第7課   イエスの生涯

目次

イエス・キリストはキリスト教の中心

毎年、クリスマスが盛んに祝われていますが、これはイエスの降誕を祝う日です。もっとも実際にお生まれになった日はわからず、むしろ冬ではないと思われますが、異教の習慣と結びついて世界中に広がったのです。

このイエス・キリストはキリスト教の中心です。

「イエスよりすぐれた人物があらわれるであろうか」との問いに対して、かつてロサンゼルス・タイムズの記者はこう答えました。

「1900年を過ぎた今日、なお彼に匹敵する人物は現れていない。彼の存在は独自であり、19世紀間を通じて、イエス・キリストの偉大さは減ずることなく、むしろ増している。今日かつてないほど人々の関心は、かのナザレ人に向けられている」

ナポレオンは次のように言ったと伝えられています。

「イエス・キリストは単なる人間ではなかった。アレキサンダー大王、カエサル、カール大帝や私は膨大な国家を建設した。我々のこの働きは何によってなされたか、武力である。しかし、イエスはその働きを愛の土台の上に置いた。彼は人の心を要求する。それが無条件に受け入れられている。時もこの聖い炎を消し得ない。最高の幸福をもって、人々を己がもとにひきつけている勝利者である」

イエスは今から約2千年前、ユダヤのベツレヘムに生まれました。そして33年半の地上での生涯を送られました。

イエスはあるとき、弟子たちに、「人々は人の子をだれと言っているか」という質問をされました。弟子たちは、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」と答えましたが、当時、人々のキリスト観はまちまちだったのです。そこでイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と、つっこんだ質問をなさったとき、シモン・ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。

これはクリスチャンの信仰の基礎です。イエスは「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」と言われました(マタイによる福音書16章13~17節)。

イエスを歴史的に偉大な人物、すぐれた宗教家とみる人は多くありますが、神の子、人類の救い主と信じることは、天からの示しによらなければできないことです。

キリストというのはギリシア語で「油注がれた者」という意味で、ヘブル語のメシヤにあたる語です。ユダヤで預言者や祭司または王が選ばれたとき、油が注がれました。イエスというのはやはりギリシア語で、ヘブル語のヨシュアにあたる語ですが、「主(神)は救い」という意味です。降誕の前に天使がヨセフにあらわれて、「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイによる福音書1章21節)と告げました。

降誕

イエスの降誕という世界歴史の最も大きな事件、人類全体に最大の影響を及ぼした出来事は、今から約2千年前、ユダヤの国ベツレヘムという小さな町に起こりました。今のパレスチナにある町です。

そのとき、この出来事は、わずかの人にしか知られませんでした。人々は忙しく生活の営みに追われて、この出来事の重要さに気がつかなかったのです。ベツレヘムの町は、国勢調査のために故郷に帰る旅人の群れで、ごった返していました。貧しげな、若い2人の旅行者(ヨセフとマリヤ)をかえりみる人はなく、彼らはやっと家畜小屋を見つけて、その一隅に泊まったのですが、その夜イエスはそこで降誕されたのです。

救い主降誕のおとずれは天使たちによって、ベツレヘムの近くの野で、夜、羊の群れを守っていた羊飼いに伝えられました。

罪を犯して神から離れた人類は、罪の結果起こったいろいろな苦しみや悩みの中にあえぎながら、もっと良い世界を望んできました。神は人類を救うために、神の御子イエスを地上につかわす計画を立てられました。その計画は、預言者を通して、各時代にわたって人類の希望のおとずれとして語られてきたものでした。

羊飼いたちは人類の問題の解決者であり、人間の生活に希望と力となぐさめを与え、人間を罪から救ってくださる救い主の来臨を祈っていたのでした。そのとき、天の使いがあらわれました。「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう』」(ルカによる福音書2章9~12節)と聖書は記録しています。そして、そこに多くの天使たちがあらわれて、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカによる福音書2章14節)と歌いました。

ユダヤの野にひびき渡ったこの賛美の中に、イエスを通して与えられる祝福―平和が告げられています。イエスを心に迎えるときに、すべての波風はおさまって、平和がのぞむのです。イエスを中心とした家庭に平和がのぞみます。キリスト教の精神の支配するところに、争闘はそのあとを断ち、平和が来るのです。イエスは本当に「平和の君」として、平和を与えてくださる方です。

