第6課   人生を暗くするもの

目次

人間の真の姿

英国の政治家グラッドストンは、「近代生活の最大の必要は何か」と問われたとき、「それは罪を意識することである」と答えたということです。

聖書は人間の真の姿を示していますが、テモテへの第二の手紙3章には、「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」と述べられています(1~5節)。

私たちが周囲をながめるとき、これらの罪悪がみなぎっているのを見ないでしょうか。いえ、むしろ自分自身の内面を深く反省するとき、自分の心の中にもこのようなみにくい姿を発見しない人々がいるでしょうか。

ローマ人への手紙1章29~31節には、次のような言葉で人間の姿が描写されています。

「彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている」

これが聖書が示す人間の偽りのない姿です。神のかたちにかたどってつくられた人間は、道徳的自由を与えられましたが、それはまた道徳的責任を負うことを意味するのです。

イエスの先駆者として、人々を救いへと導く準備の仕事をしたバプテスマのヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた」という叫びをもって伝道を開始しました。

イエスも、バプテスマのヨハネと同じ言葉をもって宣教を始められました。

「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」(マタイによる福音書4章17節)。

罪の存在を指摘し、これを処理しなければ天国は来ないのです。

罪とは何か

ヨハネの第一の手紙3章4節に、「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」とあり、ある聖書には、「罪とは律法を犯すことである」とも訳されています。ここでいわれている律法というのは、人間が定めた法律ではなくて、この世界を創造し、人間をおつくりになった神が、人間の行為の規準としてお与えになった道徳律です。これは十戒と呼ばれ、旧約聖書の出エジプト記20章に記されています。

この一見古めかしくみえる律法(十戒)を一つひとつ細かに考察していくとき、人間の行為のあらゆる方面をもれなく含んでいることを知って驚くのです。10の戒めの中で、初めの4つは人間の神に対する義務を教え、あとの6つは人間に対する義務を教えています。しかもこれらの戒めは、単に外的行為を律するのみでなく、人間の心の中の状態、動機までもその対象としているのです。

イエスはこの律法の意味を説明されました。マタイによる福音書を開いてみましょう。5章21節以下に、「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、……地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」というイエスの言葉があります。

イエスがこの言葉を語られたガリラヤ湖の対岸にはバシャンという所がありました。荒れ果てた山地や茂った丘は、多くの犯罪者のかくれ場となっていました。人々はイエスの言葉を聞きながら、強盗や殺人者のことを心に思い浮かべていました。また、彼らは心の中で、いま彼らに圧制を加えているローマ人に対して、強い恨みを深く抱いていました。神の選民として、ほかのすべての民族を軽蔑し、憎むことを特権とさえ感じていたのです。このような聴衆に対してイエスは、「あなたは殺してはならない」という戒めを犯しているのだと言われたのです。

憎悪と復讐の精神はサタンより出たものです。それは神の子をさえ十字架につけた精神でした。悪意や不親切な心はそこまで発展するのです。

「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」(ヨハネの第一の手紙3章15節)。

愛は消極的なものでなく、積極性を持った、活動的な原則であり、人々に祝福を与えるために、絶えず流れ出る泉です。キリストの愛が心に宿るとき、ただ憎しみの心を抱かないばかりでなく、あらゆる方法を通して人々に愛をあらわすことを求めるのです。これが神の律法の精神なのです。

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書5章27、28節)。

ユダヤ人は自己の道徳性を誇り、異邦民族の性的退廃を卑しんでいました。そして彼らに対するイエスの鋭い譴責の言葉を予期していたのでした。しかしイエスの言葉によって、自分自身の心の真の姿を暴露されて驚いたのです。外的行為にあらわれた不潔はもちろん悪いのですが、それと同様に、あるいはそれ以上に、心の中にひそかに抱かれた不純な思いも神の前には罪とされるのです。神は全き貞潔を要求されます。また軽薄な行動や言葉、みだらな響きを持つ一つの冗談ですら、その責任を逃れることはできないのです。

