第1課   人生の謎

目次

人生の謎

私たちをとりまいている、この宇宙には、多くの謎があります。人間は宇宙の謎を解こうとして、長い間、血のにじむような努力を続けてきました。ニュートンは、「私は海辺で小石や貝殻を集めている子どものようなもので、私の前には未知の真理の大海が横たわっている」と言いました。その後、科学の大きな進歩があったのですが、ウィーン大学の物理学教授、チェンバレン博士は、「ニュートンは、自分を海辺に遊ぶ子どもにたとえたが、我々は今でも、やはり海辺に立っている。我々が知っているのは、本当に小さなかけらに過ぎない。だいたいにおいて我々は信仰に頼っているのだ」と言っています。

しかし、人間自身の中にも、周囲の世界と同じように、多くの謎があるのではないでしょうか。ジョン・ラスキンは、「人が教育を受けたというためには少なくとも、次の3つのことを知っていなければならない。すなわち、自分の立場と、どこに向かって進んでいるかということ、および、いかなる事態におかれてもなすべきことを知っているということでなければならない」と言っています。

「人生とは何か」「人生の目的」「人間とは何か」「人間の運命」というような、私たちの日ごとの生活の土台となるべき重要な問題や考えは、多くの人々にとっては、まだ解かれていない謎です。「人生は不可解」というのは、厭世哲学青年だけの嘆声ではなく、私たちがまじめに人生の事実に直面するとき、だれでも考えさせられる言葉でしょう。

人生の夜

教会に出席した一人の学生に、集会後、牧師が語りかけました。

「あなたは何を勉強していますか」
「法律です」
「学校を卒業したら、どうするつもりですか」
「弁護士になりたいと思っています。この世の中には、正しい人でも困ったり苦しんだりしている人がたくさんいると思います。私は弁護士になって、そんな人たちを助けて、幸福にしてあげたいと思っています」
「それはよい考えです。弁護士になった後はどうしますか」
「多くの人々を助け、働いて、お金を貯め、評判を得て、自分の生活も安定させたいと思います」
「そしてその後は、どうなるでしょう」
「定年になるまで働いてから引退し、田舎に土地を買って、大きな家を建て、安らかな老後を送るでしょう」
「それでは、その後は?」

学生はしばらく考えていましたが、答えました。

「私もほかの人と同じように死ぬでしょう」

「それではその後は」と問われたとき、学生は頭をうなだれて、考え込んでしまいました。この牧師の質問は、学生の心に深い印象を与えました。「人生の終わり」という遠い将来のことのように思っていたこの問題が、大きく心をとらえるようになりました。

「人生の終わりは何か」という問題は、だれでも一度は考える問題ですが、満足な解決を得られないままに年を重ね、この世の実務に追われるようになると、つい忘れてしまいます。そして現実的な面だけを見ながら、打算的な生活を送るようになります。しかし考えても、考えなくても、この問題の現実性に変わりはありません。いつかは、この問題に正面からぶつからなくてはならなくなるのです。

人生はよく旅路にたとえられます。大きな河の流れを想像してみましょう。そこにはいろいろな船が走っています。大きいのもあれば、小さいのもあり、またある船は流れにのって勢いよく走っており、ある舟は、よどみに入って停滞しています。人生の船路でも、ある人は順風満帆の人生を送っていますが、一方では何事も思うようにならないで、あせっている人もいます。

しかし、どの船も結局海に出ていくように、どんな人生を送っても、結局、死という海の中に入っていくのです。しかも、人生の旅においては、死は必ずしも旅路の終わりに来るとは限りません。どんな若い人でも、いつこれに直面するかわからないのです。

方丈記の記者は、人生は流れに浮かぶうたかたであり、いつ消えてしまうかわからないと書きました。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人も遂には亡びぬ、ひとえに風の前の塵のごとし」という平家物語の冒頭にある言葉は、人生の現実の姿として、だれも否定することはできません。

ルカによる福音書12章16節から記されている「愚かな金持ち」のたとえ話を読んでみましょう。

「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」

短いたとえ話ですが、イエスは人生の現実の姿を、如実に描き出しておられます。目に見える世界をもって全部とする者の愚かさを示されたのです。人生の計画の中から、神を閉め出した人々は、いつかは必ずこのような経験をしなければなりません。計画が成功し、額に汗して蓄積したものによって、将来に対する安定が得られたと思ったときに、突如として死が襲うのです。だれもこの事実を否定することはできません。

