第9課 11番目のシナリオ―希望はあるのか?

目次

いまや世の終わり、しかしいかに?

私がオーストラリアのシドニーにいたときのことです。ウィークエンド・イン・レビューという週刊新聞の中に、興味をそそる見出しを発見しました。その見出しは、「いまや世の終わり、しかしいかに?」というもので、記事の執筆者は社会評論家フィリップ・アダムスでした。

「世の終わりを予期しているのは、何も原理主義のクリスチャンに限ったことではない。今世紀、そして千年間も終わろうとするとき、宇宙論者、環境学者、流行病学者、未来学者、経済学者、その他もろもろのぼやき屋たちは、胸を打ちながら、世界はもう終わるのではないか、と推測している」

アダムスはこのように記したあと、地球に差し迫った終末について、可能性のある10のシナリオを挙げています。

核兵器か紫外線か、はたまた惑星か――シナリオ1~5

【第1のシナリオ】核及び生物兵器の脅威

第3次世界大戦は、かつてほど私たちに切迫感を与えなくなっています。しかし、アダムスは言います。

「ソ連の崩壊後、兵器や放射性物質が世界中に出回るという恐怖が増大している。高品質のクリプトネイト*をいっぱいに詰め込んだスーツケースを密輸しようと、ソ連のアエロフロート機にだれかが持ち込もうとしない週はほとんどない。それを持ち去った人はどうしているのだろうか?」

アダムスは、化学兵器や生物兵器の闇取り引きのことも心配しています。テロリストが世界を破滅させるのでしょうか?

*クリプトネイト無色不活性気体状元素であるクリプトンの放射性同位体を添加して追跡子とした物質。

【第2のシナリオ】伝染病の脅威

「大鎌と砂時計を手に持った死神が、エイズのお陰で舞い戻って来た。15年前は知られていなかったエイズが、いまや悪夢の首領である。しかし流行病学者たちは、リンパ腺腫を伴った伝染病や、結核といったかつての敵が、健康水準の低下の結果、都会で猛威を振るおうと待ち構えていると警告している」

伝染病が人類を滅ぼすのでしょうか?

【第3のシナリオ】拡大しつつあるオゾン層の穴

成層圏の保護層(オゾン層)はフロンによって破壊され、大きな穴(オゾン・ホール)を開けてしまっています。が、この拡大しつつある穴は、「ちょうど巨大な虫めがねのような役割を果たし、太陽レーザーを傷つきやすい網膜や表皮に集めてしまう。これが温室効果と相まって相乗作用をなし、飛び交うミサイルよりももっと死の危険性の高い時限爆弾と化すのである」

オーストラリアに住む人々は、オゾン・ホールの拡大は笑ってごまかせないことだ、と学んだのです。子供たちが戸外で活動するとき、頭や首を布で覆うように、と学校では強制的な指導をしています。がんの原因となる紫外線は、もはやオゾン層によって効果的に妨げなくなっているからです。皮膚がんの発症率は、一笑に付すわけにはいかなくなっています。

【第4のシナリオ】酸素の減少

「何年も前に、私は1人の著名な科学者に会った。彼によれば、世界中の学者仲間は、大気中の二酸化炭素がとどまるところなく増加し、……酸素ははっきりと減少しているのを毎日観察しているという。われわれの森林伐採が、地球に肺気腫をもたらした可能性があるのだ。熱帯多雨林からプランクトンに至るまでの、光合成を行う生命体の大量虐殺は、われわれを窒息死に追いやる未来へと無情にも導いているのである」

やがて、私たちはみな呼吸ができなくなり、窒息死によって世界は終わるのでしょうか?

【第5のシナリオ】小惑星の衝突

アダムスただ1人が、地球に小惑星が衝突する可能性について心配しているわけではありません。AP通信の報道によると、最近、これまで知られていなかった7個の小惑星が宇宙で確認されており、それぞれが大きさにおいても、接近距離においても、地球に脅威となる可能性があるというのです。しかし、合衆国ジェット推進研究所のエレナ・F・ヘリンは、「いますぐ脅威となるものではない」と言っています。

現在、直径900メートル以上の小惑星あるいは彗星で、地球から800万キロ以内を通過するであろうものが、合計99個あるとわかっています。天文学者の中には、これら99個の惑星は地球にとって危険だ、と考えている者もいるのです。

アリゾナ州にある流星クレーターは、直径1200メートル、深さ180メートルですが、これは直径わずか45メートルの流星によってできたものだと考えられています。サイズが1000メートル級の物体であれば、地球規模の破壊が予想されます。

アダムスが心配しているように、小惑星の衝突によって世界は終わるのでしょうか?

