第3課 過去の文明はなぜ崩壊したのか?

目次

人類史最後の5分間

ある大病院の産科病棟の入口に、だれかが次のような掲示を貼りました。「人生の最初の5分間はとても危険だ!」

新生児が誕生しようとするとき、この言葉は、看護婦や医師になにがしかの注意を促すためのものでした。ところが数日後、別のだれかが、この掲示の下に次のような言葉をつけ加えたのです。「人生の最後の5分間も楽観視はできない!」

私たちは人生の最初の5分間と最後の5分間の間のどこかに生きているわけです。しかし真実が明らかにされれば、「人生の」ではなく、「人類史の」最後の5分間が想像以上に接近していることがわかるでしょう。

さて、読者のみなさんはアーノルド・トインビー卿をご存じでしょうか?高校や大学時代の歴史の授業で、彼の名前をお聞きになった方もいるはずです。たとえ、彼の名前をいままでに聞いたことのない人も、彼が述べた文明の崩壊を示す6つの徴候について学ぶなら、きっと忘れられない名前になると思います。

しかしこれを詳しく調べる前に、人類史の最終時代に天高く飛びながら、大声で叫んでいた、あの天使の声にもう1度耳を傾けましょう!

「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい』」(ヨハネの黙示録14章6、7節)

この緊急な警告の中には、とてもすばらしいメッセージがあること、そしてこれに続く収穫の描写は人類文明の最後の象徴でした。

「また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。『鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています』」(同14~15節)

不気味な結論

ところで、この緊急なメッセージとトインビーとの間に、どんな関係があるのでしょうか?これから少しずつ説明してゆきますが、実は深い関係があるのです。

トインビーは英国の歴史家で、長年ロンドン大学で教鞭を取っていました。彼は、いまから約50年前に、『歴史の研究』という12巻からなる有名な本を書き、世界の諸文明の興亡を詳しく分析します。そして、その中で不気味な結論にたどり着いたのです。

この膨大な研究の中で、彼は、古代ローマ、中国、バビロニア、ギリシア、アステカ、日本、インド、マヤなど、21の異なる文明の歴史を細かく分析し、それを土台にして「文明の解体」という副題をつけた第5巻目を著します。その本には、世界文明の解体と崩壊の6つの徴候が記されているのです。いずれも不吉な予言です。

タイタニック号のように、私たちの文明も破滅のコースをたどっているのでしょうか?スター・ウォーズの最終章が、私たちの前に開かれようとしているのでしょうか?それでは、みなさんと一緒にトインビーの6つの徴候を一つひとつ見てゆきましょう。

トインビーの説く世界文明の解体と崩壊の6つの徴候とは

1.文化的自殺行為(「魂における分裂」)

2.ずる休み(現実逃避)

3.漂流意識

4.罪悪意識

5.混交(こんこう)意識

6.放縦(ほうじゅう)感覚

文明の崩壊を示す第1の徴候

トインビーによれば、社会の解体は他文明の侵略によって起こることは少なく、むしろ文化的自殺行為(彼が「魂における分裂」と呼ぶもの)によってもたらされる、といいます。文明が崩壊する前に、まず社会の集団的心理の内面深くに割れ目が生じ、その「魂の割れ目」ともいうべきものが外面にあらわれてくる、というのです。歴史上、このようなことが実際に起こったでしょうか?もちろん、起こりました。私は、大ローマの円形闘技場跡を訪れたことがあります。この廃虚は、「魂における分裂」、つまり文化的自殺の悲しむべき古典的実例の1つとして今日も存在しているのです。余暇の時間を楽しく過ごすためにローマ市民は闘技場に集まり、命ある人間が切りつけられ、血を流し、殺されてゆくさまを、拍手しながら眺めたのでした。それはまさに、血とはらわたの流れる乱痴気騒ぎでした。こうして日曜日の午後、娯楽のために多くの男女や子供が殺されていったのです。

今日、文化的自殺行為は、もう一度くり返されていないでしょうか。いまここで世界各地のテレビ番組を分析しようとは思いませんが、私は、母国アメリカが身代わりの人々の血とはらわたを見て楽しむような番組の最大の製作者である事実を悲しく思っています。しかし、世界のどこに住んでいる人でも、現代社会が血に飢えており、娯楽のために暴力の犠牲となる相手を求めていることを感じておられるでしょう。

