第8課 あなたのルーツを心に!

目次

最初に

本シリーズの6話『ダーウィンのブラック・ボックス』の内容を覚えておられるでしょうか?分子生化学者マイケル・ビーヒが、ネズミ取り器という単純な発明品を用いて、すべての複雑な生命体は進化によってできたものだとするダーウィンの仮説を論破した、というお話でした。

ビーヒは、複雑な命のシステムは最初から完全に組み立てられ、作動しなければならず、そこには知的な計画性があるはずだ、と主張したのです。つまり彼の主張は、知的立案者(神)が存在すると記している聖書の科学的裏づけなのです。

しかし今回もう1度、「ダーウィンの進化論」対「聖書の創造論」の論争へ読者のみなさんをお招きし、私は別の発明品をご紹介したいと思います。今回のものは、ネズミ取り器よりもずっと古く、ずっと深遠でありながら、はるかにシンプルなものです。この発明品を注意深く探ることによって、みなさんはいずれの論が正しいかを必ず納得されるでしょう。

人間が生み出した最も正確な時計

オーストラリヤ生まれの天文学者ガーノット・ウィンクラー博士は、4半世紀以上もの間、アメリカの正式な時間記録員として働いてきた人です。彼の事務所は国立海軍天文台にあり、そこには日時計、砂時計、振り子時計など、さまざまな時計が所狭しと置かれています。しかし、その中でも最高の逸品は原子時計です。この時計は24個の金属製の箱型器械からできており、温度調節された8つの貴重品保管室に納められています。そしてこれらの保管室は、丘陵地にある天文台の周囲の用地に散在しているのです。

文字盤のないこれらの時計には、それぞれセシウム原子が入れられています。このセシウム原子は、沸点まで熱せられるとかすかな光線を放射するのですが、その光線の振動周期は不変のもので、1秒間に91億9263万1770サイクル。そしてコンピュータが、1時間ごとにそれぞれの時計から比較数値を読み取り、ナノセコンド、つまり1秒の十億分の1以上の誤差がない1致した時間を毎日算出しているのです。

さらに、ウィンクラー博士はすべての時計をセットするために、イタリアからハワイに至る、電波天文学者たちのネットワークを頼りにしています。これらの電波天文学者たちが、数百万光年離れた星から届く光で同時に各自の位置を確認することによって、地球の正確な位置を決めているからです。みなさん、信じられますか?ウィンクラー博士が時間を発明したというわけではありませんが、人間の生み出した最も正確な方法で、彼は時を告げる働きをしているのです。

しかしながら、私が今回お話しする深遠な発明品とは、この原子時計ではありません。ただし、大いに「時間」と関係があります。それではいまから、科学者も、哲学者も、歴史家も、十分な説明をすることができないほど奥深い1つの発明品についてご説明しましょう。

信仰によって信じているのです

もう1度創世記に戻り、地球上で最初に時間がどのように測定されたかを確認してみます。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第6の日である。天地万物は完成された。第7の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である」(創世記1章31~2章4節)
地球における初めての1週間が、どのようにして終わったかの物語です。創世記の記事ははっきりと述べています。神はこの世界を6日間で造り、第7日目は休まれた、と。

もちろん、これでは、神がこの地球を創造されたという何の証明にもなりません。少なくとも懐疑論者や無神論者にとっては、そうでしょう。「神がこの世界をお造りになったとどうして信じることができるのですか?」と問われたなら、私は次の聖句を用いて答えます。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ人への手紙11章1~3節)

すなわち、「信仰によって、私は信じます」というのが私の答えです。結局、最終的には、信仰によって聖書の創造論を受け入れなければならないのです。これが、創造神を信じる私たちの信仰を支持する唯一の答えなのです!

しかし、「信仰によって」という答えが、進化論者によって一笑に付されることをみなさんが心配なさらないように、彼らとの対話の際に役立ついくつかのことを次にお話ししておきましょう。

どちらの理論を信じますか?

