第5課 豹はまだらの皮を変えられるか?

目次

ホームレスに戻ったファッション・スター

アメリカのある大都市で、ヘア・スタイリストたちが3日間の全国大会を開催しました。ヘア・サロンを経営する私の友人もこの大会に出席したのですが、彼の話によると、初日に1人の参加者が1つの提案をしたのだそうです。その提案とは、すばらしい髪型がどれだけ劇的に人を変えられるか、モデルを使って写真を撮り、全国的にPRしよう、というものでした。よく見かけるダイエット食品の使用前、使用後の写真のようなものを撮って、大々的に配ろうというわけです。

大会がその案を承認したので、さっそくモデル探しを始め、呑んだくれのホームレスの男性に白羽の矢が当たりました。髪も顔も汚れ、体中からひどい臭いがしているような男です。なんとか彼を説得すると、大会が行われているホテルに連れて行き、まず変身前の写真を撮りました。それから風呂で彼の体や髪を洗い、散髪をして髪型を整え、ヒゲを剃り、化粧品をつけ、最後に新品の服を着せたのです。

会場の報道陣はすぐにこの男性の写真を撮ると、マスコミを通じて全国に報道しました。確かに、前と後では目を見張るほどの違いがありました。

さて、大会が終わって1週間ほど経ち、地方新聞の記者が、一躍ファッション・スターになったこの男性のその後を取材しようと思いついたのです。そこでこの紳士を探しに出かけました。彼はどこにいたと思いますか?実は、1週間前と同じ通り、同じ貧民窟にいたのです。無精ヒゲがもとのように生え、1週間前には新品だった服も、食べ物や酒や通りのほこりがこびりついてすっかり汚くなっていました。いったいどうしてこうなってしまったのでしょうか?

旧約聖書の中にこのような言葉が記されています。

「クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。/それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう」(エレミヤ書13章23節)

大会のスタイリストたちは、ホームレスの男の外見を変えることはできました。しかし、男の内面、つまり心を変えることはできなかったのです。実のところ人間は、他人の心はもちろんのこと、自分の心さえ変えることができないのです。心が変わらなければ、生活は変わりません。これこそ、まだらの皮を持つ豹に関する真理なのです。

私たちは自分自身の心も、他人の心も、自らの力で変えることができません。心を変えることができなければ生活も変えられませんし、まして魂を救うことなどできはしないのです。

人生における最も重要な質問

まだらの皮を持つ豹についての真理と直接関連する聖書のお話を3つ、これから見てゆきましょう。最初のお話は、いままさに自殺しようとしていた男の話です。

さて、キリスト教の普及に尽くしたパウロとシラスが、ある日祈りの場所へ行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に会いました。彼女は、占いをすることでローマ人の主人に多くの利益を得させていたのです。そして、パウロとシラスの後について行って、「この人たちはいと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」(使徒言行録16章17節)と狂ったように叫びました。これは、悪意に満ちた陰謀でした。

こんなことが何日も繰り返されたため、たまりかねたパウロは、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」(同18節)と、彼女に取りついている霊に向かって命じたのです。天国で堕落し、反逆するようになった天使ルシファーを思い出してください。彼には手下が大勢いて、歴史上のあらゆる人間を悩ませてきました。そして悲しいことに、ある人々はこの堕落天使や悪鬼に自分を明け渡し、取りつかれてきたのです。

さて、その女から悪霊が出て行ってしまったので占いの商売はあがったりです。腹を立てた彼女の主人は、「町を混乱させている」という理由で、パウロとシラスを役人に引き渡します。その役人は、「何度も鞭で打ってから、2人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じ」(同23節)ました。ローマの律法によると、牢の看守は囚人たちを見張る責任があり、万一囚人が逃走すれば、死をもってその責任を取らされることになっていました。

すると真夜中になって、突然大地震が起こり、牢の扉が開き、囚人たちを縛っている鎖も外れてしまったのです。これは明らかに超自然的なできごとでした。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」(同27節)とあります。日本でいう「切腹」をしようとしたのです。

そのとき、暗闇の中からパウロが叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(同28節)と。看守は明かりを持って牢の中に飛び込むと、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、2人を外に連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(同29節)

ここで、人生における最も重要な質問がなされたのです!「救われるためにはどうすべきでしょうか」

信仰は知的な同意ではない

必ずしも同じような言葉ですべての人が表現しないかもしれませんが、人はだれしも救われたい、あるいは永遠に生き続けたい、と願っているのではないでしょうか。ですから、この全人類の最も重要な質問に対する説得力のある真理、解答を、どうしても私たちは発見しなければならないのです。

看守の切実な質問に対して、パウロとシラスはこのように答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(同31節)