死という厳粛な事実に直面して、人はこの問題を解決しておかなかったことの、うかつさをしみじみ悟るのです。

物質的な豊かさは安定した生活の保証とはなり得ないのです。一生苦労して蓄積したものが、一瞬にして自分の手から離れてしまうのです。かつて大切だと思ったものが、全く無価値なものとなってしまうときが来るのです。そして自己中心の生活をして、神に対して富まぬ生活に破綻が来るのです。「よく聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう』と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブの手紙4章13、14節)。

しばらく現れてついに消える霧のような私たちの生命を、私たちは何によって支えようとしているのでしょうか。

英国の文豪サー・ウォルター・スコットは若い頃、一個の砂時計を持っていました。その時計の面にはギリシア語で、「夜来たる」という文字が彫りつけてありました。彼はその砂時計を、新婚生活をはじめたエスク河畔の家の庭の芝生の真ん中に置いていたということです。彼は若い頃から人生の夜について考えていたと思われます。婚約中に彼は、未来の妻に送った手紙の中で、しばしば死について語っています。彼らの歓喜に満ちた新婚生活は、しっかりした土台の上に築かれたものでした。

スコットは臨終のときに、ヨハネによる福音書14章の「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」から続く箇所を読んでもらって最大の慰めを得て、「夜が来た」とささやいたと伝えられています。彼の生涯は人生の夜のために準備されていたのです。

いろいろな問題

人生の終わりは何かという問題は、どんな人でも解決しておかなければならない人生の大きな問題の一つです。私たちの個人の生活は、本当に満足な、幸福に満ちたものでしょうか。家庭生活はどうでしょうか。夫と妻の間に、両親と子どもの間に問題はないでしょうか。文明の進歩はこれらの問題の解決にどんな助けを与えたでしょうか。

さらに視野を広げて、人類の歴史をながめてみましょう。人間の歴史は争闘の歴史でした。過去数千年の歴史において、世界中に戦争のなかった期間は、わずか数百年にも満たないのです。「戦争を終結させるための戦争」が過去において何度行われたことでしょう。戦争の悲惨を経験した人々は、再び戦争はしないと決心します。しかし次の世代はまた戦争の正当な理由を発見して、再び悲惨な経験を繰り返すのです。

1945年6月サンフランシスコで調印された国際連合憲章の前文に次の言葉があります。

「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、……一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するために……われらの努力を結集することに決定した」

だれでも戦争は嫌いですし、戦争の絶滅を切望していることは事実です。平和的手段によって、すべての問題を解決することができるような世界の出現を望んでいますが、過去においてそれは実現できませんでしたし、現在においても、また将来の見通しも明るくはありません。この世界はどのようになっていくのでしょうか。

第二次世界大戦が終わって間もなく、ある新聞に「現代の危機」という問題について、次のような記事が出ていました。

「世界中の人間が、人間の生き方、在り方の根本に触れた問題として、人生の根本を堀り下げていったときに、そこに一つの危機を発見したのである。それは、人間の知性が、人間生活を本当に正しく導いていく力があるのか、ないのかという根本的な疑問にぶつかったことから発したのである。人間はまだ戦争の危険から解放されていない。戦争がどんなものであるかは、十分承知していながら、それを完全に防止する手段を知らないままでいる。第二次世界大戦で、世界各国が消費した金額はおよそ1兆540億ドル、資産の損害は2309億ドル、しかもこれには約10年にわたる日中の紛争による戦費と損害とは含まれていないのである。死傷者の数も東西あわせて5000万人を超えるといわれる。

もしこれだけの人命と、これだけの費用とが、逆に人間の幸福と繁栄のために、直接使用されたとしたら、どんなによい世界が建設されることであろう。この一見平凡な理屈が、理屈としてはだれの考えにも明らかでありながら、それが実現されずに、今度のような全人類にとって不幸な戦争が起こったのである。これが知性の無力でなくて、なんであろうか。これが知性の危機でなくてなんであろうか。

もし人間の知性が戦争を防止できたならば、科学上の発明は、直接に人間の幸福と繁栄とのために使用され得たはずである。

航空機の発達と、原子爆弾のおそるべき威力とは、もし今後も人間が戦争を止めないならば、おそらくは世界を破滅させてしまうだろう。人類に滅亡的な損害を与えるだろう。これこそは人間にとって、人間の知性にとって、最大の危機ではないか。知性はみずからを滅ぼすか、ないしは逆に人類を幸福と繁栄とに導くかのわかれ目に立たされている。

このように考えてくると、危機という言葉の、真実の、そしてまた一番大きな意味は、それが世界中の人間にとっての『知性の危機』であることがわかるであろう。そして、これが『現代の危機』なのである。

全人類の運命を決する、この知性の危機は、したがってまた良心の危機であり、あるいは、宗教的には霊の危機でもある。これらをひっくるめたものが、『現代の危機』の世界的意義である」