今日、私たちがローマ崩壊の悲劇をくり返していることをだれも否定できません。しかも、私たちはそれをもっと徹底的に緻密な形でやっているのです。滅亡が私たちの上に忍び寄っていることに気づいていないだけに、事態はもっと嘆かわしく、危険なのです。

文明の崩壊を示す第2の徴候

第2の徴候は、トインビーが「ずる休み(truancy)」と呼んでいる感覚です。これは「現実逃避」と言い換えてもよいもので、気晴らしと娯楽の世界に逃れて社会の問題から精神的に逃げることなのです。

『U・S・ニュース&ワールド・リポート』誌の目玉記事で極限スポーツの流行に関する次の一文は、この第2の徴候のすべてを語り尽くしています。

「危険、スリル、あらゆるものへの挑戦。危険度の高いスポーツは、アメリカ人の退屈な生活への刺激剤となっている。……スリルを求めるアメリカの若者たちのあこがれとなっているこれらのスポーツは、マジソン街でつくられた呼び方では『極限のスポーツ』といい、都会の街角やオフロードやテレビのスクリーンなどに飛び出してきている」(1997年6月30日号)

氷上を時速50キロ近くで走るスピードスケート。4000メートルの上空から飛び降りるスカイサーフィン。夜間、ビルや橋、鉄塔や崖から、パラシュートを背負って飛び降り、地上ギリギリで開くスポーツなど。これら極限のスポーツが、いまや地球全体に取りついてしまったのです。

もちろん、体を動かしたり、スポーツやレクレーションを楽しむことに反対する人はいないでしょう。ただ、トインビーの言おうとするところは、解体しつつある文明はこの「ずる休み」、すなわち気晴らしや娯楽にのめり込む現実逃避主義に負けてしまうということです。

さらに洋の東西を問わず、地球規模でアルコールや麻薬や熱狂的パーティーのために、何千億円ものお金が使われています。トインビーが、次の第3の徴候を確信をもって述べることができる状況になっているのです。

文明の崩壊を示す第3、4の徴候

第3の徴候は、トインビーが「漂流意識」と呼んでいるもので、「人々が無意味な宿命論(運命は定まっており、変えようがないという考え)に身をまかせ、人間の努力は何の意味もなく、自分の人生に対して何も制御できないと言わんばかりの生き方」(G・E・ベイス『ポストモダン・タイムズ』)のことです。

トインビーは、一般大衆の宿命論(無能感、無気力)について次のような描写をしています。たとえば、世界的な投票率の低下は、一般大衆が政治不信に陥っていることを示すばかりでなく、「私に一体何ができるというの?」といった「漂流意識」に負けてしまっていることを示す充分な証拠だというのです。

第4の徴候は、道徳的わがままの結果として生じる自己嫌悪感や罪責感、トインビーの言う「罪悪意識」です。

米国の「サタデイ・ナイト・ライブ」や深夜番組のトークショーなどを見て、軽薄な笑いや下品な冗談の背後に覆われている罪責感を感じてください。あるいは、世界の精神科医や心理学者に、彼らの患者たちのうちどれほどの人が、個人的な罪責感によって打ちのめされているかをたずねてみてください。

トインビーは、綿密な研究の結果、一般大衆の罪責感や罪悪意識が崩壊の運命にある文明にあらわれる、と指摘しています。なぜなら、社会はその罪悪を嘆きはするものの、その罪悪の増加をほとんどくい止めることができないからだ、というのです。

文明の崩壊を示す第5、6の徴候

第5の徴候を、トインビーは「混交意識」と呼びました。これは、迫りくる破滅の運命から逃れるために何でも無差別に受け入れ、意味を見つけるために何でもやる、といった心理的状況を述べた言葉です。もう少し具体的に言えば、この混交意識というのは、宗教、文学、言語、芸術、風俗習慣などに対する無批判な寛大さのことで、これらが一緒に混ぜ合わされたものをしっかり内容の見極めもせずに受容してしまうことです。

ここでニューエイジ運動を思い出してみましょう。いまや地球上の知的で思索的な人々をすさまじい勢いで巻き込んでいる運動です。これは多神教と宗教、心霊術と哲学、ヒューマニズムと有神論など、これまでの文明が体験したことのないほど、あらゆるものを混ぜ合わせた混交運動なのです。頭の良い、高等教育を受けた人間たちが、意味と希望と確信をつかむために、奇怪な素材に魔術と希望を混ぜた飲料をつくり、飲もうとしています。