しかし、「信じる」とは一体どういうことを意味するのでしょうか?まず聖書は、次のようなことは「信じる」とは言えない、と教えています。ヤコブの手紙2章19節に、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」と記されています。悪魔も神を信じているのです。しかしその信仰によって、彼は自己破壊的な激情から救われたりはしませんでした。

パウロとシラスの後を追い回した女奴隷に取りついていた悪霊も、明らかに神を信じていて、そのことを女に叫ばせては2人を困らせました。ですが、その信仰は彼女の辛い人生に何ももたらしませんでした。なぜでしょうか?その信仰は、単なる知的な信仰、知的な同意にすぎなかったからです。このようなものは、それ自体何も生み出しませんし、何の変化も与えません。

たとえ、電気というものを信じていたとしても、私たちがその信仰をもってスイッチを入れない限り、電気はつきません。自分の信仰のとおりに行動しない限り、その信仰は無意味なのです。

信頼し、行動する

「私は、ナザレのイエスが実在したことを確かに信じています。彼は2000年前に生きていた本当の善人でした。そして、人間の心を高めてくれるすばらしい道徳的教えを残しました。それは歴史が証明しています。ええ、私は彼を信じていますとも……」。こうした言葉をイスラム教徒や、仏教徒や、ヒンズー教徒や、無神論者からさえ、私は聞いたことがあります。

しかし、読者のみなさん、知的な同意だけでは何の役にも立ちませんし、それだけでは悪魔も含めてだれも私たちを救ってはくれないのです。それでは、一体「信じる」とはどういうことを意味するのでしょうか?

微生物学者からオックスフォード大学の神学者になったアリスター・マクグレイスは、その著書『知識人は神を必要としない――現代の神話』という本の中でこの質問に答えようとしています。彼によれば、信仰(信じること)は発展的定義を持つものであるといいます。

まず信仰とは、ある物事が真実であることを信じることです。悪魔が持っていたのはこの種の信仰です。彼は神の存在を固く信じています。悪魔は神とともにいましたし、その現実を知っています。同様に、私たちも「神を信じます」と言うことはできますが、それは「私は神が存在することを信じます」というような意味です。これが知的同意の段階の信仰なのです。

しかし信仰には、もう1つの段階、信頼の段階があります。友だちを信じるとは、友だちを信頼するという意味です。飛行機のパイロットを信じるとは、パイロットの手に自分の命をまかせることを意味します。あるいはまた、私たちは1つの政党を信頼することができます。そして、その政党の候補者に投票することで、その信頼をあらわすのです。信頼――それは信仰の重要な一面です。が、それだけではまだ不十分です。

マクグレイスは、信仰についての聖書的考えは、日常用語にはない1つの特殊な要素を含んでいる、と述べています。信仰とは神の約束をつかみ、その約束が与えるものを受け取ることである、と彼は言うのです。言い換えれば、神の救いの約束を信じ、その約束を信頼するだけでなく、私たちがその約束に応じて行動すること。この行動がなければ、救いを得ることはできない、というのが彼の主張です。

ただ1つの道、ただ1つの名

心の底から発せられた看守の質問に答えて、パウロが「主イエスを信じなさい」と言ったとき、彼は知的同意以上のことを意味していたのです。パウロは、この看守が救い主であるイエスを個人的に深く信頼し、しっかりつかむようにと説いたのでした。

パウロは、同じ使徒言行録においてペトロが以前語った言葉をくり返したに過ぎません。ペトロはこう言いました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)。ペトロは、だれのことを話しているのでしょうか?10節を見ましょう。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(同10節)

エルサレムの神殿の周囲でよく知られていた足の不自由な物乞いは、ペトロによって、ナザレのイエスの名において癒されたばかりでした。ペトロは当局者たちに向かい、この名前こそ人類を救うことのできる唯1の救い主の名前である、と告げたのです。その名は釈迦でも、孔子でも、マホメットでもないのです。人類が救われるべき名は、イエス・キリストという名のほかにはないのです。

どうしてこのようなことが言えるのでしょうか?イエスご自身の言葉に耳を傾けてください。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネによる福音書14章6節)。彼は、ご自身が亡くなる前夜、この言葉を弟子たちにお語りになりました。相対的な世界の中で、この言葉は絶対的な真理として慰めを与えてくれます。

私の仏教徒の友人が、世界中の人間の願いは結局一つなのだということを、よく知られている比喩で教えてくれました。それは、山道はいずれも山頂に到達する、という比喩です。人生という登山において私たちはどの道を選んでも構わない。なぜなら、どの道を選んでも私たちは山頂へ行き着くことができるのだから、という意味です。つまり、あらゆる宗教は同じ神のもとへ私たちを導くのだ、と言っているのです。

しかし、どうしてこれが本当だと言えるでしょうか。そもそも、世界の宗教のあるものは無神論で、神を全く信じていないのです。すべての道が山頂に続くのではありません。1つの道しかないのです。ただ1つの名前しかないのです。堕落した人類を救ってくださるお方は、ただ1人なのです。

