キリスト教の根本的な教え
キリスト教の一つの根本的な考えは、この世界およびその中にあるすべてのものの存在の起源を神による創造に求めることです。ここでいう創造とは、神がその力によって、何もないところに、この物的世界、および生命をつくられたことを意味するのです。そんなことが可能だろうかと疑う人が多いのですが、近代科学はその可能性を示しています。すなわち物質とエネルギーは互いに転移できるものであるといっています。それならば、無限の力を持っておられる神が、この世界を創造されたといっても、それは荒唐無稽な話、あるいは迷信であると断定するわけにはいかないのです。
聖書は「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)という簡単な、しかし力強い言葉によって始まっています。これがキリスト教的世界観の基礎となっているのです。だから聖書の研究を始めると間もなくこの問題が出てきます。そしてこの問題は、簡単に信じられないという人も少なくありません。
この世界がどうして存在するようになったかという問題は、新しい問題ではありません。昔から多くの人が考えてきました。いろいろな考えがありますが、大きく3つに分けることができます。
その一つは、そんな遠い過去のことは私たちにはわからない、これを見いだすことは不可能であるという不可知論者の立場です。
次はいわゆる進化論者の立場で、ある簡単な形あるいは混沌とした状態から、進化の過程を経て、今日のような複雑な世界が出現したというのです。
3番目の立場は、聖書が示しているように神の言葉による世界の創造を信じる立場です。
物的世界の存在の起源に関するこの問題の解答を、自然をその研究の対象とする自然科学に求めようとすることは、一応もっとものように見えますが、これは妥当なことでしょうか。
近代科学の根本的な態度は実証的ということです。どんな巧みな説明でも、整然たる形をそなえている理論でも、実証されなければ、すなわち、事実によって裏づけられていなければ、価値はないのです。
世界の起源という問題は、自然科学的に立証できるでしょうか。
旧約聖書の中に「わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え」(ヨブ記38章4節)という言葉があります。初めの状態と終わりの状態がわかっているときに、その中間の状態を考えることは割に安全にできるのですが、現在の状態から、初めの状態、または将来の状態を推測することは、よほど注意をしないと、とんでもないあやまった結論を引き出してしまう危険性があります。
この世界と生命の起源について進化論的ないろいろな学説がありますが、必ずある根本的な仮定をして、そこから議論を進めています。その仮定は私たちが実証することの不可能なものです。ですから、このような起源に関する問題は、純粋に自然科学の方法で解決することができない性質の問題なのです。
太陽系の生成に関する学説は数多くありますが、皆完全ではなく、また議論の出発に用いた、初めの状態についての仮定が真実であるということを証明する手段はないのです。ですからこのような理論は、理論としてはおもしろいし、また学問的にはいろいろな副産物もあって有益ですが、どの説も決定的と考えることはできません。
私たちの世界―地球の起源についても、いろいろな学説があります。その年齢について進化論者は数十万年、あるいは何百億年だろうと言っています。しかし聖書によれば、創造は6日間で完成し、それ以来、今日まで約6000年を経ているのです。ここにも聖書と自然科学の学説の間に大きな開きがあって、人々を惑わせます。
地球物理学の研究から得られている地球の年齢に関する数字は、その方法によって非常にまちまちで、またその考えの出発点において、どうしてもいろいろな仮定をしなければなりません。その一つひとつについて、ここでは細かに論じることはできませんが、ともかくそのような仮定に関しては人間の知識は不完全ですし、また完全に知る可能性もないのです。
この問題について岩波全書の『地球物理学』にはいろいろな地球の年齢を定める方法を説明したあとで、次のように記されています。「要するに地球の年齢に関する各種の理論は、それぞれ特別の興味を有してはいるが、いずれも余りに多くの仮定を黙認したもので、到底、厳密な科学的な批判に堪える事は困難であり、しかも各方面の推定の結果は互に融和しにくいから、確実な年齢は、なお依然として疑問である。しかし、ここにかかげた数字は、極めて大体の見当としては全く無用のものではあるまいかと思われる」
太陽系の起源に関する真理は自然科学の方法だけでは解明することができない性質のものです。聖書にも細かいプロセスは示されていません。ただ地球を中心にした私たちの世界の創造と、その他の天文学的世界が地球創造以前より存在していたことを認めているだけです。
そこで私たちがこの問題について何か一つの考えを持つならば、それはいまだ証明されていないある仮定を信じることになるのです。当然、その真実性を証明することはできません。ですからこの問題に関しては、人は聖書を信じるか、科学のどれかの仮定を信じるかということになるのです。
生命の発生について
生命の発生については、進化論はあまりはっきりした説明はしていません。進化論は相当古い歴史を持っています。最初にこれを唱えたのは、紀元前600年ごろの古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスでしょう。彼は、人間ははじめ魚の形をしていたが、ある時期に皮をぬいで陸に上がり、人間となったというのです。
