啓示されたキリスト教
キリスト教は啓示された宗教です。これは人間のうちから発生してきたものではないのです。人間の思考の産物ではありません。純粋に人間とは一線を画するもの、すなわち神の啓示が中心となっています。クリスチャンは、人生のあらゆる問題を主観的に考える代わりに、神の啓示を求めました。すべての問題の解決の鍵を、神の啓示である聖書に求めたのです。その結果はどうだったでしょうか。
17世紀の英国の有名な物理学者アイザック・ニュートンは、「聖書は最高の哲学である」と言っています。
「たとえ精神文化が永遠に進展しようとも、たとえ人間精神が思うがままに広がりゆこうとも、福音書の中にきらめき輝くキリスト教の高さと道徳的文化を越えることは決してあり得ない」。これはゲーテの言葉です。
アメリカの第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの言葉を聞いてみましょう。
「聖書は生命の言葉である。聖書を読めば、それが神の言葉であることがわかる。あなたの心、あなたの幸福、あなたの義務の鍵であることがわかるからである」
これらの言葉は、聖書を土台として人生を歩んできた人々の体験から出た言葉です。
ウッドロウ・ウィルソンは、「私は大統領としての私の前にある問題を、私が聖書を忠実に学ぶ程度に比例して解決することができると思う」とも言っています。聖書は人生の問題に解決を与え、生活の指針となるばかりでなく、仕事に成功する道も教えるのです。
「実業家で聖書に従っていった人はないだろう。クリスチャンのようなことをしていては商売はできない」と言う人がいますが、本当に成功した実業家の中には、熱心なクリスチャンが少なくありません。
百貨店王といわれているジョン・ワナメーカーは生涯の経験を省みて、次のように言っています。
「私は生涯を通じて幾百万ドルにのぼる投資をした。しかし最も大きな買物をしたのは11歳のとき、田舎においてであった。ある小さな日曜学校で、私は2ドル75セントを出して、小さい赤革の聖書を求めた。私は生涯をふりかえってみるとき、あの小さい赤革の書物の上に私の生涯は築かれ、私の生涯において価値あるすべての事柄を可能ならしめたものは、あの本であったことがわかる。今考えてみると、あのときの投資が、私がした最も大きな、最も重要な、また最も影響の大きなものであった」
その他、いろいろな人が、聖書に人生の指針を求めた体験を語っています。
「聖書をよく知らない人は、すぐにと取り戻さねばならない大きな損失をもっているのである」セオドア・ルーズベルト
「神の言葉のほかに文明に対する堅固な土台はない」ダニエル・ウェブスター
「聖書を固く保たれよ。これはあなたの自由を確保する錨である。文明の進歩は、この書の影響に負うものであり、未来の指標としてもこれを仰がねばならない」ユリシーズ・グラント
「この驚くべき書物を深く学べば学ぶほど、またこの書の教えをよく守れば守るほど、我々はよい市民となり、国民としての我々の運命は高くなるであろう」ウィリアム・マッキンリー
「神と聖書がなければ、世界を正しく治めることはできない」ジョージ・ワシントン
「私が生涯においてなしたすべてのことは、私が子どものときに、母が毎日聖書の一部を読み、また暗唱させたことによるものである」ジョン・ラスキン
聖書の歴史的役割
歴史的に見ても聖書は大きな役割を果たしてきました。近代社会に起こった一つの大きな事件は奴隷制度の廃止ですが、この立役者であったエイブラハム・リンカーンを動かしたのは聖書でした。彼の有名な演説はすべて、聖書の言葉によって飾られています。聖書の中に示された人類の平等、人格の自由、尊厳の思想が彼を動かしたのです。神の光に照らされた彼の良心は、死をも恐れず、あの大改革を成就させたのです。聖書が尊重されたところには、常に自由と秩序があったのです。
その反対の例の一つは、革命と恐怖時代のフランスです。その頃、フランスを支配していた無神論的勢力は、世界のどこにも起こったことがないほど聖書に圧迫を加えました。国会は神を拝することを禁じ、聖書を集めて公衆の面前で焼きました。人々は聖書を捨て、自由と理性を選択し、新しい時代が来ると信じました。しかし、彼らは恐るべき革命発生の遠因をつくりつつあったことに気がつきませんでした。聖書の教えは公平、節制、真理、平等、博愛の原則を人の心に植えつけるのです。そしてこれらの原則は、国家を繁栄に導く支柱となります。このような支柱を失ったフランスは、あの惨憺たる流血の革命を経験するようになったのです。
対岸の英国では、聖書に立脚したウェスレー兄弟の宗教運動によって、流血の革命を免れたと言われています。
自由の精神は聖書とともにあり、聖書が受け入れられたところでは、人々は無知、悪徳、迷信を脱して、人間として正しく、自由に考え行動するようになりました。
聖書の思想は、文学・芸術・科学の各分野に広い影響を及ぼしてきました。
音楽のヘンデル、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、絵画のラファエル、ミケランジェロ等、聖書がその作品に、インスピレーションを与えてきた人々の名前をあげれば限りがないほどです。
聖書は世界中でベストセラーの位置を常に保ってきました。どんな宗教書でも、聖書ほど多くの民族、多くの国民に受け入れられてきたものはありません。今日世界で20億以上の人々が聖書を魂の糧としているといわれています。
