第6課 ダーウィンのブラック・ボックス

目次

ダーウィンの進化論を覆すもの

私たちが住んでいる現代社会は、世界を創造された神の話になど、ほとんど耳を貸しません。私はそのことをよく知っています。

もし読者のみなさんが、「聖書の神は、愛に満ちたやさしい神なんだ。人間を友だちと思ってくださるお方なんだ」などと言おうものなら、たちどころに周囲の人から反論されるでしょう。「神だって?ばかばかしい!私たちはもう何十年も、神なんか必要とせずに生きてきたじゃないか。だいたい、創造についてのくだらない話は、150年も前にチャールズ・ダーウィンが神話にすぎないと証明したんだよ!」と。本当でしょうか?

実は、私の手元に1つの独創的な発明品があります。これはダーウィンが唱えた進化の仮説――地球上の生命は、数十億年という長い年月の間に漸進的に進化したという説――に真っ向から挑戦するものなのです。と同時に、当然ながらこの発明品は、創造主なる神の存在を明白に証拠づけるものでもあります。

ただし、この独創的な発明品をご紹介する前に、まずダーウィンが書いた有名な『種の起源』の中から、非常に冷静な彼の予告を読んでおきましょう。

「もし引き続く多数の微小な変容によって形成せられ得ない何等かの複雑な器官の存在することが証明せられれば、私の理論は全く根底から覆されてしまうだろう」(堀伸夫訳『種の起源』)

もう少しわかりやすく言い換えると、こういうことです。

「私、ダーウィンの理論は生命の漸進的進化に関するものであり、より具体的に言えば、化学反応のごく微小な刺激が何十億年も続くうちに今日地上で見られるような複雑な生命体を生み出した、というものである。もしだれかが、ある器官があまりにも複雑なので、引き続く多数の微小な変容によって長年の間に形成されたものではないことを明らかに示すことができれば、私の理論は根底から全く覆されてしまうであろう」

果たして、ダーウィンの理論を根底から覆すようなことが見つかったのでしょうか?その説明は、のちほど優秀な生化学者マイケル・ビーヒにしてもらおうと思いますが、彼の答えを聞く前に少し寄り道をさせてください。

最小限の複雑さによってできているシステム

この独創的な発明品は、妻のカレンが台所で1人で働いていた記念すべき日以来、わが家の周囲に置かれているものです。その日、夢中で仕事をしていたカレンは、たまたま戸棚の隅に目をやったとき、ハッとしました。床板の隅に以前はなかった穴があいており、その穴から灰色の毛でおおわれた小さな動物が姿をあらわしていたからです。生物学の分類に従えば、ネズミ科のハツカネズミ属に属するもの、俗に言う小ネズミでした。その生き物を見るや否や、カレンは反射的に力まかせの行動に出たのです。そして、このあわれな生き物は、探検のための遠征途中だったと思うのですが、ただちに退却してゆきました。

その日以来、カレンはわが家のネズミの見張り番となり、ガレージの周りにこの独創的な発明品を置くようにしたのです。ネズミがガレージのほうからやって来るからでした。この発明品とは「ネズミ取り器」のことです。

さて、ようやく生化学者のマイケル・ビーヒと彼の著書『ダーウィンのブラック・ボックス』に話を移し、このネズミ取り器について説明してもらいましょう。

みなさんがよくご存じのネズミ取り器は、5つの部品からできています。つまり、木の平板、ハンマー、スプリング、支え木、それに引き金です。この装置はとても簡単に取り付けられるように工夫されており、しかも作動すると、しっかり獲物を捕まえられるようになっています。

ところで、このネズミ取り器が、ダーウィンの進化論とどのような関係にあるのでしょうか?ネズミ取り器は、マイケル・ビーヒの言う「最小限の複雑さ」を示すすぐれた実例なのです。彼は、「最小限の複雑さ」とは何かについて、このような定義を記しています。