問題は宗教か人口か、はたまた水か――シナリオ6~10

【第6のシナリオ】遺伝子生物工学の悪用

スコットランド産の羊を用いたイギリスの実験のお陰で、クローン動物を生み出すという遺伝子生物工学の考えが、もはや空想のものでないことがわかりました。アダムスは、遺伝子生物工学が遺伝子的に操作された超人族を造り出すかもしれない、と考えています。

「彼ら[超人族]は、より大きく、より強く、より賢く、さらに病気に患らず、年も取らない。普通の人間[私たち]は、卑しい雑用のためにせいぜい使ってもらうことになるだろう。もし好運であれば、彼らは私たちをペットにしてくれるかもしれない」

遺伝子操作によって造られた超人族によって、人類は消滅させられるのでしょうか?

【第7のシナリオ】過激な宗教運動

すでに世界的に認知されているこの脅威に関して、アダムスは控え目な言葉を使っていません。

「もし科学が問題であれば、反科学はどうであろうか?迷信や中世趣味やいかさま治療の世界に閉じこもること、あるいはニューエージ運動家のシャーリー・マクレーンを賢人とみなす世界に閉じこもることなどはどうであろうか?わけのわからないことをしゃべりまくる迷信、およびそれに似通ったヒンズー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の中の宗教的原理主義者たちの台頭は、相当な警鐘を鳴らす要因となる」

アダムスの考えは正しいでしょうか?宗教的過激派は地球を破壊するのでしょうか?彼は宗教に対して全く同情的でありません。彼は書いています。

「過度に興奮した神学ほど危険なものは、この地上にはない。宗教は病気以上に多くの人間を殺すよう、運命づけられているかのようだ」

しかし問題なのは、宗教そのものではないのです。「誤解」によって宗教があるべき姿でなくなってしまったことが問題なのです。

【第8のシナリオ】社会の解体、民族浄化

アダムスは憂慮しています。

「世界中で、かつては誇っていた国々が、部族や宗教的未開状態へと分解しつつある。……独立運動や流血沙汰が、民族浄化の名のもとに、無数の形態で増加しており、それによって相互に対する尊敬や友好心などが消滅しているのだ」

私たちは自滅するのでしょうか?これによって世界が終わるのでしょうか?

【第9のシナリオ】人口過剰

このシナリオに関するアダムスの注釈は痛烈です。

「人間の生殖作用は、地上において最も危険な武器である。その破壊力は、すべての核兵器を集めてもかなわない。人口抑制のキャンペーンにもかかわらず、産児制限推進者らの最善の努力にもかかわらず、人類は激しい勢いで増加している」

人口過剰によって、私たちはこの惑星に住めなくなるのでしょうか?

【第10のシナリオ】水の枯渇による飢饉

アダムスは、昔ながらの飢えと渇きの問題も忘れていません。

「専門家たちは、間もなく中東地方において、石油よりも水のほうがより大きな問題になるだろう、という予想で合意している。大飢饉は避けられないというのが大方の見解なのだ。そして間違いなく、渇き、飢えた人々は怒り狂い、他の人々の食べ物や飲物を求めて狩りに出ていくだろう」

私たちは飢え渇いて、この地球からいなくなるのでしょうか?

最終幕を閉じるのはシナリオ11

世の終わりに関する以上10のシナリオを書いたこの社会評論家は、次のように記事を締めくくっています。

「列挙し忘れた世の終わりの脅威が、何か他にあるだろうか?もしそうであれば、私に知らせていただきたい。その間、私が書いたこのリストが、みなさんをひどく憂うつにしないようにと願っている。きょうも1日、良い日であるように!」

何かずいぶん無責任な感じがしませんか?しかし、読者のみなさん、彼は正しいのです。確かに「良い日」がやって来るのです。ただしその日は、アダムスのシナリオには含まれていない世の終わりのシナリオに従ってやって来ます!