近世になっていろいろな学者がこの考えを改良発展させましたが、とくに注目すべきはチャールズ・ライエルです。1830年にライエルは『地質学原理』を出版しましたが、この中で彼は、自然界には突然的な変化は起こったことがなく、私たちが今日まのあたりに見ているような自然の変化が長年月の間、累積して、今日の状態となったという連続性の原理を述べました。これを斉一説といいます。
この斉一説の考えを生物界に適用したものがダーウィンの進化論です。過去の出来事を、現在起こりつつある出来事によって解釈しようとする自然の斉一性は、先験的な原理として多くの人々によって受け入れられていますが、これは科学的に証明されないものです。
進化論は、進化を立証するという多くの事実をあげています。
その一つ二つをあげてみますと、異なった生物の間に見られる類似点、たとえば動物および人間の前肢、鳥の翼などについて細かに骨格を調べると類似点があります。これは、生物が共同の祖先から進化してきた一つの証拠であるというのです。
また発生学において、高等動物は発生の途中に下等動物の形態をあらわすという事実がありますが、これによって高等動物は下等動物から進化したと考えるのです。また同じ類に属する異なった種類の生物の同じ器官に、構造的に分化(生物体の細胞が分業化して、特殊の組織、または器官ができてくること)の異なった段階が見られます。たとえば、かたつむりの類の目について、あるものは細胞が少し変化している程度の簡単なもの、またあるものはガラス体や水晶体もあるというように、分化の程度が進んでいますが、これは進化の過程をあらわしている事実であると言っています。
これらはもちろん事実には違いありませんが、進化を立証するには無理があります。かたつむりの目に多少の変化をきたしたとしても、かたつむりの類を出るものではなく、やはりかたつむりは、かたつむりなのです。この程度の変化を進化と呼ぶならば進化は事実ですが、これは種類が変わるほどの変化ではありません。スイートピーは1700年頃にはただ一種類だったのが、現在は色も形も違う500種以上になっています。また今日200種以上に及ぶ犬は、もとわずかの種類の野生の犬から変化したことは疑いありません。人間にしても、現在少なくとも160の人種があるのですが、このような変化を進化というならば、進化は事実です。
進化論者はこのような変化には限界があることを忘れて、いわゆる進化を立証する材料としていますが、それは無理です。進化論を科学的に立証しようとするならば、自然界または実験室において、ある生物がその種を変じて他の種に変化しつつある実例を示さねばなりません。しかし、このような事実は確認されていません。
聖書の創造
さて、この世界がどのようにしてつくられたかを、聖書にしたがって見てみましょう。
創世記1章にこの記録が出ています。聖書はこれを、伝説ではなく純粋に歴史的事実として取り扱っています。イエスご自身も、人類の創造に関して、マタイによる福音書19章4節以下で、歴史的事実として取り扱っておられます。旧約聖書の記者はもちろんのこと、新約聖書の記者も同じ態度をとっています。詩篇8篇、104篇、ペテロの第二の手紙3章5節などを見ればわかります。
この世界の創造には6日間を要していますが、創世記1章2節には「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」とあります。これは地球が形づくられた物質がはじめに創造された状態を示しています。第1日には光があらわれました。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」。2日目には大空、すなわち地球をとりまいている大気がつくられました。3日目には、陸地と海および植物がつくられています。これは進化論的につくられたのではなく「類にしたがって」つくられたのです。この「類」というのは、今日の生物学でいう「種」と同じものではなく、もっと広い範囲を意味しています。4日目には天体―これは太陽系の天体と思われます―がつくられました。5日目には魚類、鳥類、水中の生物がつくられました。6日目には地上の生物(家畜や獣など)がつくられ、最後に人間がつくられたのです。
人間の創造については、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章26、27節)と記されています。
人間はほかの動物とは全く違ったようにつくられたのです。人間は動物であるかというならば、もちろん植物ではなく動物です。体の構造や、それを構成している物質は、ある種の動物とほとんど同じです。しかし聖書は、人類をほかの生物からはっきり区別しています。
まず「神のかたちに創造し」ています。神は地上の生物の支配者として、ご自身のかたちにかたどって、人間をおつくりになったのです。この事実によって、人間は地上生物の最高の地位を与えられるとともに、非常に尊い存在となったのです。「人は宇宙の光栄である」といったパスカルの言葉は、この意味において真実であり、このように高い人間観は、キリスト教の一つの特色です。私たちがこのことを自覚するとき、自然に私たちの人生における歩み方が変わってきます。