なぜ彼が唯一の道なのでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。

「『あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』フィリポが『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」というのか』」(14章7~9節)

イエス・キリストこそ、命に至る唯一の道なのです。なぜなら、地上の歴史と地上の宗教の中で、唯一彼だけが人間の肉体をとられた神、「私たちと共におられる」インマヌエルのお方だからです。

すべてを捨て、イエスを取る

私は「信仰(faith)」の意味を次のようにして覚えています。

Forsaking捨てる
Allすべてを
私は
Take受け取る
Him彼を

ほかの名前でも、ほかの道でもなく、私はイエス・キリストを唯一の希望、唯一の救いとして受け入れています。もし、読者のみなさんがそのようになさるなら、神はどうされると約束しておられるでしょうか。すでに何回か読んだ聖句ですが、ヨハネによる福音書3章16節をもう1度見たいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

ここに神の救いの贈り物のすべてが記されています。それは、人類が昔から求めてきたもの、永遠の命です。平和と喜びに満ちた幸福な生活が、いつまでも続くのです。しかも、私たち人間の友だちになりたいと願っておられる神と一緒にです。救いは、イエス・キリストを信頼し、自分の生涯を彼に任せるすべての人に約束されています。

しかし、まだらの皮を持った豹の真理は、依然として真実です。私たちは自分の力で自分自身を変えられませんし、自分自身を救うこともできないのです。イエスも言われました。

「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(同3章6、7節)

私たちは新しく生まれなければならないのです。しかし、生まれかわる力は自分の内にはありません。初めの誕生においても、だれかがあなたを産んでくれたように、第2の誕生においても、どなたかにあなたを産んでいただく必要があります。その方こそ救い主です。救い主があなたを永遠の命に産み直してくださるのです。逆の見方をすると、救い主がいなければ、私たちは滅びるほかないのです!死から助け出してくださるお方が、私たちには必要なのです。

「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」とは、このような救い主を信じて、受け入れることです。その決心をするのに、特別なものは何1つ必要ではありません。読者のあなたが、静かに自分の魂の中でいま決心すればよいのです。信仰とは、「すべてを捨て、私が彼(イエス)を取る」ことなのですから。

悔い改めなさい

使徒言行録2章を見ますと、ペトロの説教を聞いたエルサレムの人々も、「救われるためには、どうすべきでしょうか?」と質問しています。これが2つ目のお話です。

それは、エルサレムにおける祭りの日のことでした。誕生したばかりのキリスト教会は、信徒こそわずかなものの宣教の情熱に燃えていました。エルサレム中の人々が、野火のように燃え広がるこの集団をひと目見ようと集まってきたのです。たちまち3000人以上にふくれ上がった群衆の前で、大男ペトロが立ち上がり、イエスのことを話し始めました。

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことを証明なさいました。……このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。……だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2章22~24、36節)

ここで再び、あの重大な質問が発せられたのです。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(同37節)。救われるために、どうしたらよいのですか?この問いにペトロは答えます。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、……わたしたちの神である主が招いていてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(同38、39節)

このペトロの答えを、さきほどのパウロの答えと一緒に考えてみましょう。ペトロの答えは、「悔い改めなさい」というものでした。悔い改めるとは、どういうことでしょうか?簡単に言えば、罪を告白し、捨て去ることです。では、罪とは何でしょうか?罪とは法に背くこと。神との関係、他者との関係を傷つけ、破ってしまうことです。

罪とは的を外すこと

あるいは、罪とは、「愛」という標的からはずれてしまうことだ、と言い換えることができるかもしれません。実際、罪という言葉は、聖書が書かれているヘブル語やギリシア語で「的をはずす」という意味なのですから。

以前、インドのマドラスへ私が行ったとき、現地の新聞でこんな悲しい記事を読みました。警察の報告によると、そのとき少年はナスの葉をちぎって、自分が飼っている山羊に与えていたそうです。ところが突然、隣の家の山羊が少年の家の庭に入り込んできて、大切なナスの実を食べ始めました。少年は怒って、手にしていたナイフを侵入してきた山羊に向かって投げつけたのです。ところが、そのナイフは的をはずれ、近くにいた少年の妹に命中して命を奪ってしまったのでした。

罪がすることは、これと同じです。罪は的をはずし、側にいる無実の人を傷つけるのです。私たちの言葉、考え、行動――あらゆる罪が的をはずれ、家族を傷つけ、友人を傷つけ、隣人を傷つけます。ときには、自分自身さえも傷つけます。しかし、私たちの罪というナイフは、もう1人のお方に致命的な傷を負わせることを知らなければなりません。

そのお方が、イエス・キリストなのです。ペトロは言います。「[キリストは]十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ペトロの手紙12章24節)