確かに、世界はまさに終わろうとしています。その到来は、みなさんが考えているよりもずっと早いはずです。しかもその最終幕は、宇宙空間からのある侵入によって閉じられるのです。それではいまから、アダムスが挙げ忘れた11番目のシナリオを、みなさんにお分かちしましょう。

わたしの父の家には部屋がたくさんある

ヨハネによる福音書の中に、次のようなイエスの言葉が記されています。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのための場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14章1~3節)

イエスがこの言葉をお語りになったのは、24時間以内に十字架の上で亡くなろうとしておられたときです。しかし彼は、死刑執行の前夜であるにもかかわらず、自分自身のことを考えてはいませんでした。このとき、彼の思いも、愛情も、祈りも、地上において彼に従うすべての人々に集中していたのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(同1節)

イエスはパレスチナの道を埃にまみれながら歩き、3年半にわたる宣教の生活を送る中で、神についての真理を伝えてこられました。くり返し、くり返し、たとえ話や物語を用いて、友だちのようなお方である神のお姿を訴え続けられたのです。そのイエスが、「心を騒がせるな」と言われます。世界の終わりには「良い日」が来るのだから、心配するな、というのです。その根拠は何でしょうか?

「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(同2節)からです。

イエスの父の家とはどこでしょうか?父なる神はどこに住んでおられるのでしょうか?世界中のどの国語にも、神の住まわれる場所である共通の言葉、「天国」という言葉があります。雑誌タイムに、天国についての特集記事が以前掲載されました。「神が住んでおられる場所の存在を信じていますか?」との質問に対して、アメリカ人の81パーセントが「はい」と答えています。

新国際英訳聖書ではこの箇所を、「わたしの父の家には部屋がたくさんある」と翻訳していますが、私はこの訳がとても好きです。地上の私たちの家は、天の王宮の部屋が完成するまで住んでいる借り部屋のようなものではないでしょうか。天国の神の家には、私たちが使えるたくさんの部屋があるのです。

イエスは、「私の父の家には住む所がたくさんある」とおっしゃいましたが、それだけでは約束として不十分でしょう。しかし彼は、「戻って来て」と言っておられるのです。この言葉こそ、無数の人々の心の中で松明のように燃えている確かな約束なのです。順境のときも逆境のときも、昼も夜も、神との友情にすがりついてきた人々の心の中にある約束です。

「わたしは戻って来る!」

神ご自身が、友である私たちと一緒に住むために、ご自分の家に迎えようとこの地球へ戻って来てくださるというのです。ある日、それも遠くないある日、イエス・キリストがこの惑星に帰って来られるという輝かしい約束なのです!

聖書を埋め尽くす約束

読者のみなさん、どうぞ注意してください。この約束は、聖書の中に1回だけ記されているものではありません!聖書には、キリストがお戻りになることについて書かれた箇所が、1500以上もあるのです。新約聖書は、全部で260章から構成されていますが、この約束は318か所に書かれており、これは5節に1節の割合になります。

マタイによる福音書24章、マルコによる福音書13章、ルカによる福音書21章は、すべてこの主題のために費やされています。さらに、旧約聖書のダニエル書、新約聖書のヨハネの黙示録にいたっては、全体の主題がキリストの再臨なのです。「わたしは戻って来る!」キリストはおっしゃいます。

「私はあなたを決して忘れていません。あなたは私の友です。あなたの心が破れ、あなたの体が苦痛にうめいているのを、私は知っています。あなたの夢が破れ、あなたの結婚が失敗したことを私は知っています。しかし、あなたの手には望みのつなが握られているのです。これを握り続けなさい。あなたをわが家に迎えるために、私は戻って来ます。だから、心を騒がせずにいなさい。私は必ず戻って来ますから!」

キリストの帰還は予期せぬできごと!?