このような高い道徳の標準に照らして、自分の心を内省するとき、罪がわかってきます。キリスト教でいう罪とはこのようなものです。

この意味において、「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3章10節)「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ人への手紙3章23節)という言葉の真実性がうなずかれます。自分には罪がないという人は、その人の持っている道徳的標準の低さを告白しているのです。国家の定めた刑法には触れないかもしれません。しかし真に良心的な規準に照らして見るとき、すべての人に罪の自覚が起こるはずです。先に述べたグラットストンの言葉は、多くの人が鋭い良心、高い道徳の規準を失っていることを意味しているのです。罪の自覚の有無は、その人の道徳的規準の高低に依存するのです。

しかもこのような罪が、私たちの生活に及ぼす影響は決して小さいものではありません。それは一般的な犯罪にならなくても、私たち自身をむしばみ、私たちの周囲に深刻な、暗いかげを落としていくものです。

イエスはまた、この戒めを、神を愛し、人を愛するという言葉で表現されました。神を愛するものは、初めの4つの戒めを守ります。また人を愛するならば、殺したり盗んだりするはずはありません。神を愛し得ない、人を愛し得ないところに人間の罪の姿があるのです。この罪が、人間の生活をみじめな暗いものとし、現在私たちが毎日見ているような暗い社会を出現させた真の原因なのです。

すべての律法には、それを犯した場合の刑罰があります。刑罰のない律法は、律法ではなくただ一つの勧告に過ぎないのです。聖書は「罪の支払う報酬は死である」ローマ人への手紙6章23節)と述べて、神の律法における刑罰を明らかにしています。すなわち人間は神の律法を犯したことによって、死という運命を招いたのです。しかし神の子イエス・キリストの贖い、すなわち彼が人類の身代わりとなって、十字架にかかられたことによって、もう一度生命に至る希望を与えられたのです。

罪の性質

以上で聖書のいう罪とはどんなものであるかがおわかりになったと思いますが、聖書の中には、このような罪が人間にどんな影響を及ぼしているか、また罪の持ついろいろな性質が説明してあります。その中のいくつかを拾ってみましょう。

イザヤ書1章16節に、「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ」よとあります。すなわち罪は道徳的なけがれで、これは洗いきよめなければならないものとされています。「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ書64章6節)。人の目に立派に見えても、神の前にはけがれたものもあります。罪を犯した人間は、品性の純潔を失ってけがれたものとなったのです。イエスは人間の罪の身代わりになられたばかりでなく、人間の魂の奥にしみついている罪のけがれを全く洗い去ってくださるのです。そして私たちが本当に純潔な品性を持つことができる力を与えてくださるのです。今までの生活がどんなものであっても、決して失望する必要はありません。神は「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ書1章18節)と言われるのです。

ルカによる福音書5章30~32節には、罪のほかの面が記されています。

「パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、『どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか』。イエスは答えて言われた、『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』」

罪は心の病気です。肉体がいろいろな病で悩まされるように、心もいろいろな病を持っているのです。人が明るい、平安な、喜びに満ちた生活を送り得ないのは、心の病のためです。イエスは心の病をいやしてくださるのです。怒りやすい性質、ねたみにとらわれている心も、イエスのもとに来るときに変化してきます。ひねくれてしまった人間の心に、あたたかな愛の光が必要です。イエスの愛に触れるとき、魂は健康を取り戻すのです。そこに、はつらつとした生命にあふれた幸福な生活が始まります。クリスチャンはこの世において最も幸福な人々なのです。

人間は罪のために、霊的世界のことがわからなくなり、真理を示されても、それを悟り、受け取る力さえ失っています。イエスは盲人の目をお開きになったように、私たちの心の目を開いてくださいます。イエスのもとに来るときに、新しい世界が開けてくるのです。

罪はまた人間の心を支配する力となっています。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネによる福音書8章34節)。怒るまいと思ってもみずから制御し得ないところに問題があるのです。酒やタバコの害を知ってやめようと決心してもやめることができない人のように、人はいろいろ違った性癖や悪い習慣、気質のとりことなっています。しかしイエスは、奴隷の状態にある人間に解放を与えてくださるのです。

「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書8章32節)とイエスは言われました。人間は決して罪の中に満足した生活を見いだすことはできません。けれども自分の力でこれから抜けだすこともできないのです。イエスは人間を完全に罪から解放し、自由を取り戻してくださるのです。

人類の生活の根底をむしばみ、人類を永遠の滅亡におとしいれる罪を、イエスは完全に処理してくださいます。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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