さて、解体の瀬戸際に立つ文明の第6番目の徴候は、現在の地球全体にわたって不気味なほど符合するものです。トインビーは、解体しつつある社会は「放縦感覚」に麻痺している、と述べます。そしてこの「放縦」という言葉を、「創造性の代替物としての反戒律主義を受け入れている心的状態」(『歴史の研究』第10巻)と定義しています。

道徳無視、社会法規無視の不法精神が世界中にはびこっていないでしょうか。東京やロンドンの地下鉄で、ニューヨークの高層ビルやボスニアの市場で、テロリズムが突発しています。ルワンダやカンボジアでは集団虐殺がありました。人間の野蛮な行為、殺人、暴力は、ハリウッドの大スクリーンに映されているとおりです。私たちの日常生活においても、盗み、詐欺、不正申告などがいたる所で見られます。

すべての文明は、いつかは起こる全体的崩壊を早めるものが、実は堤防のほんの小さな穴なのだ、という昔ながらの真理を学ぶのにあまりにも遅すぎたのです。すでに過去のものとなった21の世界文明を、トインビーは検死するようにするどく分析しました。その結果わかったことは、現代社会に見られる凶暴な不法精神が、現代文明の終焉を告げる前兆であるということです!

不吉な預言に対する解毒剤

冒頭でもご紹介した、最後の時代に空高く飛んでいる天使(ヨハネの黙示録14章6、7節)は、大声で何と叫んでいたでしょうか?人類史の終わりにおけるあの訴えが、トインビーの説く6つの徴候と完全に符合したとしても、決して驚く必

要はないのです。

特に、第6番目の徴候が重要です。もし私たちが、第6番目の徴候を少しでも抑えて改善できるとしたら、その過程において、第1番目から第5番目までの徴候に対する解決策も見つけることができるかもしれません。その結果、遅すぎないうちに現代文明を救えるかもしれないのです。これはあまりにも楽天的な見方でしょうか。私は、そう思いません。

この天使の叫びと関連する言葉が、旧約聖書の中に記されています。そしてこの言葉の中に、トインビーの不吉な予言に対する解毒剤を見いだすことができるのです。「すべてに耳を傾けて得た結論。/『神を畏れ、その戒めを守れ。』/これこそ、人間のすべて」(コヘレトの言葉12章13節)

「すべてに耳を傾けて得た結論」。これは、年老いたソロモン王(賢者として有名な古代イスラエルの第3代目の王)が書いた言葉です。ソロモン王はこれまで生きた人間の中で、最も賢かったと言われています。しかし悲しいことに、自分の成功に酔ってしまい、生涯の終わりになってそのいまわしい失敗に気づき、これら人生の総括を遺言として残しました。

「これこそ、人間のすべて」。別の翻訳では「これはすべての人の本分である」となっています。すべての人の本分とは、何でしょうか?ソロモンが自らの体験で学んだ成功の秘訣とは、何なのでしょうか?

「神を畏れ」。また出てきましたね。黙示録の一人の天使が叫んでいた言葉と同じものです。誤解していただきたくないのは、この「畏れ」という言葉が、恐怖やパニックを意味しているのではないということです。これは、「神を真剣に探求しなさい。簡単に神を否定してはいけない」という熱烈な訴えなのです。神を知り、愛と信頼をもって神との関係に入りませんか、という私たちに向けられた招きの言葉なのです。

しかしこの訴え、この招きには、切迫感が伴っています。それは、私たちがいま、速やかに失われようとしている文明の中に生きている事実から生じてくる切迫感です。

「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」。一人の天使の叫びです。

「神を畏れ、その戒めを守れ」。賢者ソロモン王の書き残した教訓です。

ここに、トインビーの示した第6番目の不法と放縦の徴候に対する最良の解毒剤があります。実際、彼が予言した終末の影に生きる私たちに向けられた言葉として、これ以上に適切な言葉を私は思いつかないのです。