「最小限の複雑さとは、基本的な機能に役立つための、よく適合し、相互に関連するいくつかの部分から成り立っている独自のシステムを意味する。これらの部分のどれ1つを取り除いても、そのシステム全体がうまく作動しなくなるのである」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

このことを、ネズミ取り器を例に取ってご説明しましょう。ネズミ取り器は、改めて言うまでもなく、ネズミを捕獲するという基本的な機能を持っています。しかし、部品のどれ1つが欠けていたとしても、その機能を果たせません。木の平板が欠けていても、ハンマーが欠けていても、あるいはスプリングや支え木や引き金が欠けていても、ネズミを捕まえられないのです。

ネズミ取り器は、最小限の複雑さによってできているシステムで、それがきちんと作動するには、すべての部品の働きが必要です。いずれかの部分が欠けても、システム全体がうまく作動しない原因になります。しかも、ただ一緒に働けばよいというものでもありません。これらの部品は正しい材料で作られ、しかも正しい位置に設置されていなければならないからです。

ネズミ取り器がうまく作動するために、漸進的進化は必要ではありません。と言うより、最初から5つの部品が正しい材料でできていて、正しい位置に設置されていなければならないのです。

主が仰せになると、そのように成った

このネズミ取り器についての説明が、どのようにダーウィンの進化論と関係しているのでしょうか?マイケル・ビーヒは、あらゆる点で関係がある、と言います。

冒頭で見たように、ダーウィンは、「もし引き続く多数の微小な変容によって形成せられ得ない何等かの複雑な器官の存在することが証明せられれば、私の理論は全く根底から覆されてしまうだろう」と率直に告白しました。そこで、生化学者マイケル・ビーヒは、次のような質問を念頭に置きながら分子生化学の研究をしたのだそうです。

「自然界にはネズミ取り器のような最小限の複雑さを持つシステムが存在するだろうか?つまり、部分ごとに個別に進化してできあがるのが不可能と思われるようなシステムが存在するだろうか?」……

マイケル・ビーヒの驚くべき例証による説明を見る前に、まず神が世界をお造りになったときの描写を聖書で調べてみましょう。詩篇33篇です。この描写は、創造論者でもなく、神を信じてもいないこの生化学者によって確証されている、と私は信じています。

「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。/主は大海の水をせき止め/深淵の水を倉に納められた。/全地は主を畏れ/世界に住むものは皆、主におののく。/主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」(詩編33編6~9節)

この聖句によれば、創造主なる神は、生命のすべてのシステムを瞬時に、しかも同時に創造なさいました。ご自身の言葉による命令で、神は最小限の複雑さを持ったシステムを創造されたのです。これらのシステムは、一気にすべてが作動するようになっていました。つまり、部分ごとに進化することなど到底不可能な、最小限の複雑さを持った生物学的、分子的システムが、最初から存在したわけです。繊細な生命のシステムが働き始めるためには、あらゆる部分が最初から正しく設計され、正しく設置されていなければならなかったのです!

もう1度くり返しますが、ビーヒは創造論者ではありません。神を信じている、とも彼は言っていません。しかし、1人の科学者として、ダーウィン論者たちに対し、最も基本的なレベルの生命には知的計画性があるという分子的証拠が存在するのだ、と挑戦しているのです。

繊毛が曲がりくねるには……

それでは、具体的な例証を見てゆきましょう。

【例証1】繊毛

ある種の単細胞動物は、1本またはそれ以上の繊毛によって動きます。繊毛は顕微鏡によってしか見えないほど小さなものですが、だからと言って決して単純ではありません。ビーヒは、次のように書いています。