神が人間の創造を終えられたときの地上の有様は、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1章31節)という聖書の言葉によって想像されるように、実にうるわしい状態でした。
6日間にわたる創造の業を終えて、神は7日目に休まれました。
「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた」(創世記2章2節)。
この7日目は特別な日でした。この日を神は祝福し、聖別されました。そして、この特別な日ができてはじめて創造の業は完成したのです。
このような事実を基礎としたキリスト教の世界観、人生観の特徴は、神による、この世界の創造の目的にあります。
「天を創造された主、すなわち神であって/また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた」(イザヤ書45章18節)。すなわち地球は人類を住まわせる環境であったのです。そしてその上につくられた人間については、「わたしは彼らをわが栄光のために創造し(た)」(イザヤ書43章7節)と聖書は述べています。神の姿にかたどってつくられた人間には、無限の可能性が与えられていました。それを伸ばしていくことによって、神の栄光が現されてくるはずであったのです。
神の創造なさったこの世界は、人間が与えられた自由の意志を誤用したために、混乱に陥ってしまいました。しかし神はイエス・キリストをつかわして、人間に救いを与え、再び、はじめの状態に回復してくださるのです。
宗教と科学
創世記の科学性の問題について、考察を加えておきます。
根本的には聖書の言葉は信仰をもって受けとっていくべきものです。そういう信仰はどうして得られるかについては第3課で学びました。ある人々は科学で証明されていないことは真実でないと思っているようですが、科学的認識だけが真実の認識であるということができるでしょうか。
近代文化を大きく特徴づけているものは科学です。18世紀以来自然科学は、実証的方法によって目ざましい発達をとげましたが、19世紀に入って、技術の発達と結びついて産業革命を発展させ、科学は現実の生活と密接に結びついて、人間の生活を根本的に変化させました。このような科学の発達は、人間の生活様式を変えたばかりでなく、思想や世界観にも大きな変化をもたらしました。
科学の成果は目に見える形で人間の生活に多くのものを与え、実証的科学に対する人々の信頼は高まっていきました。今日一般の人々が科学を絶対に確実なものと考え、科学者の発言を重くみるようになったのは無理もないことです。その結果はいわゆる科学万能という傾向をもたらしましたが、それはいきすぎです。科学は物的宇宙を対象とし、しかも人間の五感を通して観察されるものを土台として、その理論を組立てていくのです。
純粋な科学はこの宇宙が神によってつくられたかどうかについて発言しません。また罪の問題や永遠の問題については何も語りません。それは科学の範囲外の問題なのです。純粋な科学は謙虚に己が立場を守り、科学によってすべての問題が解決するなどとは思わないのです。もちろん科学者も人間ですから、人生の問題について発言することはかまいませんが、科学者の発言だから正しいとは必ずしも言えないのです。
しかし創世記の記録は、実証された近代科学の結論と食い違っている点はないのです。むしろ近代科学はこれを支持し、またはその可能性を示しているのです。
ある人は、「聖書の中には奇跡というものがあるではないか。イエスが波の上を歩いたり、死人をよみがえらせたと書いてあるが、こんなことは現代の科学から見るとき、信じられない」と言うかもしれません。
奇跡は神の力のあらわれであり、今日も私たちは自然界にその力の働きを見ることができるのです。現代の科学で説明のできない事柄や現象はあり得ないと断定することができるでしょうか。生命の起源に対して科学は完全な説明を与えているでしょうか。生物の生長の機構を説明しつくしているでしょうか。
自然界にはまだ十分説明のできない事柄がたくさんあります。しかし私たちは説明ができないからといって、その事実を否定することはできません。事実として受けとっていくほかはないのです。人間の能力には限りがあるために、すべてのことを了解し、説明しつくすということはなかなか難しいことです。科学は自然の秘密をきわめようとして、一歩一歩努力を続けているのですが、まだ完全にすべてをきわめつくしたという所までは来ていないのです。不完全な現在の科学の常識で、すべてのことを判断してしまうのは危険です。パウロは、「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(コリント人への第一の手紙8章2節)と言っています。
人生における真の価値について目を開いてくれるのは宗教です。確固たる人生観の上に正しい価値判断がつくられるのです。科学はこのような問題にはタッチしません。神ご自身がお示しになる霊感による言葉のみが、人間に間違いのない目標と価値観念とを与えるものです。
科学と宗教は、互いに対立すべきものではないのですが、科学の本質を見誤った人々、宗教の本質を誤解した人々によって対立させられ、多くの犠牲さえ出してきたのは悲しむべきことでした。聖書を正しく把握することによって、人生の目的を教えられた科学者は、真に人生に貢献する仕事を残すことができるでしょう。
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