「神を畏れ、その戒めを守れ」

私は熱情の神である――十戒第1、2条

ところで、「戒め」とは何なのでしょうか?それが人類史上最も有名な戒めであることに、異論の余地はありません。人間の文字によって記録されたものの中で、人間の道徳に対してこれほど簡潔、かつ深い意味を持つ戒めは他にないのです。その戒めは全部で10あるため、「十戒」と呼ばれています。

人間の行動を規制するために起草された律法は、これまでに3500万以上あるといいます。十戒は、全部でわずか300語足らずにすぎませんが、かつて制定された人間の行動に関する最も優れた戒めです。この十戒は出エジプト記20章に記録されています。

第1条は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(3節)。古代の人たちは神々の神殿を持っていました。しかし、私たち現代人も心の中に自分の神殿を持っているのではないでしょうか。

ドイツの著作家ハンス・クングは、著書『私がクリスチャンであり続ける理由』の中で次のように述べています。

「われわれはみな個人的に神を持っている。すなわち、すべてのものをそれによって判断する最高の価値観がそれである。それに向かってわれわれは進むし、もし必要ならばそのためにすべてを犠牲にする。そして、もしこれが真の神でない場合は、古いか新しいかどちらかのさまざまな偶像なのである。お金、地位、セックス、もしくは楽しみ――それ自体はどれも悪いものではないが、いったんこれらのものの奴隷になってしまうと、これらは彼らの神となるのだ」

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第1条は、自分勝手な専制的律法なのでしょうか。決してそうではありません。恋人や友人は、相手が他の人とつき合っている限り、自分たちの関係は深まらないことを知っています。「あなたに私を知ってほしい」というこの戒めは、律法を与えられたお方の熱い叫びなのです。

第2条は、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」(4節)。この律法の中で神が関係をあらわす言葉を使っておられるのは、とても興味深い点です。「私は熱情の神である」(5節」)とあります。これも決して利己的な意味ではありません。熱情とは、人生の最も親密な関係における感情を言いあらわした言葉です。

トインビーは述べています。「……創造主の代わりに被造物を礼拝することによって犯した偶像崇拝の罪の結果である。なぜなら、この罪こそ、文明の解体を引き起こす挫折の原因の1つであることを、先にわれわれは発見したからである」(『歴史の研究』第10巻)

十戒の道徳律の中に現代文明の解体をくい止める解毒剤があるのではないでしょうか。そしてその中心に存在するものは、私たちと友情を結び、それを維持したいという熱情を持っておられる「関係の神」なのです。

私たちは、友だちになれますか?――十戒第3、4条

第3条は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(7節)

以前、信じられないようなニュースの見出しが、私の目についたことがあります。発信地はグアム島アガニア。その記事は、次のような内容でした。

「B・A・ストロング40歳、グアム・コミュニティー・カレッジのコンピューター・プログラム指導員は、自分が神になれるかどうかを知ろうと待っている。ストロングは、自分の名前を法的に『神』へ変更したいと正式に申請しているのだ。ラストネームもミドルネームもない、ただ『神』という名である。……彼の上司で同カレッジ学務部長代理は、ストロングの申請を支持し、『ここは自由な国で、憲法によって彼の権利は保証されている。彼の名前は、これからこのあたりでみだりに唱えられることは確かだ。彼が気にしなければいいが……』」

問われなければならないのは、神が気になさるかどうかということです。何と言っても、これは神の名前なのですから。しかしなぜ、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」のでしょうか?それは、友だち同士のような親しい関係の中では、いつも相手の名前や評判を大切にするからです。律法の中心である「関係」が、ここでも輝いています。

第4条は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(8~10節)

この戒めの中にも、「関係」の神のお姿が美しく描かれています。「あなたと私の友情はとても大切なものだから、この関係を良好に保つために特別な日を週に一日設けましょう」というのです。

エレミヤ書の言葉を思い出してください。

「主はこう言われる。/知恵ある者は、その知恵を誇るな。/力ある者は、その力を誇るな。/富ある者は、その富を誇るな。/むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。/わたしこそ主。/この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」(9章22、23節)

十戒をお与えくださった私たちの創造主は、「この世の何よりも、私があなたを知っているように、あなたにも私を知ってほしい。私たちは、友だちになれますか?」と呼びかけておられるのです。

