しているように思っていますが、結局自分を愛しているにすぎないのです。

親の愛は無条件のようにいわれますが、やはり自分のめがねにかなう、能力、容姿、性格を持った自慢の子ほどかわいいのです。親の意に反する行動を取り続ける子を愛するのは容易なことではありません。

愛が試されるとき

世の中には、わたしたちの想像もつかないむずかしい病気があります。聡子ちゃんはその名の通り聡明な女の子でした。6歳のとき、初めて自転車に乗れたうれしさから「アッ、乗れた!」と叫んだのが始まりで、それ以後本人の意思と関係なく突然大きな声が出る病気に悩まされるようになります。「ママ、止めてよ。のどが痛いよ」と泣きながら訴えられても、家族はオロオロするばかりでどうしてあげることもできません。そのうちそれに卑猥な言葉や、舌を長く出す動作が加わるようになりました。普段は明るく、愛らしい子なのですが、いつどこで奇妙な行動が始まるのか、本人にもわからないのです。学校の先生をしているおとうさんとすれば、世間体もあり、とても聡子ちゃんを連れて家族で外出するどころではありません。家族から笑いが消えていきました。大学病院でみてもらったり、拝み屋さんに拝んでもらったりしましたが、らちがあきません。

聡子ちゃんが、中学、高校と年齢が進むに連れ、酒、タバコ、万引き、妊娠、覚醒剤、母親への暴力と問題はエスカレートしていきました。おとうさんも「自分が聡子を連れて、いっそのこと車で自爆すれば、みんなの苦しみも終わる」と口走るまでに追い込まれていきました。おかあさんの恵子さんは、当時を振り返って、その著『ママ、私の声をとめてちょうだい!』(文芸社)の中で次のように記しています。

「苦しかった。聡子の親であることが非常にせつなかった。すべてを投げ出してしまいたいほどに……。だが、私たち以上に娘はもっともっと苦しかったのだ。……支えきれなかった。両親揃っていながらも、聡子の病を、聡子自身をも負いきれなかった。そんな情けない私たちに、娘は見切りをつけてしまったかのように、悪の道へと真っ逆さまに落ちていってしまったのだ。たった一人で!」

現代医学をもってしても治療法のない病気、娘が次々に引き起こすすさまじいほどにショッキングな出来事。家庭崩壊、一家心中が他人事とは思えない状況でした。

真実な愛との出会い

転機はおかあさんの恵子さんが、キリスト教系の食品事業「三育フーズ」に勤めたことから訪れました。職場の同僚との接触、祈りによって、ほんとうの愛を見失ってしまった人類に真実な愛を示すために世に来られた神の御子、イエス・キリストの愛に出会い、恵子さんは救われたのです。

聖書には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネの第1の手紙4章10節、口語訳)とあります。

神の愛にそむく罪人を救うために、自らを十字架にささげてまで、人間に愛とゆるしを与えられるキリストの無条件の愛に触れて恵子さんは変えられていきました。前述の自分の体験を記した本の結びに、恵子さんは次のように書いています。

「今、私にとっての隣人、聡子をあるがままに愛することがようやくできるようになった。とてもいとおしいほどに、娘の大きな叫び声も、勝手に動いてしまう体も、すべてをそのまま受け入れることができるのである。……隣人を愛するとは、このイエスさまの自己犠牲の愛を受けることによって、私たちが造り変えられた結果、なしうる行為である。人間の愛では、どんなにも数多くの努力を積み上げたところで、隣人を愛することは不可能であろう」。

愛の足りないわたしたちを、ほんとうの愛でもって救うことができるのはこのお方です。

祈りの言葉
神さま、私は自分の人生にとって愛されることがいかに必要かがわかりました。しかし、自分は愛されることを求めながら、人を無条件で愛することができません。確かな愛はあなたの中にだけあり、しかもこんな私さえ愛してくださることを感謝いたします。ほんとうの愛を私の心にも与えてください。
イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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