ですから、悔い改めるとは、私の罪がイエスに死をもたらしたということを認め、告白することを意味するのです。しかし悔い改めとは、ひたすら辛く、ひたすら悪い知らせなのではありません。悔い改めとともにやって来る、とても良い知らせがあるのです。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙11章9節)

神は私たちに無償の赦しを与えてくださるのです。なぜだかおわかりになりますか?神が、本質的に赦しの神であられるからです。

すべてを捨てて、イエスに従う

「救われるためには、どうすべきでしょうか?」必死に救いを求める3つ目の話は、1人の金持ちの青年に関するものです。

ある日、金持ちで指導者的存在であった青年が、イエスのもとに走り寄って来て尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイによる福音書19章16節)。このような質問を投げかけるのに、イエスほど適任の人はいない、と思ってのことでした。

イエスはすぐにお答えになります。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(同17節)。救われたいと願うなら、律法を守りなさい、というのです。読者のみなさんは、イエスのこのお答えに驚かれましたか?律法は神がお与えになったものであること、そしてその目的は私たちの人生のあらゆる関係の保護であったこと(第3話参照)を覚えておられる読者なら、決してこの答えに驚かないはずです。

しかし、青年の態度ははっきりしませんでした。彼は、どの律法ですか、と聞き返します。イエスは明確にお答えになりました。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」(同18、19節)。つまり、十戒のことだ、というわけです。

すると青年は言います。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(同20節)と。そこでイエスは言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(同21節)

この言葉を聞いた青年は、悲しそうな顔をして去って行きました。たくさんの財産を持っていたからです。彼はすでに1つの神を持っていました。財産という神です。ですから、イエスに従って行けなかったのです。

イエスと結ばれている人には命がある

何に従うか、あるいは、だれに従うか。この選択が、そのまま私たちの人生そのものになります。私たちは、2人の救い主、2人の神、2人の主人を持つことはできません。しかも、だれ(何)につき従うかは、私たち自身が選ばなければなりません。ですから聖書は、最初から最後まで、すべての求める魂に向かって情熱的に訴えているのです。神の救いと友情の贈り物を選ぶように、と。

「救われるためには、どうすべきでしょうか?」という質問とその答えを、聖書に記されている3つのお話の中で見てきました。看守には「イエスを信じなさい」という答えが、エルサレムの群衆には「悔い改めなさい」という答えが、そして金持ちの青年指導者には「イエスに従いなさい」という答えが、それぞれ与えられたのです。これら3つの答えの中心には、イエスの贈り物があることにお気づきでしょうか。カルバリの丘の十字架上で腕を広げ、私たち1人ひとりを抱擁してくださる神の愛という贈り物です。

ヨハネの手紙1には、こう記されています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人には命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(5章11~13節)

み子を持つ人は命を持つ。み子を持たない人は命を持たない。これは単純な真理です。

救い主を知っている家族

忘れられない瞬間があります。私の友人ノーム・トルビーが亡くなった瞬間です。

私がノームと最後に会ったのは、彼が生命維持装置につながれているときでした。ごく普通の心臓手術のはずでした。しかし、術後に危険な合併症が起こったのです。手術室に入ってから、彼が意識を取り戻すことはありませんでした。彼の妻アリスと3人の子供たちは、集中治療室のベッドの側で徹夜をしていました。彼女たちがうつらうつらしかけたとき、担当医師が来て、ノームの脳波が失くなったことを知らせました。彼は人工呼吸装置によってかろうじて生きているにすぎなかったのです。

深夜、私の家の電話が鳴りました。アリスの気丈な声が聞こえてきました。医師から悪い知らせがあり、家族が決断しなければならないので、もしできれば私に病院へ来てほしい、という電話でした。私は急いで行きました。

避けられない決断をするまでに、数時間が経ちました。多くの祈りのあと、残されたノームの家族は、勧告に従って生命維持装置を切ります、と医師に告げたのです。家族と一緒に彼のベッドの周りに集まり、その死に立ち会った瞬間は、私がこれまで経験した最も微妙で厳粛な瞬間でした。

最後の別れを言い、技師が呼ばれました。それから家族と私は手をつなぎ、静かに救い主に対する信仰の歌をうたい始めたのです。私たちがうたう中、技師が呼吸装置のスイッチを切りました。

ノームが自力でまだ呼吸をしているように思われました。が、それはほんの一呼吸で、やがて彼は静かになり、彼の生涯は閉じられました。ノームを愛していた家族は、なぜ信仰の歌をうたうことができたのでしょうか?それは、家族がよく知っていたからです。愛する夫、愛する父親であるノームが、永遠の命を約束してくださった救い主を心から信頼し、そのように生きてきたことを。

救い主を持つ者は、命を持っているのです。

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