優先される人間と神との関係

これで、第1条から第4条までの戒めが出そろいました。このあと、6つの戒めが続くのですが、興味深いことは、これら十の戒めがすべて「関係」に集中しているという点です。最初の4つの戒めは、私たち人間と神との関係を守り育てるためのものです。後半の6つの戒めは、人間同士、つまり家族や友人を含む他者との関係を守り育てるものです。

戒めは実に明快です。なぜなら十戒の中に感動的な神のお姿があらわされているからです。すなわち、この全宇宙の中で、最も関係を大切にしておられる方の姿が反映されているのです。あなたにとって大切なすべての関係は、神にとっても大切なものなのだ、と考えてみてください。神は、このことを証明なさるために十戒を与えられたのです。

そこで、神がこの十戒をどのような関係から始めておられるかに注意してください。神はまず、私たちと神との関係を優先させ、その次に、私たちと他者との関係を示されたのです。第1条から第4条までは、第5条以降よりも常に先行するのです。

神をまず最初に置きましょう。そうすれば、他のすべてはついてきます!

命を大切に――十戒第5~7条

他のすべてとは、何でしょうか?残りの6つの戒めは、両親との関係、社会との関係、性的関係、物質との関係、倫理的関係、そして心の内的関係を扱っています。

第5条の戒めは、両親との関係を扱っています。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(12節)

神の律法は、人間の家族を守るものです。離婚、鍵っ子、母子家庭、暴力を振るう父親……といった言葉を聞くだけでも、罪責感や悲しみが私たちの心にわき上がってきます。トインビーが予言した文明の崩壊は、私たちが第5条の戒めに立ち帰るならば、防ぐことができるのではないでしょうか。

第6条の戒めは、社会との関係を扱っています。「殺してはならない」(13節)。神の律法は、人間の命を守るのです。

地球上のいたるところで、人間の命が軽視されています。このような状況の社会が、どうして安全であり続けられるでしょうか。毎夜、娯楽映画やテレビ番組が映し出す流血や暴力を考えてみてください。トインビーの予言した文明の崩壊は、もし私たちが第6条の戒めに立ち帰るならば、防ぐことができるのではないでしょうか。

第7条の戒めは、性的関係を扱っています。「姦淫してはならない」(14節)。神の律法は、夫と妻の間の神聖で親密な関係を守り、それによって社会を健全に保つのです。神は、人間の喜びや楽しみに水をさすようなお方ではありません。私たちの生活を守ってくださるお方です。

ある日のニューヨーク・タイムズ紙の論説に、こうありました。

「世界で最も生活水準の高い国とは、国民の多くが性病で苦しんでいるような国ではない。アラン・ガットメイチャー・インスティテュートの調査によると、5600万人のアメリカ人が性病を患っており、少なくとも4人に1人はその疑いがある。貧困、無知、それに医学的治療の欠如などが、性病蔓延の原因の1部である。さらに麻薬欲しさに性を売りものとする悲劇がある。しかし、こんなに大勢のアメリカ人が、性病の餌食となっている最大の理由は、彼らがアメリカ人であるからだ。というのは、彼らは年少にして性交を開始し、遅い結婚をし、たびたび離婚する。独身時代、ときには結婚後も、多くは数人の性的パートナーを持っている」

私たちは第7条の戒めを破ることができません。第7条を破れば、私たち自身を破壊することになるからです。律法を与えられたお方が、「姦淫してはならない」とおっしゃるとき、それは神の子供たちへの熱き愛からであることをおわかりいただけると思います。

自分のもので満足する――十戒第8~10条

第8条の戒めは、物質との関係を扱っています。「盗んではならない」(15節)。あなたのものは私のもの、私のものは私のもの、でしょうか。いいえ、違います。神の律法は、人間の所有権を守るものです。

第9条の戒めは、倫理的関係を扱っています。「隣人に関して偽証してはならない」(16節)。信頼ほど、関係を安定させてくれるものは他にありません。まっ白な嘘も、まっ赤な嘘も、ついてはならないのです。神の律法は、人間の誠実と信頼を保つものです。

第10条の戒めは、自分自身との関係、心の内的関係を扱っています。「隣人の家を欲してはならない」(17節)。これまでの9条のどの戒めも、それが破られる以前に、行動に先立つ「思い」があるのです。他人のものを欲してはならない。自分のもので満足しなさい!この戒めは、あなたの思いさえも守るものなのです。