今日では2500以上の国語、方言に翻訳されています。時が移り、所が変わっても、聖書はあらゆる所で、人々の心をとらえてきました。風俗、習慣、教養、文化の差にかかわらず、聖書は多くの人々の間に浸透していきました。これは聖書の中に、人間共通の基本的な要求にこたえるものがあることを意味するものです。
聖書の歴史
聖書は、キリスト降誕以前に書かれた旧約聖書と、その後に書かれた新約聖書との二つの部分に大別できます。旧約聖書は紀元前1500年頃から書き始められ、紀元前400年頃までかかって、神に選ばれた約30人の人々によって書かれました。原語は大部分ヘブル語で一部はアラム語です。39巻あります。新約聖書は27巻ありますが、8人の人々が、紀元40年頃から100年頃までの間に次々に書きました。原語はギリシア語です。
聖書の原本は写本によって伝えられました。聖書を写すことを仕事にしていた学者たちは聖書の言葉を重んじ、厳密な注意をもって取り扱いました。写本にかかる前に原本の語数、字数を数えました。ですから彼らは、旧約聖書の各巻がいくつの語、いくつの字からできているかを知っていました。また各巻の真ん中はどの語、また旧約聖書全体の真ん中の語もどれかを知っていました。またある語が何回、用いられているかも数えていました。写本と原本と比較して、もし違っているものを発見したときには、訂正しないで捨ててしまったのです。このように注意深く取り扱われてきましたから、原本がそのまま保たれてきたと考えて差し支えないのです。
新約聖書についても、同様のことが言えます。約1500年以上にわたって、欧州、アジア、アフリカにおいて多くの人々によって写本が行われ、また翻訳がなされましたが、これはやはり非常に厳格に、できるだけの注意をしてなされたのです。その結果、今日いろいろな国語によって書かれた幾千の写本があります。
これらの写本について、過去300年間にわたって広範な研究が行われました。文献学的研究でこれに匹敵するものはありません。10年間にわたって、581のヘブル語の写本を比較研究したケニコット博士は、「3世紀から16世紀までの各国、各時代にわたるすべての写本を集め、数知れぬ批評家たちが、1000回以上検討したが、今まで確実と思われていた聖書の一つの句にも疑惑を投げかけることができるものはなかった。相違点はほとんど例外なく、各句の本質的な思想に影響を及ぼすものではなく、副次的な点についてのみであった」と述べています。
神の啓示としての聖書
聖書が神の啓示、神の言葉であることはどうして認めることができるでしょうか。これを認める助けとなる事実と考えを次にあげてみましょう。
1. 聖書の主張
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙3章16節)と聖書は主張しています。実際、聖書中に「神は言われた」という言葉が数多く用いられています。このような主張は、反証がない限り、否定するわけにはいかないのです。
神は自然を通し、また人間の良心を通してみずからを啓示されますが、それだけでは十分ではありません。ことに人間が罪のために悲惨な状態に陥っているのを、神は積極的に何もしないで、見ておられるのではありません。神はあてどもなく迷って苦しんでいる人間に救いの手をのべ、啓示を与えてそのみ旨をお示しになり、間違いのない道を教えてくださったのです。そして真理を保存する方法として書物の形をお選びになりました。このようにして人間の生活、行為の動かない基準が明示されたのです。
2. 聖書の統一性
職業も経験も時代も、あるいは住んだ場所も異なった約40人の記者によって、1600年間にわたって記された66巻の聖書は不思議な統一を示しています。神、人間、罪、救い、永遠の命などの根本的な教理について、いささかも矛盾がないのです。そればかりでなく完全な調和と発展があります。人間の哲学を見るならば、そこには一致の代わりに、常に根本的な衝突と矛盾があります。たとえば神を信じたプラトンが正しければ、唯物論者であったデモクリトスは間違っていると言わなければなりません。聖書には互いに矛盾を示すところがないというのは、どんな理由によるものでしょうか。
ただ一つの納得のできる説明は、聖書の真の著者として、聖書記者に霊感を与えて執筆を導かれた神を認めることです。
3. イエス・キリストの言葉
イエスは復活された後、エマオ途上の弟子たちにあらわれ、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ」(ルカによる福音書24章13〜32節)と言われて、モーセおよびすべての預言者がご自分について聖書の中に記した箇所を示されました。山上の説教においても、「律法の一点、一画もすたることがな(い)」(マタイによる福音書5章18節)と、聖書が神からの不変の言葉であることを示されました。また人間がこの教えに従って生きるならば、この教えが神から来たことを知ることができると教えられました。
4. 聖書の永続性
聖書はあらゆる迫害を受けましたが、いまなお存在し、人に新しい生命を与えています。イエスが地上を去られた後、初代教会を襲った凄惨な迫害の中にあっても、「こうして、主の言はますます盛んにひろまって行った」(使徒行伝12章24節)との記録があります。ペテロの第一の手紙1章24、25節には「『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」とあります。