「繊毛は細胞膜によって覆われた動物繊維の束によって成り立っている。ちょうどプラスティックのカバーのようなものと考えればよいが、この繊毛の膜は、細胞膜が成長したもので、繊毛内部は細胞内部と連結しているのである。繊毛を輪切りにしてその切断面を電子顕微鏡で見ると、切断された末梢の部分の周りに9つの棒のようなものが見える。これらは微小管と呼ばれる。精密写真で注意深く調べると、この微小管は2つの輪が1体になってできあがっているように見える。さらに詳しく調べると、1つの輪は、それぞれ別個の13本のDNA鎖でできていることがわかる。もう1つの輪は10本の鎖でできているが、それが最初の輪と結びついているのである。……ネキシンと呼ばれるタンパク質が結びつけている」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

繊毛の動きを2本の釣り竿でたとえると、こういうことになります。しなやかな2本の釣り竿があるとしましょう。これらは、繊毛の中の2本の微小管をあらわします。釣り竿は釣り糸(ネキシン繊維)で結びつけられています。そこで、1本の竿を動かすともう1本のほうも動いて曲がるわけです。釣り竿の場合は、私たちが腕で動かすことになりますが、繊毛はダイニンと呼ばれるモーターに代わるもので動きます。そして、モーターのエネルギーである電気やガソリンに相当するものは、ATP(アデノシン3リン酸)と呼ばれるものです。つまり、ATPによってダイニンが動き始めると、微小管の1本が他の1本をずらし始めます。その際、ネキシン繊維は微小管が動きすぎないように作用し、こうして曲がる動きが生じるというわけです。

繊毛がすばやく、なめらかに動くためには、9本の複合微小管がすべて1斉に、調和して動く必要があります。ネズミ取り器の各パーツと同様に、先に述べたどれ1つでも欠けてはならないのです。それゆえ、繊毛は「最小限の複雑さ」を持つものである、と結論づけることができます。そして、この種のものの存在が、漸進的進化を唱えるダーウィンの仮説に強力な一撃を喰らわすのです。

このような組織体は、ある意思を持つ者によって、最初から完全に機能するように計画され、造られなければならなかったはずです。

眼が光に反応するには……

【例証2】眼

2番目の例証となるものは、複雑な器官として昔から注目されてきたシステム、眼です。これもまた、ダーウィンにとって問題になるものでした。

ダーウィンは、極めて単純な眼から複雑な人間の眼に至るまでの変化の過程を説明することなく、多種類の動物の眼について議論したのち、自然淘汰によって漸進的変化がもたらされた、と言いました。たとえば、クラゲの眼のような単細胞で光に反応するものから、ヒトデの眼のように凹形グループに属して光に反応するもの、カタツムリの眼のように未完成のレンズを持つ球状細胞のもの、さらには鳥や人間が持つ高精度の眼にいたるまで論じています。そして彼は、眼のような複雑な器官は幾世代にもわたってゆっくりと有益な変化を蓄積する必要があり、一世代のうちに突然出現するならば、それは奇跡に等しい、と主張しました。

進化の道は、ただ光に反応するごく単純な眼から始まって、人間の眼のように精巧なものへと導いたのだ、と彼は読者を強引に説得しようとしたのです。しかし、その出発点となる光に反応するだけの単純な眼が、そもそもどこからできあがってきたのかについては説明せず、このような質問を次のような言葉で一蹴したのでした。

「神経がどのようにして光に反応するようになるのかといった質問は、生命そのものがどのようにして始まったのかという質問と同様に、私たちにはほとんど関心のないものである」

しかし今日、生化学は眼というブラックボックスの中をかいま見せてくれるようになりました。いったいどのようなことがわかってきたのでしょうか。ビーヒは次のように書いています。

