第7課 死から生を学ぶ

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考えたくない確かなこと

「不確実性の時代」といわれてから久しくなります。変化の激しい、何事も予測するのがむずかしい時代です。日本人の死亡原因も第1位が脳卒中から、がんにかわりました。そのがんの中でも肺がんが胃がんにかわって1位になりました。しかし昔も今も日本人の死亡率は100%です。

しばらく前のことになりますが、ある新聞の身上相談欄に学生からのこんな投書が載りました。

「僕は人間が死んだらどうなるかを考えました。しかしさっぱりわかりません。ただ死というものは何よりも恐ろしいもののような気がします。でもいくら死にたくなくても人間死ななければならない、そう思うとよけいに恐くなってきます。死ぬときには、喜んで死ぬことができるようにしましたがダメです。

その悩みを日記に書いておいたりしますが、あとで日記を見た時、思い出してはいけないとそれを消してみたり、そんなことばかり繰り返して忘れることができないのです。僕は何でこんな質問と笑われそうな気がしますが真剣に悩んでいるものです。笑わないで教えてください」(足立区M生)。

担当の回答者の回答は次のようなものでした。

「……そこでわたしはあなたに次のように心がけていただけたらと思うのです。それは毎日の生活の中でそうした考え(死の恐怖)をもつ余裕のないように努力すること、つまり仕事、勉強、運動、娯楽、食事、睡眠といった人間の営みの各場合にそのことに対して全精神を集中し、没頭しきれる習慣をつけるように心することです。

もしふと死について思い出したらすぐ他のことに転換する。たとえばそれを明日の楽しい計画にでもきりかえてごらんなさい。できる場所ならラジオ体操をはじめてもよいでしょう。そうしている中には必ず死を忘れている間隔が長くなり、いつの間にか思い出さなくなると思われます」。

仮にこの若者がアドバイスに従って首尾よく死を忘れることに成功しても、死はこの若者を忘れてはくれないのです。職を失う、手足を失う、全財産を失う、いずれも真剣に考えざるをえない重大事です。しかし死では自分そのものがなくなってしまうのです。なぜそのことを、みな考えまい、忘れようとするのでしょう。

限りあるいのちを生きる

観光地によくタイマー付きの望遠鏡が設置されています。時間が来たらシャッターが切れ、何も見えなくなります。漫然と何も考えずに時を過ごし、見るべきところも見ないうちに時間切れになってしまったらみじめです。望遠鏡はもう一度お金を入れればまた見れますが、人生はそうはいきません。終わりが来ることを頭に入れず、いつまでも生きるかのように生きているとすれば、それは錯覚であり、うかつな生き方といわねばなりません。

同じような重罪で監獄で暮らす囚人でも、死刑囚と無期囚では一日一日の意味がまったく違うようです。日々近づく終わりを意識している死刑囚は、多くの場合、短歌や俳句などに思いを託し、残された毎日をたいせつに生きようとします。それに対して無期囚は変わりばえのしない日々を無感動に生きている者が多いのです。終わりを意識する生き方は、生の充実につながります。いのちを考えるということは、死を考えることであり、死からまた生を考える知恵が必要です。アメリカ人は死ぬときは、終わりを自覚して準備ができる「がん」がよいと考えるのに対して、日本人はポックリ往くことを望む人が多いといわれています。

死の1か月前、牧師である夫から自分ががんであることを知らされた原崎百子さんはその日の日記にこう記しました。

「わたしの生涯は今日からが本番なのだ。これまでの一切は、これからの日々のためのよい準備でもあった。……よき死とは、死ではなく生の形なのだ。生活の最後の部分を、避けがたい死を見据えながら、如何に生きるか、問題はそれなのだ」。

自分の死を自覚し、考えることができるのは人間だけです。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが人間に定まっている」と聖書にあります。自分の終わりがいつ来るかだれにもわかりません。そのときにあわてふためくことのないよう平素から自分の人生観、死生観をしっかり持っておきたいものです。

いのちの価値は長さではない

近代医学はいのちを延ばすことを目的としてきましたが、近年、長さよりいのちの質が問われるようになりました。平均寿命が世界一長くなっても、死は平等にすべての人に必ずやってきます。その時には、慚愧や後悔の念ではなく、平安と感謝の念をもって終わりを迎えたいものです。

しかし、それは死を前にして急にできることではないようです。それまでのその人の生きざまの積み重ねがそこに現れるのです。

ホスピスで多くの患者を看取ってきた柏木哲夫医師は、自らの体験を次のように語っておられます。

「多くの人々の死を看取ってきて、最も強烈に印象に残り、また教えられたことは『人は生きてきたように死んでいく』ということです。言い換えれば『人は生きてきたようにしか死ねない』ということです」。

よき死を迎えるためには、よき生を生きなければなりません。死を考えることは、生を考えることに他ならないのです。

祈りの言葉
神さま、人生には必ず最期がやってくることを考えると恐ろしくてたまらなくなってしまいます。死を見据えて生きるためにはあなたから勇気をいただくことが必要です。神さま、あなただけが死を支配しておられます。どうぞ私の今日の歩みを希望と平安へと導いてよく生きることができるように助けてください。
イエス・キリストのみ名によって、お祈りします。アーメン。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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