ご存知のように、物事の起源に関する理論には、必ず共通の根本的な問題があります。それは第一原因、つまり、そもそもすべてがどのようにして始まったのかという大問題です。なぜなら、だれ1人として第一原因を見ていないからです。それゆえ、起源に関するあらゆる理論の中の究極の起源は、常に科学的実証の領域外にあるのです。言い換えれば、起源に関するすべての理論は、人間の信仰を含んだものにならざるを得ない、というわけです。

この点をもう少し説明しましょう。進化論者たちは、ポリマー*(重合体)あるいは細胞の起源を、成り行き任せの過程によって十分に説明することができません。つまり、生命を構成する材料がいかにして存在するようになったかについて、十分な説明ができないのです。

*ポリマー:単一の生化学構造を持ったモノマー(例えば、糖、アミノ酸、脂肪酸など)がいくつも、ときには何千も、1緒になってでき上がっている生化学的重合体のこと。例えば、でんぷん、たんぱく質、脂肪など。

これらの生化学的重合体が進化してでき上がったという見込み(可能性)は、どんなに無理をしても受け入れようがありません。科学者たちは、最も単純な生命が地球上で20億年の間に自然の過程を経て発生する確率は、10の255乗分の1より小さい、と述べています。40億年かかって、典型的な小さなたんぱく質の合成を左右する1個のDNA分子を産出する可能性さえ、10の535乗分の1より小さいのです。ところで統計学においては、10の50乗分の1より低い確率は、可能性の境界線を越えるもの、つまり不可能なもの(こと)と見なされています。

つまり私は、「創造論を信じるには、信仰が必要ではないか」と批判する進化論者に対して、こう答えたいのです。「そうなのです。不可能な事柄を信じるために、大きな信仰が進化論者に必要とされるように、私たちにも信仰が必要なんですよ」と……。

結局のところ、すべての人間は、起源に関するどちらかの理論に自分の信仰を置かなければならない、ということなのです。知的な創造主のみ手の中から自分は生まれたのか、それとも野生の猿から進化してきたのか、という選択です。

優秀な法律家フィリップ・ジョンソンは、次のように書いています。

「頭脳で作られた理論は、理論を作り出した頭脳を十分に説明することはできない。絶対的真理を発見する偉大な科学的頭脳の物語は、頭脳そのものが与えられたものであることを受け入れる限り、満足できるものである。われわれが、頭脳を、自らの発見で作り上げたものとして説明しようとするならば、われわれは、出口のない鏡の広間にいることになるのである」

コンピュータは、コンピュータを生み出した人間の頭脳の複雑な知性を説明できるでしょうか。同じように、人間の頭脳によって考え出された進化論が、どうして最初に理論を考え出した頭脳を十分に説明できるのでしょうか。

十戒の中のちょうつがい

再び、神の偉大な十戒の中心に立ち返ってみましょう。ここに、科学者も、哲学者も、そして歴史家も、十分に説明できない深遠で、それでいてシンプルな発明品を見いだすことができるのです。

アンドリュース大学の旧約聖書学の教授であるジャック・ドゥカーンは、「第4条の掟は、十戒全体の主題的なちょうつがいの役割を果たしている」と言っています。最初の3つの掟は神と人間との関係を、後半の6つの掟は人間同士の関係を述べています。そしてその中間に、神と人間とのちょうつがいとして、神と人間、人間同士の関係を両方とも述べている安息日の掟があるのです。これが、第4条の主題的なちょうつがいの役割です。

ところで、みなさんはモーセが十戒を受け取ったときの光景に関する記事をお読みになったことがありますか?

「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、2枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(出エジプト記31章18節)

出エジプト記で明らかなことは、神が自らの指でこの十戒を2枚の石の板に記されたということです。

もう1度、第4条を読んでみましょう。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)

ドゥカーン教授は、十戒のうち2つの掟(第4条と第5条)だけが「肯定型」であることに注目するように、と述べています。つまり、この2つの掟だけが「~してはならない」という否定的禁止文ではないのです。この2つの掟は、意味深いことに、十戒の中心部分に、しかもちょうつがいの部分に並置されているのです。

この2つの掟が関連して置かれていることは、両者に共通項があることを示しています。第4条「安息日を心に留めよ」と第5条「あなたの父母を敬え」に、何が共通しているのでしょうか?両者はともに、人間としての私たちの起源、つまりルーツを心に留めよ、という呼びかけなのです。