5.科学的な記述
聖書は科学の教科書ではありませんが、その中の自然界に関する記述は真の科学の結論と一致するものです。過去において自然に関する人間の理解と矛盾すると思われた聖書の記述も、科学の進歩と共にその真実性が支持されるようになってきました。
その一つの例は、ヨブ記26章7節に「地を何もない所に掛けられる」とあります。ヨブ記が書かれた時代(紀元前1500年頃)にはまだ引力のことも知られず、人々は地球は何かに支えられていると考えていたのです。ここに啓示にあらわれた神の知恵を見ることができます。
6.考古学の発達
17世紀の半ば頃から聖書の信頼性についての攻撃が、ことに歴史的な部分に対して、盛んに加えられてきました。このような批判は高等批評といわれているものです。
しかし、近世考古学の発達によって多くの発見がなされ、聖書の歴史の確かなことが証明されました。英国の考古学者チャールス・アーストン卿は「聖書についての考古学は、聖書の確実性を支持した」と言っています。
その一つの例は、旧約聖書に50回近くも名前が出てくるヘテびとです。歴史家はそんな民族は存在しなかったと言っていました。しかし20世紀の初頭、小アジアに広大なヒッタイト帝国(ヘテびとの王国)の遺跡が発掘されました。
私はシカゴ大学のオリエント研究所で、ヒッタイト帝国の文化をあらわす多くの発掘物を目の前に見たとき、聖書の歴史性を裏づけている神の力を思わずにはいられませんでした。
ペンシルベニア大学のモリス・ジャストロー教授は、「バビロンとアッシリアの歴史について最も価値ある文献は旧約聖書である」と言っています。
7.預言の成就
聖書は多くの預言を含んでいます。神は預言を通して人間に将来に対する光をお与えになりました。また預言は神が将来を見通しておられることを示しています。聖書の預言は終末に関するものを除き、ほとんど全部すでに事実となってあらわれています。次にその中から著しい例をあげてみましょう。
古代バビロンについて、紀元前750年ごろの預言者イザヤは、「国々の誉であり、カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え、世々にいたるまで住みつく者がなく、アラビヤびともそこに天幕を張らず、羊飼もそこに群れを伏させることがない。ただ、野の獣がそこに伏し、ほえる獣がその家に満ち、だちょうがそこに住み、鬼神がそこに踊る。ハイエナはその城の中で鳴き、山犬は楽しい宮殿でほえる。その時の来るのは近い」(イザヤ書13章19〜22節)と預言しました。
人類の歴史において最も栄えた都、要害堅固で難攻不落と言われていた都は、紀元前539年突如として滅亡の運命に陥り、預言に示されたように今日に至るまで荒廃の状態にあるのです。
フェニキアの重要な商業都市であったツロについて、エゼキエル書26章14節に「わたしはあなたを裸の岩にする。あなたは網を張る場所となり、再び建てられることはない。主なるわたしがこれを言ったと、主なる神は言われる」とあります。歴史の過程の中にこの預言は成就しました。無神論者が神の言葉を否定したければ、この場所に古代に栄えたような都市を建設すればよいのです。興味をもって将来を見ようではありませんか。
今日成就しつつある預言もあります。これは興味深いばかりでなく、私たちの運命にも深いつながりを持っているのです。
8.人々の必要を満たし、品性を改変してきた事実
聖書の言葉は各時代、各国の人々の心の必要を満たし、嵐の多い人生に悩む人々に希望と平安を与えてきました。また人間の心や品性に大きな感化を与え、うるわしい品性を形づくる助けとなってきました。人々は「神の言葉は生きていて、力があり」(ヘブル人への手紙4章12節)との言葉を体験してきたのです。
以上いろいろな角度から聖書を見てきましたが、これらの事実は、聖書が神の霊感によって記された神の言葉であることを認める助けとなると思います。過去において、アウグスティヌス、カルヴァン、ルター、パスカル、ニュートン、その他多くのすぐれた人々が神の言葉としての聖書に対する信仰を告白しています。
聖書の理解しにくい点について
聖書の中には、理解しにくい点もあり、聖書は信じられないと感じている人もいます。まず、私たちが考えておかなければならないことは、人間の能力には限りがあって、すべてのことを完全に理解しつくすことはできないということです。また私たちは日常生活において、必ずしもすべてのことを完全に説明することができなくても、事実と認めていることが多くあるということです。たとえば生命現象でも、私たちは完全に説明しつくしてはいないのに、その事実は事実として受けとっているのです。
聖書も、これは神の知恵によって書かれたものですから、人間が全部理解してしまうということは必ずしもできないのです。また聖書の中に記してある奇跡なども、はじめは信じにくいのですが、私たちにそれが説明できないからといってそれはあり得ないと結論づけることはできません。私たちは聖書が神の言葉であることを信じ、それを事実として受けとっていくほかはないのです。
神の言葉を信仰をもって受け入れ、これに服従するときに、必ず私たちは神の言葉の真実性を体験することができ、神の言葉に全く信頼していくことができるようになるのです。
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