「光が網膜に当たると、網膜分子が反応し、ただちにその形を変える。網膜分子の形が変わると、その分子に密着しているロドプシンというタンパク質の形も変わる。ロドプシンの形が変わると、それが原因でトランスデューシンという第2のタンパク質に引きつけられる。これが起こると、トランスデューシンは小さな分子を手放し、その代わりに第2のタンパク質と少し異なる分子を取り込む。こうしてトランスデューシンは、第3のタンパク質であるホスホジェステラーゼと結合する。このホスホジェステラーゼには、陽電気の性質を持つナトリウムイオンの数を減らす第3の分子を切断する力がある。その結果、細胞膜の内外にあるナトリウムイオンの陰と陽の電気的不均衡状態が起こる。電気的不均衡状態をもとに戻すために充電されることになり、その電気が視神経に伝えられ、脳がそれを視覚として受けとめるのである」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

このあと、脳の内部で視覚を生じさせるためにどのようなことが起こるのかについては、それ自体が驚くほど複雑なのでここでは触れないでおきましょう。

いずれにしても、視覚に関するブラックボックスが開かれ始めたいま、19世紀にダーウィンが主張し、今日でも進化論者が言い広めているような、眼の解剖組織的構造のみによる進化論的説明では、もはや視力を考えるには不十分なのです。ダーウィンが考えた解剖組織上の各段階や構造などは、あまりにも単純すぎます。この点に関して、ビーヒは次のように書いています。

「ダーウィンは、孤立した山から他の山へと比喩的ジャンプで簡単に跳び越えようとしたが、注意深く機械で調べると、多くの場合山と山との間にはヘリコプターでしか渡ることのできないほどの開きがあって、それは巨大なジャンプとなることが判明したのである」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

ホソクビゴミムシが酸を噴出するには……

【例証3】ホソクビゴミムシ

ビーヒはもう1つの例を持ち出します。これは、創造論者たちにもなじみ深いもので、ホソクビゴミムシという1センチちょっとの小さな黒っぽい甲虫です。

この虫は、身を守る独特の方法を備えていることで知られています。体のお尻にある穴から、やけどを負わせるような酸を敵に向けて噴出するのです。強力な酸を持っていながら、自分の体は何ともありません。どのような仕組みになっているのでしょうか?

その答えは、この虫が化学を利用するということです。ビーヒの説明を読んでみましょう。

「虫の腹の中にある特殊な分泌腺によって、過酸化水素とヒドロキシンという2つの物質が造られる。この2つの化学物質は一緒になって1つの小さな袋(小水疱)の中に集められる。この2つの化学物質は一緒に混ぜ合わされると爆発的反応を示すのであるが、それも特殊な1つの酸素からなる触媒の影響があるときにのみ限られているのである。触媒とは化学物質の一種で、それ自体消費されることなく、化学反応の割合を変化させることができるものである。この触媒がなければ、過酸化水素とヒドロキシンの間の反応は低く抑えられているので、生き物[ホソクビゴミムシ]には影響がない。身に危険が迫ると、虫は、小水疱の中にそれまでためられていた混合物質を体内の爆発室の中へと送り込む。それと同時に、周囲の分泌腺から爆発室の中に触媒が噴出されるのである」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

この複雑な防衛システムは、どのようにしてできあがったのでしょうか?進化論者のある人たちは、「必要な物質が体内のいたるところで必要に応じて利用された結果だ」と言いますが、その考え方は、「自動車は自動車廃棄場で生産される」と言っているのに等しいのです。なぜなら、自動車のあらゆる部品は廃棄場のいたるところにありますから。しかし現実的には、廃棄場から自動車が生まれることはあり得ません。

事実は、このホソクビゴミムシには、最小限の複雑さによってできている不思議なメカニズムがあって、それらは、いくつかの物質と構造物が正しい配置と正しい時間に作動して始めて機能するようになっている、ということなのです。

血液が凝固するには……

【例証4】血液凝固

動物の体の最も複雑なシステムの1つは、血液凝固の過程です。小さな傷はすぐに出血が止まるので、私たちの多くはこの過程のことをふだん気にしていません。血が止まるという奇跡的な働きに、注意を払っていないのです。