フィリップ・アダムスが挙げなかった、世界の終末に関する11番目のシナリオとは、聖書だけが教えているシナリオなのです。そこで、聖書に描かれている劇的な終末をもう少し詳しく調べてみましょう。

ペトロの手紙2には、次のように記されています。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」(3章8~10節)

ペトロがまず訴えている点は、神はこの地上の限られた時間に影響されるようなお方ではない、ということです。従って、私たちにとっては永遠とさえ思われる千年間も、神の時間観念からすれば、ほんの1日のようなものだ、といいます。神は人間世界の時間に縛られてはおられませんが、ペトロが急いで私たちに再確認させていることは、神は人類の反逆という悲しいできごとに終止符を打ちたいと熱望しておられる、ということです。

それではなぜ、神はいますぐにでも戻って来て、私たちを天国へ連れて行ってくださらないのでしょうか?9節に、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」とあります。もし神がご自身だけのやり方で事を運ばれるのであるならば、すべての人間は深く考えもせずにルシファーよりも神を選び、死よりも命を受けるでしょう。しかし、神はこのようなやり方をなさいません。選択の自由の責任を、私たち人間に与えてくださるのです。

ペトロは続けて言います。人間の選びの時間はやがてなくなります。神はいつまでもお待ちにはならないからです。そして、「主の日は盗人のようにやって来ます」(10節)。主の日、つまりキリストが戻って来られる11番目のシナリオの日は、突然大変動の終局をもたらします。

ある人々は、「盗人のように」という表現について混乱しているようです。キリストはひそかに、人目を盗んで戻って来られるのだ、と彼らは考えているのです。しかし、「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」という10節を読めば、一目瞭然ではないでしょうか。王の王なるお方が、サタンによって横領されたご自分の惑星に戻って来られるのに、ひそかに、人目を盗む必要など全くありません。「盗人のように」という聖書の表現は、キリストの帰還がほとんどの地球人にとって、予期しないできごとであるということを示すためのたとえなのです。

鳴り響くラッパは復活の合図

さて、イエスご自身はこの世界の終わりについてどのようにお語りになっているのでしょうか?マタイ24章を見てみましょう。ここは聖書の中でも最も劇的な預言の章の1つです。

「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ1人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。……そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マタイによる福音書24章21~27、30、31節)

キリストが再臨されるとき、眠っていて気がつかないなどという人は1人もいません。再臨は決してひそかな事件ではないのです。雷鳴がとどろくような状況になるのです。私が現在住んでいるミシガン州では、ある季節になると雷が嵐のように鳴り響きます。とてつもなく大きな音です。そんな夜には、頭を枕の下に埋めても眠れたものではありません。

さて、稲妻がひらめくようにキリストがあらわれると、大きなラッパの音が鳴り響くといいます。このラッパの音とはどういう合図なのでしょうか?

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと1緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(テサロニケ14章16、17節)

命をお与えになる神の号令に合わせてラッパが鳴り響くと、すでに死んで墓に眠っていた神の子らは、永遠の命へと復活させられるのです!そして次に、生き残っている私たちが、空中で主と会うため、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられるというのです。何とすばらしい約束ではありませんか!

このときの大きな喜びを、みなさんは想像できるでしょうか?父や母、息子や娘、兄弟や姉妹、夫や妻、恋人や友人、祖父や祖母、みんながもう1度出会えるのです。そして、もう2度と別れることはありません。

希望はまだありますか?

「わたしは戻って来る!」

どなたが戻って来られるというのでしょうか?キリストが天にお帰りになられたとき、2人の天使が次のような確証を残しています。

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た2人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」(使徒言行録1章9~11節)

地上におられたとき、父なる神の愛をもって私たちを抱擁されたイエス。私たちと1緒に食事をし、ともに笑い、ともに泣いてくださったイエス。この同じイエス・キリストが、地上を去って行かれたのと同じ姿で、また帰って来られるのです。決して人目を盗んで戻られるのではありません。すべての人が見ている前で、力強くおいでになるのです。ですから、黙示録1章7節は宣言しています。

「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る」と。

「わたしは戻って来る!」

この輝かしいお約束、すばらしい11番目のシナリオのことを、聖書は「祝福に満ちた希望」(テトスへの手紙2章13節)と呼んでいます。今日、この地球上から急速に陰をひそめ、消滅しつつあるのは、この「希望」です。