天の栄光が去ったとき、羊飼いたちはベツレヘムに行って、救い主イエスを礼拝しました。

家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたイエスを礼拝したほかの人々がいました。彼らは東の国の学者たちでした。富裕な階級に属し、学識があり、社会的に有力な人々でした。そして同時に真摯な真理の探究者でした。

神の光は異教徒の暗黒の中にも輝いていました。この学者たちは天文学を研究し、輝いた星の軌道の背後に秘められた神の栄光をながめていました。彼らはさらにはっきりした知識を求めて、聖書を調べました。

ベツレヘムの丘に神の栄光が満ちあふれたあの夜、彼らは天に不思議な光を認めました。その光が消えさったとき、明るい星があらわれました。それは惑星でも恒星でもありませんでした。これが遠くにいた輝く天使の一群だったことは彼らにはわかりませんでした。

この現象に深く関心を刺激されて、古い文献を調べるうちに、彼らはバラムの預言の中から「ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえが起り」(民数記24章17節)という言葉を見いだしました。そして救い主を礼拝するために出かけたのです。

当時の最高の知性の所有者も、名もない羊飼いも、等しく救い主イエスの前にひざまずいて、喜びに満たされた事実は、イエスがすべての人の心の求めにこたえられることを象徴しています。イエスの降誕は本当に「すべての民に与えられる」喜びのおとずれであったのです。

これはただ個人的な影響ばかりではありません。イエスの降誕がなかったら、世界の歴史はどのようになっていたでしょうか。キリストの精神のない世界にどんなことが行われてきたかを考えれば明らかでしょう。この世界は、今日よりはるかに、悪の潮流に流されてしまっていたにちがいありません。

ベツレヘムの美しい物語は、希望を失った人々の心をあたたかにし、さびしい人の心に慰めと喜びを与えます。

星の輝くあの美しい夜空のもとで、飼い葉桶の救い主を礼拝して、喜び、賛美した博士たちや羊飼いたちのような体験に、私たちも入りたいものです。

キリストの神性、先在

イエスについて注目すべき一つの点は、その神性です。

聖書はこのことについて、はっきり述べています。

「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」「御子については、『神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである』」(ヘブル人への手紙1章3、8節)。

イエスは完全に人間の性質をそなえておられましたが、また神の子であり、神であったのです。ピリポが「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」と言ったとき、イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われました(ヨハネによる福音書14章8、9節)。イエスは「神のかたち」を示すために地上に来られたのです。イエスの生涯のうちに、私たちは天地の主なる父なる神のかたちを見ることができます。イエスの十字架を見たローマの百卒長は、「まことに、この人は神の子であった」(マタイによる福音書27章54節)と言ったのです。

「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネによる福音書20章30、31節)。つまり、福音書が書かれた目的は、イエスが神の子であることを示し、人々に救いを得させるためでした。またイエスは、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節)と言われました。聖書を深く学ぶとき、イエスは神の子であることがわかります。4つの福音書は、地上におけるイエスの生涯の記録であり、そこにイエスの一つの汚点もない完全なご品性を見ることができます。

イエスを知らないと言ったペテロに対して愛の目を向けられた姿、裏切って銀貨30枚でイエスを売ったユダが、人々を導いて捕らえに来たときにも「友よ」と呼びかけられた寛容さ、十字架につけて嘲弄する人々のことを、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈られた言葉のうちに、尊い神の子としての姿を見ることができます。

4つの福音書の中には、キリストの行われた30以上の奇跡が記されていますが、これはキリストの神性を証拠立てるものです。

また山上の説教をはじめ多くのたとえ話や教訓を語られましたが、その一つひとつに神の知恵が輝き出ているのを感じます。どんな時代にも、いかなる環境にも、決してすたることのない不変の真理が語られています。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイによる福音書24章35節)と言われたように、その言葉は、今日においても、悩みの多い人生のともしびとなって、人々の心を慰め、正しい道を教えているのです。

天の父なる神は、イエスの神性について、福音書の記録によれば、二度人々の前に示されました。「また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」「そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』」(マタイによる福音書3章17節、17章5節)と記されています。

パウロはイエスの神性について、次のように書いています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ人への手紙2章6、7節)。