血液凝固のシステムが体の他の部分を損なわずに働くためには、一定の条件が満たされる必要があります。

●出血が続かないように、まず血餅ができなければなりません。

●血餅は正しい場所に形成されなければなりません。そうでないと、大切な場所への血流を止めてしまうことになりかねないからです。

●血餅は正しいときに形成されなければなりません。つまり、それが必要な危機的瞬間にです。

●できあがった血餅は、内部からの圧力に耐え得るほど強いものでなければなりません。

ビーヒは、血液凝固のシステムを、次々に倒れるドミノになぞらえています。つまり、一連のできごとが連鎖的に次々と起こって最終目的に達するというわけです。この複雑なできごとには、例えば次のような化学物質が関係します。フィブリノゲン、トロンビン、アクセレリン、プロアクセレリン、カリジン……など。

もう一度ビーヒから引用しましょう。

「動物に傷がつくと、ハーゲマン因子と呼ばれるタンパク質が傷口付近の細胞の表面に貼りつく。するとハーゲマン因子を取り囲むように、今度はHMKと呼ばれる一種のタンパク質がからみつき、ハーゲマン因子を活性化する働きを始める。すると活性化されたハーゲマン因子は、プレカリクレイン、さらにはその活性化したカリクレインと呼ばれるもう一つのタンパク質を転化させる。このカリクレインはHMKを助け、ハーゲマン因子がさらに活性化した形になるように転化を促進する。活性化したハーゲマン因子とHMKは1緒になって、PTAと呼ばれるもう一つのタンパク質が活性化した形になるように働きかける。すると活性化したPTAは、コルベルチンと呼ばれるもう一つの活性化したタンパク質と一緒になって、今度はクリスマス因子と呼ばれるもう一つのタンパク質に作用し、その活性化のために働く。最後に活性化したクリスマス因子は、抗血友病因子(これ自体は、プロアクセレリンのときと同じ方法でトロンビンによって活性化されている)と一緒になってスチュアート因子を活性化する……」(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

この引用文の内容をそのまま理解できるのは、血液の専門家だけではないでしょうか。しかもこれらは、血液凝固のシステムの一部分にすぎないのです。どれほどこのシステムが複雑なものであるか、おわかりいただけると思います。

知的な立案者が存在する

以上の生化学的例証に基づいて、マイケル・ビーヒが下している結論はどういうものでしょうか?彼はこんなたとえでその結論を語っています。いま、部屋の中にパンケーキのように押しつぶされた人の体が横たわっているとしましょう。大勢の刑事が虫メガネを持って床の上を這い回り、犯人の手がかりを探しています。ところが死体のすぐ脇に、大きな灰色の象が立っているのです。

「生命の成長について説明しようとする部屋いっぱいの科学者たちの中に、一匹の象が立っているのである。象には『知的立案』というラベルが貼られている。知力を持っていない原因にのみ研究対象を制限しようと思っていない人にとっての率直な結論は、多くの生化学的システムは立案されたものである、というものだ。それらは自然界の法則によって立案されたものではなく、また、偶然や必要によって立案されたものでもない。むしろそれらは計画されたものだ。……地上の生命は、その最も基本的レベルにおいて、その最も重要な構成において、知的な活動の産物である。……現代の生化学が細胞の中に見いだした驚くばかりの複雑さを前にして、科学界は身がすくむ思いをしている。ハーバード大学の中にも、国立医療研究機関や科学研究所の中にも、ノーベル賞受賞者の中にも、繊毛や、視覚や、血液凝固や、その他の複雑極まりない生化学的過程が、ダーウィンの理論に従って成長してきた、と説明できる人は1人もいない。しかし、現実に私たちはここにいる。植物や動物もここにいる。複雑なシステムがここにあるのだ。これらのすべてはいずれにせよ、ここに存在している。ダーウィンの理論に従ってでないとすれば、ではいかにしてか?(『ダーウィンのブラック・ボックス』)