第4条は、神の創造のわざの中に私たちの起源があることを心に留めよ、という呼びかけであり、第5条は、両親の子供をもうけるわざの中に私たちのルーツがあることを心に留めよ、という呼びかけなのです。

(1)あなたを創造してくださったあなたの神の安息日を心に留めなさい。

(2)あなたを産んでくださった父母を敬いなさい。

神の愛の律法、十戒の中央に位置するこの2つの掟は、人間の起源に関する真理を保護するために与えられたものなのです。

神秘的な7日という周期

ところで、今回私がみなさんにご紹介したいと思っているすばらしい発明品は、出エジプト記20章11節にあります。それは「週」という時間の単位なのです!

みなさんは、7日間からなる週が存在することについて、創世記の記録以外、歴史的にも、天文学的にも、何の説明もできないことをご存知でしょうか?例えば、「日」という単位は地球が1回転する時間ですし、「月」は月が地球の周りをほぼ1周する時間、「年」は地球が太陽の周りを一周する時間です。ところが、7日間かけてどこかを回る天体は発見されていません。7日間で巡る週は、天体の周期とは全く結びついていないのです。では、週という単位はどこから来たのでしょうか?

この質問を、進化論者で歴史家でもあるコルゲート大学のアベニー教授にぶつけてみましょう。『時間の帝国』という本の中で、彼はこのように語っています。

「『創世』という言葉は『起源』という意味である。……現代科学の創世は、百億年以上も前に大爆発によって始まったもので、そこからすべてのできごとや物が生み出されたのである」

週はどのように始まったのでしょうか?

「壁かけのカレンダーのどの頁にも、西洋人が創造した時間単位のもう1つの下位区分があらわされている。7つの垂直方向に分割された部分に連続した数字が書き込まれ、すべての縦の行には、それぞれの名称がつけられている。4ないし5の水平方向の列は、週と呼ばれ[るが]、……この時間の小区分の直接の原因となるものを、太陽や月のような天体や、他の明らかな自然界の周期に見いだすことはできない。さらに多くの他の文化や伝統の中でも、それぞれのカレンダーには、ほとんど同じような期間の区別が記録されているのである」

要するに、アベニー教授が指摘しているのは、どのように私たちが週を持つようになったのか、また、なぜ地上のほとんどの文化や伝統の中に同じような時間の区分けがあるのか、全く説明できないということなのです。

しかし、週に関して非常に興味深いことがわかってきた、とアベニー教授は続いて次のように書いています。

「ある生物学者たちは、週は自己決定されたものだ、と信じている。と言うのは、人体の中に7日周期のバイオリズムが存在することが、年代学で最近発見されたのである。この周期は、血圧や心拍数のわずかな変化、感染や臓器移植に対する反応などの中にあらわれている。例えば、ある臓器に対して拒絶反応が生じる可能性は、移植1週間後に頂点に達することが判明した」

これは驚くべきことです!私たちの体の中に、神秘的な7日の周期が組み込まれているというのです。しかも、これは人間に限ったことではありません。ごく単純な生命体、バクテリヤや単細胞動物までもが、同じものを分け合っているというのです。

もし安息日を心に留めていたならば……

週という時間の区切りは、どこから来たのでしょうか?世界的な週7日制の制定について、私たちが持っている最も決定的な証拠は、世界の創造に関する古代ヘブルの記録(聖書)だけなのです。従って、一週が7日間であることと、第7日目安息日とは、創造論が人間の生命の起源についての正しい理論であることを示す確かな証拠なのだ、と断言できるのです。と言うことは、私たちがカレンダーを見るたびに、「神は私たちをお造りになられた」ということを知らされているわけです。

もしダーウィンが安息日をずっと心に留めていたならば、進化論を生み出すことはなかったでしょう。なぜなら、第7日目ごとに、彼は創造主についての真理を祝っていたはずだからです。

もしカール・マルクスが安息日をずっと心に留めていたならば、政治的無神論である共産主義を生み出すことはなかったでしょう。なぜなら、第7日目ごとに、彼も創造主についての真理を祝っていたはずだからです。