数十年前、アメリカの最新鋭の潜水艦が転覆し、乗組員全員を水の牢の中に閉じ込めたまま、海底に沈んでしまいました。艦内との交信ができたため、救出は可能だと当初思われました。しかし、必死の努力にもかかわらず時間は過ぎて行くばかり。ついに艦内の酸素が尽きる直前に、船体を叩きながら最後のメッセージが送られてきました。

「希望…は…まだ…あり…ま…すか?」

果たして、私たちに希望はあるのでしょうか?これは、すべての人の心の奥底に潜んでいる疑問です。

アメリカの若者の多くは希望を失っています。この国で「X世代」と呼ばれている20歳前後の若者の自殺者は、ベビーブーム時代(60年代)の若者の自殺者の3倍もいるのです。10代の若者の4人に3人は自殺を考えており、4人に1人以上が、実際に自殺を企てたことがあるといいます。ヤング・アダルトの間で、自殺は死因の第3位なのです。

主イエスよ、来てください

希望があると感じられる限り、私たちは耐えることができます。しかし、本当に希望はあるのでしょうか?

私は、はっきり申し上げます。あるのです!この暗黒の時代に、明るく輝く光があるのです。その光は、ご自分の死の前夜、絶望の中で涙を流されたイエス・キリストの光です。見捨てられ、絶望のうちに十字架につけられたイエスは、現代人の絶望をだれよりも味わい知っておられるお方です。それゆえに、地上の歴史の中でいかなる時代よりも現代に対して、イエスは熱心に訴えておられます。若い者も年老いた者も、すべての人の前に立ち、十字架で傷つけられたその両手を広げて語りかけておられます。

「心を騒がせずにいなさい。神と私を信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんあります。その場所を用意したなら、私は必ず戻って来て、あなた方を私のもとに迎えます。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになるのです。地上で始まった私たちの友情は、いつまでも永遠に続くのです!」

キリストが再びおいでになることは、祝福に満ちた希望です。これこそ、私たちにとって唯一の希望なのです。

聖書の最後の頁には、次のような祈りが記されています。

「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」(ヨハネの黙示録22章20節)

みなさんもこの祈りに加わり、その希望をお持ちになりませんか?求めるときに与えられるのです。イエスは両手を広げて、招いておられます。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(同17節)と。

永遠の希望とは

ベトナムから引き上げてきた最初の戦争捕虜を写した時事写真の1枚を、だれも忘れることはできないでしょう。雑誌ライフの表紙を飾ったこのモノクロ写真をご覧になったことがありますか?

解放された捕虜たちを満載し、巨大なC-140輸送機が着陸しました。兵士たちを歓迎するために、大勢の家族や友人たちが空軍基地に来ています。轟音を響かせながら、ついにジェット機は群衆の近くの滑走路に降り立ち、やがて止まりました。後部ドアのタラップが用意され、帰還した兵士たちは1人また1人と飛行機から降りてきました。

父親である1人の兵士が飛行機から降り、飛行場に立ちました。カーキ色の軍服を着、軍帽をきちんとかぶっています。が、彼の顔や体は以前よりずっとやせていました。しかし、飛行機から彼が降りて来たとき、1人の少女が滑走路を横切って走って行ったのです。この少女は群衆と飛行機の間に張られた立入禁止のリボンをくぐり抜け、思わず走りだしたのでした。

その子は兵士の娘でした。顔を喜びにほころばせ、黒髪を風になびかせ、両手を広げ、少々間違った歓迎の仕方でしたが、彼女は走り寄って行ったのです。父親は少女を見つけると、すぐに持っていた鞄から手を離し、かがみこんで腕を広げました。

そして次の瞬間、少女は地面から跳び上がり、父親の胸の中に跳び込んだのでした。その瞬間をカメラのシャッターはとらえました。モノクロフィルムでとらえられたその一瞬は、いまや時間を超えた愛の再会の名場面として残されたのです。

「アーメン、主イエスよ、来てください」

永遠の希望が、永遠の友情の中に包み込まれています。この希望こそ、キリストの再臨の約束そのものです。こういうわけで、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りをもって聖書は終わっているのです。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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