このような世界の危機に対する解決を、私たちはどこに求めることができるでしょうか。20世紀の初めごろまでは、明るい将来を夢見ていました。科学文明の進歩は、人間に幸福な世界を約束するかのように見えていました。けれども今は、人間は人間の知性によって、人間の問題を解くことができるかという根本的な、深刻な疑問を抱かざるを得ない状態なのです。

20世紀の最も代表的な進化論的理想主義者であったH・G・ウェルズも、死のしばらく前にはその楽観論を続けることができなくなりました。「今までは天体が重力によって結びつけられているように、物事は論理的な統一をもっていたけれども、今日では、そのひもが切れて、すべてのものが、ともかく、どこかへ速度を増しつつ、追いやられているように見える。……私はこれから逃れ出す道はないと思う。これは終わりだ」と書いています。この世界はどうなっていくのでしょうか。

ルコント・デュ・ヌイは、フランスとアメリカで、ノン・フィクションのベストセラーになった『人間の運命』という著書の中で、「人間はその歴史の最暗黒な時代の一つを今まさに通ってきたばかりのところである。戦争は世界の遠いすみずみにまでも侵入し、その先例のない凶暴性は、人類の最も誇りとしていた文明の堅実性や永久性について、我々の抱き得たほどの幻想をことごとく打ち壊してしまった。この事実を想うとき、これこそは前代未聞の最大悲劇的時代であったとさえいうことができるであろう」と言っています。その後の世界はどうでしょうか。再び暗黒に向かって、一歩一歩進んでいるのではないでしょうか。

このような人生において直面する多くの問題の解決を、私たちはどこに求めたらいいのでしょうか。多くの人々が人生の謎を解こうと試みました。過去の多くの人生論や処世哲学がそれを示しています。しかし人間の知恵は満足な解答を与えることはできませんでした。またその解答が間違いのないものであるかどうかもわかりません。

今から約2000年前、ローマが世界に君臨していました。ユダヤはその属国でしたが、そこにつかわされていた総督ピラトは、イエスに向かって、「真理とは何か」という問いを発しました。そのとき、イエスはこの質問に答えることはしませんでしたが、他のときに、弟子たちに対して、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)、「わたしは真理についてあかしをするために」(ヨハネによる福音書18章37節)来たと言われました。イエスは人生のあらゆる問題について、その真相を示し、また解決の道をお示しになりました。真理は不変の原則です。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル人への手紙13章8節)真理であり、また真理を示してくださる方です。イエスの示された道は、生命の道です。私たちが人間として幸せに生活する方法であり、人間としての本当の生き方なのです。

イエスが地上におられたときにも、いろいろな考えがありました。しかし、本当に人を生かし、人生のあらゆる問題に解決を与えることができるものはなかったのです。「わたしがあなたがたに話した言葉は……命である」(ヨハネによる福音書6章63節)と言われたイエスの言葉は、妥協を許さない、きびしいものを含んでいて、自己を全く捨てきれない人々がイエスから離れていきましたが、弟子の一人、ペテロは、「わたしたちは、だれのところへ行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネによる福音書6章68、69節)と言って、イエスのほかには人間を生かす言葉のないことを告白したのです。多くの言葉はありますが、命の言葉は、イエスにのみ見いだされるのです。

クリスチャンの世界においても、イエスの言葉よりも、人間の判断や知恵に頼って、この生命を失ったことがしばしばありました。合理主義が人間の理性を神の言葉の上においたために、キリスト教が生命を失ってしまったこともありました。イエスの言葉は、常に人間の生活の正しい方向を示し、人生の謎に満足な解決を与えてきました。また人生観の土台を与えてきたのです。

イエスの言葉は、まず人間の本質を示します。それは「神のかたち」にかたどってつくられたという光栄ある人間の姿です。

次に人間が神を離れ、罪の奴隷となって、今日のような悲惨な世界が出現する原因をつくったことを示しています。神を離れた人間が、再び神を見いだし神に帰るよりほかに、人間の問題を根本的に解決する方法はないのです。イエスはみずからこの地上に来られ、十字架による犠牲の死を通して、人間が神に帰る道を開かれたのです。

イエスの言葉は、行き詰まった人生に、新しい光を与えます。人生は不可解といって、自殺しようとしている人に希望を与えるのです。人生の重荷に耐えかねている人に勇気と力とを与えます。イエスの言葉から来る新しい光に照らされるとき、人生の本当の姿がはっきりしてきます。生きる意義をつかむことができます。そして暗黒に見えるこの世界の将来に対しても、神は驚くべき、希望に満ちたご計画を持っておられることがわかります。現代の危機の意味、およびそれを打開する方法を悟り、希望を持って、日々の歩みを進めることができるようになるのです。

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