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」(コロサイ人への手紙2章9節)。

「キリストは万物の上にあり、永遠にほむべき神なり」(ローマ人への手紙9章5節、文語訳)。

使徒ヨハネは、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書1章14節)とあかししています。

キリストは今から約2千年前にユダヤのベツレヘムに生まれ、30年あまりの地上の生活を送り、紀元31年に十字架にかかられました。しかし聖書は、イエスが世の初めから存在しておられたことを示しています。これを「先在」といっています。十字架にかけられる前の最後の祈りの中に、「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」(ヨハネによる福音書17章5節)との言葉があります。

「御子(キリスト)は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ人への手紙1章15~17節)という言葉によると、キリストは神であり、万物を創造されたことがわかります。

キリストについての預言

今から約2千年前ユダヤのベツレヘムに生まれたイエスが、真の神であり、この世の救い主であったことの有力な客観的証拠の一つは、イエスについての多くの預言です。旧約聖書には来たるべき救い主は、いつ、どこに、どんな状態で生まれるか、またどんな働きをされるかが詳しく示されていました。救い主の来臨は、人間の希望のみならず、神の約束でした。

その中の著しいものをあげてみましょう。

降誕の場所について、「ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る」(ミカ書5章2節)とありますが、多くの地上の場所が考えられる中で、この小さな町が指示されていたのです。

イザヤ書7章14節には、「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」とあり、処女降誕は救い主の一つのしるしでした。

降誕の直後に起こったベツレヘム付近の幼児の殺戮については、エレミヤが預言していました(エレミヤ書31章15節)。

イエスが救い主としての仕事を始める時期については、ダニエル書9章に詳しく預言してありました。これによってイエスが紀元27年にバプテスマを受けて公生涯に入られることが示されていたのです。

神に選ばれて、福音宣教の使命を担っていたユダヤ民族が、イエスをいかに迎えるかについて、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ書53章3節)と言われていましたが、新約聖書の記録を見ると、その通りであったことがわかります。すなわち、ヨハネによる福音書1章10、11節に、「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」とあります。

イエスは葬られて後、3日目によみがえられましたが、詩篇16篇10節にこのことが預言されていました。「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである」

そのほか、数多くの預言が与えられて、それが一つ残らず的確に成就したことは驚くべきことです。ある人々は、これらの預言はキリストの後に書かれたものではないかと疑いますが、旧約聖書が紀元前に書かれたことについては疑う余地がないのです。

救い主としてのイエス

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイによる福音書20章28節)。

神であるキリストが地上に来られたのは、罪を犯して死の運命にある人類を贖うためでした。神の律法を犯した人類は、死の宣告を受けたのですが、イエスは自ら人類の身代わりとなって十字架の上に生命を捨て、信じる者を滅びから救い出してくださったのです。

キリストの十字架上の苦しみは、罪人である私たちのための身代わりとしてなされたのです。ルカによる福音書15章に語られた失われた羊のたとえのように、多くの世界のうち、この地球ただ一つが失われたのです。しかし99匹の羊をおいて、ただ1匹の失われた羊をさがしに出ていった羊飼いのように、イエスはあらゆる苦しみをしのんで、私たち一人ひとりを求めてくださったのです。またイエスはこの地上で罪人が、あなた一人であったとしても、そのために十字架にかかってくださるお方です。イエスはあなたの、また私の救い主なのです。何の価値もない、神に反逆した者のために生命を与えてくださったのです(ローマ人への手紙5章6~8節)。

ベツレヘムの飼い葉桶からカルバリーの十字架に続く、血にいろどられたイエスの生涯は、悩みと苦難の体験でした。それによってイエスは人間の真の同情者、真の友となられたのです。

イエスの生涯は十字架で終わりませんでした。イエスご自身しばしば語られていたように、復活された後、天に昇られました。そして今、神の御座において、私たちのために罪のとりなしをし、また聖霊を通して常に私たちとともにいてくださるのです。

イエス・キリストはキリスト教の信仰の中心です。イエスを知り、イエスを愛し、イエスによって生きていく生活こそ、全きクリスチャンの生活なのです。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

印刷用PDFと7課の確認クイズ

印刷用PDFのダウンロードはこちらから

聖書を学ぼう!

会員登録後、聖書について学べるコンテンツを無料でご利用いただけます。

よかったらシェアしてね!
目次