もし世界が安息日を心に留めていたならば、あらゆる悲惨と流血を見なくて済んだことでしょう。なぜなら、私たちが同じ創造主なる父を信じていれば、私たちはみな家族であることを自覚していたはずだからです。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と、神は今日人類に向かって叫んでおられます。なぜなら、第7日目安息日の中に、私たちの創造主との友情という贈り物が包まれているからです。

安息日は何曜日なのか

しかし、いろいろな疑問をいだく人はいるでしょう。例えば、「現代において、何曜日が神の定められた第7日目だと断定できるのだろうか?」という疑問です。

実に興味深いことに、現在でも100以上の国語で、週の第7日目を「サバス(安息日)」と呼んでいます。つまり、人類学の分野においても、週のどの日が神によって命名された聖なる日であるかを証明できるのです。さらに、宗教界の指導者たちも、聖書学者たちも、現在の土曜日が聖書の第7日目安息日であることを認めています。

「でも、カレンダーは過去に変更されたのではありませんか?」という質問も聞こえてきます。

その通り。確かに変更されました。1582年、ユリウス暦がグレゴリー暦に変更されています。理由は、ユリウス暦が1時間につき11分の誤差を生み続けるため、太陽系と同調させるためには、10日間の埋め合わせが必要になったことです。そこで、グレゴリー暦の1582年10月から10日間を削り取りました。結果として、10月4日木曜日の次の日を10月15日金曜日としたのです。

ここでご注意いただきたいのは、日にちの連続は途切れましたが曜日の連続は途切れなかったという点です。

「わかりました。でも新約聖書は、安息の日を第7日目からキリストの復活を記念して第1日目(日曜日)に変えたのではありませんか?」と質問する人もいるでしょう。

これに対して、私はすぐに答えることができます。答えは「いいえ」です。新約聖書の中で、第1日目について言及している箇所は8つあります。この内の5か所は、イエスが週の第1日目によみがえられたという事実を単純に報告しているにすぎません。

「週の初めの日」の暗い時間帯とは

ですから、6番目以降の聖句をここで見てゆきましょう。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ヨハネによる福音書20章19節)

ここに礼拝の新しい日が示されているでしょうか?いいえ!弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」集まっていたので、祝いの日どころではありませんでした。実際、彼らはキリストが復活されたことすら信じていなかったのです。

次に、7番目の聖句を見てみます。

「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた」(使徒言行録20章7節)

宗教的集会を持っているのだから、彼らは第7日目の代わりに日曜日を守っていたに違いない、などと結論を急がないでください。確かに、彼らは集会を開いていましたが、使徒言行録5章42節によれば、使徒たちは「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」とあります。説教は、聖なる日にだけなされていたのではありませんでした。

しかし、もっと重要な点は、この集会が日曜日の朝の集会ではなかったという事実です。この集まりは、「週の初めの日」の暗い時間帯に行われていました。8節には、「わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた」とあります。

創造の物語を思い出してください。聖書の1日は、まず暗い部分、つまり夕方から始まり、朝となっています。同じように、「週の初めの日」の暗い部分は、土曜日、つまり第7日目の日没後の時間を指すのです。そういうわけで、いくつかの英語訳聖書では第1日目の暗い部分を「土曜日の夜」とか「土曜日の夕方」と正しく翻訳しています。

最後に、8番目の聖句を見てみましょう。

「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、いくらかずつでも手もとに取って置きなさい」(1コリントの信徒への手紙16章2節)

この聖句は礼拝の献金に関係するものだ、と言う人たちがいます。しかし、その読み方はポイントがずれています。パウロが訴えているのは、エルサレムの飢饉の被害者のための募金を、彼がコリントに着いてから集め始めることにならないよう、前もって手元に取って用意しておきなさい、ということなのです。

疑いもなく、この聖句は、日曜日に礼拝が行われていたことを示してはいません。

最大の証拠は、イエスと弟子たちの模範

以上が、新約聖書における「週の第1日目」についての8つの聖句です。どれ1つとして、神が十戒という永遠の律法を変更なさった、と教えていませんし、創造主の祝福を第7日目から第1日目に移すように、と私たちを招いていないことがおわかりいただけたと思います。

さらに、新約聖書全体を通じて、キリストとその弟子たちの模範は、第7日目安息日が神の偉大な休みの日であることを示す不動の証拠なのです。偉大な宣教師パウロが、いつ礼拝したかをご存知でしょうか?