ある所に、とても不幸な王様がいました。そこで、王様が信頼している相談役が進言したのです。「王様、もし王様が幸福をお望みであれば、幸福な人の靴をおはきになりさえすればよろしいのです!」

そこで王様は、ただちに僕たちを全国へ遣わし、本当に幸福な人を見つけ、その人の靴を借りてくるように、と命じました。やっとのことで彼らは、王国のはずれに住む、本当に幸福な1人の人を見つけました。僕たちは、「あなたの靴をお貸し願えませんか?実は、王様がしばらくおはきになりたいとおっしゃっているのです」と彼に頼みました。しかし悲しいことに、その男は靴を持っていなかったのです!

このお話の教訓は何でしょうか?あなたの持っているもので満足しなさい、ということです。なぜなら、人間の幸福は私たちの内側にあるものにかかっているからです。私たちの思いに注意し、その内面を守りましょう。

普段着の警察署長と十字架のイエス

以上で十戒のすべてを挙げました。これは地球の道徳律であり、地球の文明の崩壊をくい止めることができるものです。この律法が欠落しているために、現代文明は死につつあるのです。

もし、男女双方によってこの律法が尊重されるなら、あらゆる結婚は救われるでしょう。もし、すべての家庭でこの戒めが守られるなら、あらゆる家族は守られるでしょう。もし、十戒が尊ばれ、順守されるなら、あらゆる友だち関係、商売関係、法的関係、隣人関係……は守られ、あらゆる人が平和と喜びを心から楽しむことができるでしょう。

ではどうして、私たちの社会では、十戒が専制的で喜びのない堅苦しい道徳規定として敬遠されているのでしょうか?どうして私たちは、律法とか戒めとかいった言葉を聞いたとたん、拒絶反応を示してしまうのでしょうか?

最後に、私が住んでいる町の警察署長さんのことをお話ししましょう。彼の仕事は、この町で法律が守られているかどうかを監視することです。彼の後ろにはたくましい警察官のチームがついており、彼はボスとして彼らを統率しています。どう考えてもいかめしい存在です。しかし、ある冬の夜のできごとがきっかけとなり、その日を境に彼に対する私の印象がすっかり変わったのでした。

ある金曜日の夜、夫が自殺しかけていると感じた1人の教会員の奥さんから、私は悲痛な電話を受け取ったのです。彼女はすでに警察へも連絡を取っていて、私にもすぐ来てほしいということでした。私が彼女の家に着いたときには、すでに警官が到着していました。警察署長、その人でした。

署長も急いで駆けつけたらしく、制服も拳銃も着用しておらず、ジーンズのズボンにフランネルのシャツという姿です。彼はすでに家の中にいて、台所で取り乱しているご主人に優しく、しかし率直に話しかけていました。強制するでもなく、虚勢を張るでもなく、台所の入口に立って冷静に、優しく振る舞っていたのです。

彼は静かに、しかし熱心に話し続けました。やがて台所の中にいた男性の緊張が解け、危機を乗り切った署長は、来たときと同じように静かに去って行きました。その夜、私は以前から知っていたこの署長に対して、新たな尊敬の念をいだくようになったのです。

何がその違いをもたらしたのでしょうか?私が、彼の違う側面を目撃したからです。普段着のままの、拳銃も法律書も持っていない彼の姿を見たからです。問題を抱えている人に対して、優しく、真剣にかかわっている1人の男の姿を見たからです。肩書きをちらつかせたり、権力を振るったりせず、問題の渦中にいる人のすぐ側に身を寄せ、しばらくの間、痛みを分け合ったのでした。そのとき、法律の監視者の長である人に対する私の見方が突然変わったのでした。

すばらしい律法を与えてくださった偉大なお方、宇宙の律法の監視者であられる神についても同様です。神が栄光の衣をまとうことなく私たちのもとへおいでになり、肩書きをちらつかせたり、強制したりなさらなかったお姿を見るとき、神に対する見方が突然劇的に変わるのです。ローマの十字架にかけられたイエスのお姿を見るとき、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエスのみ声を聞くとき、私たちは真理を知るのです。疑いの影を乗り越え、神の律法の中心は常に「愛」であることを知るのです。

このような愛を知るとき、一体だれが、この偉大な律法の与え主と友だちになりたくないと思うでしょうか。

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