ここに、「知的な立案者が存在する」という説得力のある説明が含まれています。ビーヒ自身は、この立案者がだれであるかを明らかにしていませんし、その方を追求してもいません。彼は創造論の立場を取っていないのです。彼はただ、知的な立案者が完全にととのった細胞を立案し、将来の生命体のために必要なあらゆるシステムを備えたこの細胞を、進化の旅の出発に当たって設置したのだ、と述べているだけなのです。

しかし、彼の主張の要点ははっきりしています。すなわち、知的立案者がまず最初に最小限の複雑さをもったシステムを開始しなければならなかった、ということです。

神の力は被造物にあらわれている

ではクリスチャンとして、これらの生化学的結論に対し、どのように考え、反応したらよいのでしょうか?私自身はマイケル・ビーヒの本を読んで大いに感動させられました。そして、聖書の冒頭にある深遠な宣言――「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)を強く支持する者として、彼の発表を受け入れたいと思うのです。詩編記者は何と書いていたでしょうか。

「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」(詩編33編9節)

最小限の複雑さを持つシステムは、知的立案者による以外に決して存在し得なかったのです。事実、2000年前にビーヒの主張と同じことが聖書には預言されていました。キリスト教の大宣教師だったパウロは、こう書いています。

「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ローマの信徒への手紙1章19、20節)

つまり、パウロはこのように言っているのです。ビーヒも、あなたも、私も、創造には知的立案が必要であるという結論を出さざるを得ないし、創造主と呼ばれる知的立案者の存在を否定できないのだ、と。

私は、ダーウィンのブラック・ボックスが、期せずしてクリスチャンの信仰を確証し、弁明するものになった、と信じています。そしてこのことは、あらかじめ聖書の中に記されていたのです。

神は無から美しいものを創造される

読者のみなさんの中には、自分の命や人生が複雑すぎる、と感じておられる方はいないでしょうか。あまりにも複雑で、あまりにも混沌としているので、みなさんを襲っている痛みや、苦しみや、孤独に対する計画も全体像も見えずに、いま不安と挫折を味わっておられないでしょうか。そしてある人は、自分の命や人生をコントロールし、導いてくださる方がどこかにいないものか、と捜し求めておられるかもしれませんね。

この混沌とした私たちに、計画と希望を与え、命を取り戻す言葉を語りかけてくださるお方。ばらばらに砕けた部分を取り上げ、言葉をもって私たちの心をもう一度取り戻させてくださるお方。そのようなお方がいらっしゃるのです。

2000年前、罪責感に打ちのめされていた中風患者の若者に向かって、イエスは言われました。「息子よ、あなたの罪はゆるされた」と。絶望的な病気に打ちのめされていたあわれな女性には、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。イエスは、男性を包み込む言葉を語り、女性を癒す言葉を語り、こうして彼ら2人をもう1度造り変えられたのでした。

「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」(詩編33編9節)

このような言葉による神の創造を、神学用語で「命令〈言葉〉による創造」といいます。が、神の創造に関して、もう1つの用語も用いられます。それは、「無からの創造」というものです。これこそ、神が始めになさった創造でした。神は、何もないところから美しいものをお造りになったのです。

そして、読者のみなさんはこのことをご存知でしょうか?神は、現在でも「無からの創造」がおできになるのです。

カルバリの十字架を感謝しましょう。同じ創造主が、同じ創造の言葉を、あなたの混沌とした心にいま語りかけてくださるのです。何もないところから、神はあなたの内に、あなたの人生に、きょう、いますぐにでも、最高に美しいものを造ることがおできになるのです。

宗教改革者マルチン・ルターは、かつてこのように言いました。

「神は何もないところに創造なさった。あなたが何もない状態でない限り、神はあなたの内に何ものかをお造りになることはできない」

いまこそ、私たちは自分の内に何もないことを認め、そして神に捧げ尽くして何もなくなったところに、「美しいものをお造りください」と神にお願いすべきではないでしょうか。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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