「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、3回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合」った(使徒言行録17章2節)、と記されています。パウロは、イエスと同じ習慣を持っていました。ルカによる福音書の記事を覚えておられるでしょうか?

「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」(4章16節)

神を礼拝することにおいて、イエスも、パウロも、新約聖書のすべてのクリスチャンも、みな同じ習慣を持っていました。彼らは神の律法に従って、週の第7日目に神を礼拝したのです。使徒言行録の中には、パウロが週の第7日目に神を礼拝したという聖句が、80か所もあるのです!

無知な時代が終わるときに叫ばれるメッセージ

しかし、それでもまだ、あるクリスチャンはこう質問するかもしれませんね。

「結局、神が望んでおられるのは、7日間のうちの1日を用いて神を礼拝する、ということなのですよね?私はずっと日曜日に神を真心から礼拝してきました。いまさらそれを変えなくてはいけないのですか?」と。

聖書には、私たちすべての人間にとって良い知らせが記されています。

「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(使徒言行録17章30節)

神はご自分の子供たちが何を学び、何を学ばなかったかについて、よくご存知です。ですから神は、私たちの無知な時代、無知な過去を大目に見てくださいました。しかし、そのときは終わったのです!なぜでしょうか?

「それは、先にお選びになった1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」(同31節)

死から復活されたイエスが、この地上へお帰りになられるからです。それゆえに、私たちの無知な時代は終わらなければならないのです。

いまや私たちは、ぐるっと回って本シリーズの最初の部分に戻って来ました。と言うのも、これこそ、黙示録14章の1人の天使が、大声で叫んでいた緊急を要する言葉そのものだからです。

「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい』」(同6、7節)

キリストがこの地球にお帰りになる前に、神は地上のすべての人々に、創造主なる神のもとへ立ち帰るようにというメッセージを伝えておられるのです。「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」と。

本シリーズの中でたびたび読んだ言葉ですが、何となくついさっき読んだばかりの感じがしませんか?それもそのはずです。十戒の第4条に、同じメッセージが含まれていたからです。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。……6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8、11節)

このメッセージの一致は、一体何を意味しているのでしょうか?それは、イエス・キリストがこの地球にお帰りになる終末の時代に、創造主である神についての真理と、神の安息日についての良い知らせとが、もう1度、地の果てから果てまで響き渡るのだ、ということなのです。

決断を下すのはあなたです

堕落した天使の長ルシファーは、あらゆる恐るべき策略を用いて、私たち人類が愛に富む創造主の子供たちだというすばらしい真理を、根絶しようとしてきました。進化論、無神論、自然主義、世俗主義などは、こぞって創造主なる神についての真理に対して、有害な攻撃をしかけてきたのです。

しかし、このようなサタンの戦略を恐れる必要はありません。神から遣わされたもう1人の天使は、暗黒時代の地球に向かって大声で叫んでいます。

「地球人よ、目覚めよ。あなた方の王がお帰りになられる。いま、あなたの創造主を礼拝しなさい。彼の安息日を心に留めなさい。彼の友情を求めなさい。彼はまもなくお帰りになられる!」

みなさん、最終時代のいまこのときに、私たちの創造主なる神を第7日安息日に礼拝することは、本当に重大な決断なのです!

ある人はこれまで何も知らなかったでしょう。神はそのことを大目に見てくださいました。しかしいまは、第7日目安息日が、神と私たちとの永遠の友情の中心にあることがわかったはずです。

ある人はこれまでに少ししか知らなかったでしょう。しかしいまは、神への親愛の情をあらわすことが、具体的には第7日を神の友情の安息日として受け入れることである、とわかったはずです。

またある人は、少しなら知っていたかもしれません。神はそのことを大目に見てくださいました。しかしいまは、もし私たちがイエスを自分の救い主として受け入れているならば、イエスを安息日の主としても受け入れることが極めて筋の通ったことだ、とわかったはずです。

安息日が神の友情の中心にあるものだとわかったいま、だれが創造主に向かって、「この日を無視します」などと言えるでしょうか。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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